カラオケの受付を終えて部屋に入るも、その直後に俺は違和感を覚えた。
「……なんか、狭くないですか」
「うん、狭い気がする」
俺と
設備を見ても、テーブルと長椅子が一つあるだけ。マイクも一本しかなかった。
「……まさかこの部屋、一人カラオケ専用の部屋だったり?」
室内を見渡しながら、部長は顔をひきつらせる。
そういえば最近は一人カラオケがブームらしく、店によっては専用の部屋が用意されている……なんてニュースを見た記憶がある。
「内川くんが一人で受付したから、一人カラオケと勘違いされたんだよ、きっと」
「いやまあ、確かに一人だったですけど……」
部長の姿は店員さんには見えないし、俺一人で来店したように思えたかもしれないけど……実際には二人で来ているのだ。それだと、この部屋は狭すぎる。
「いくらなんでも狭いですよね……部屋、変えてもらいます?」
「でも、さっき受付で部屋の変更はできないって言ってたよ? 大型連休中だからって」
「あー、言ってましたね。そんなこと」
店員さんとのやり取りを思い出し、俺は頭を抱える。
「まあ、文句言っても仕方ないし、とりあえず歌おうよ!」
そんな俺をよそに、部長は開き直ったかのようにマイクを手に取る。
「ところでこのマイク、私の声を拾ってくれるのだろうか」
彼女は恐る恐るマイクの電源を入れ、ぽんぽんとヘッド部分を叩く。無反応だった。
「あ~! ただいまマイクのテスト中~!」
「……マイク、反応してないみたいですね」
続いて声を張り上げるも、その声が大きくなっている様子はなかった。それでも部屋が狭いせいか、十分な声量に思えた。
「ぐぬぬ……ダメか」
心底悔しそうな部長からマイクを受け取り、軽く声を出してみる。自分でも驚くほど声が大きくなった。
どうやらマイクも彼女のいうところの『意志を伝えるもの』に含まれるようで、持つことはできるものの、機械的に反応しないらしい。
「いいもん! この部屋狭いから、大声出して歌うし!」
半分拗ねたように言いながら、長椅子に腰を下ろす。そして目の前にあった入曲リモコンを手にする。
「うぐっ……こっちも反応しない」
しかし、それも反応せず。スマホが反応しないのだから、当然といえば当然だった。
「ま、負けないぞっ……文明の利器に頼らず、こっちを使おう」
続けてそう言い、テーブルの下から分厚い本を取り出した。
「それ、なんですか? 随分古そうですけど」
部長の隣に腰を下ろしながら尋ねる。昔、祖母の家で見た電話帳のようだった。
「曲番号が載ってる本だよ。私はそのリモコン使えないから、これで曲探すの」
言うが早いか、ぱらぱらとページをめくっていく。
これも部長の姿が見えない人からしたら、勝手にページがめくれているように見えるのだろうか。
「私は時間かかるから、内川くんお先にどうぞ」
「え、お先にどうぞと言われても……」
俺は手渡されたリモコンを見ながら固まってしまう。これまでカラオケで歌ったことすらないのに、いきなりトップバッターなんて無理だ。
「仕方ないですなぁ。それでは
俺が
そこに書かれていた番号を入れると、軽快なイントロが流れ始めた。
少し前に流行ったアイドルのもので、一時期毎日のようにテレビで流れていた曲だ。俺にも聞き覚えがある。
「内川くん、マイク貸して」
「え、でも反応しませんよね?」
「雰囲気が大事だから! いいから貸して!」
気圧されながらマイクを手渡すと、彼女は上機嫌で歌い始める。
……上手い。
その歌唱力もさることながら、歌うことを楽しんでいる――そんな印象を受けた。
……しかし、そんな彼女の歌声よりも、気になったことが一つ。
近い……ひたすらに近い。
本来一人用の部屋だからか、設置されている椅子は微妙に幅がない。
それこそ、二人で座ったら肩が触れ合ってしまう距離だ。服越しに彼女の体温が伝わってくる。
それに気づいてしまったことで、歌の後半はほとんど耳に入らなかった。
「はー、三年ぶりだから声の出し方がイマイチわからなかったよー。ほい、次は内川くんの番」
満ち足りた表情を浮かべながら、部長は俺にマイクを渡してくる。
今の歌でイマイチ? 音程も完璧だったし、何よりマイクが反応していないことを忘れそうなくらいの声量だったけど。
内心恐怖すら覚えながら、俺は歌えそうな曲の番号を入力したのだった。
「……特徴的な歌声だったね! リズム感はよかったよ!」
そして俺が歌い終わると、部長は言葉を選ぶように感想を口にする。
「言ったでしょう、カラオケは初めてなんですよ」
そう言い訳するのが精一杯だった。とてもじゃないけど、部長が近すぎて緊張したんです……なんて言えなかった。
「じゃあ、少しでも上手くなって帰ろう! ここ、採点もできるし!」
「自分の下手さ加減を再認識したくないんですが」
「いいからほら、採点機能入れて!」
結局、部長に押し切られる形で採点機能をオンにする。その流れで、もう一曲続けて俺が歌うことになった。
「71点……」
歌い終わったあと、画面に表示された数字は無慈悲だった。
この手の機械はそれなりに歌い手を持ち上げてくれると聞くけど、画面に表示された全国平均点に比べても、俺の得点が低いのは明白だった。
「こ、これを基準にして、次は1点でも上を目指そう!」
部長はそう言って励ましてくれるも、続く彼女の歌を聴いてしまうと、その実力差を嫌でも思い知らされる。
「ぐぬぬ、今のは絶対80点台後半はいってたよね?」
部長の歌はマイクが拾わないので、採点結果は常に『測定不能』と表示される。それが俺にとって、唯一の救いだった。
点数は出ていないけど、もしかしたら90点台は硬いかもしれない。それくらい、彼女の歌は上手かった。
……そんなこんなで時間が過ぎ、だんだん歌のレパートリーもなくなってくる。
「そろそろ持ち歌もなくなってきた感じ? じゃあ、これ入れてみる?」
「え、これってデュエット曲ですよね?」
「有名なやつだけど、歌えない?」
「一応、歌えますけど……」
そんな俺を察してか、部長が選んだのは男女で歌うデュエット曲だった。
その気持ちはありがたい。ありがたいのだけど……。
「ほら、もっとくっつかないと」
「は、はい……」
マイクは一つしかないし、歌詞を見るために同じ画面を覗き込むということもあって、必然的に距離が近くなる。
それこそ、完全密着といってもいいくらいだ。下手に腕を動かしたら、彼女の胸に触れてしまいそうで怖い。
「内川くん、声出てないよー。もっと頑張れっ」
俺の心配をよそに、部長はどこまでもテンションが高かった。
そんな彼女を見ていると、俺はあることに気づく。
部長はただ歌うだけじゃなく、自分の歌を誰かに『聴いて』ほしかったのかもしれない。
この人の歌を聴くことができるのは、俺だけだし。
そういうことなら、なるべく長くこの時間を楽しんでもらおう……俺は心の底から、そう思ったのだった。