その日の放課後、俺はイラスト部の部室にやってきていた。
改めて室内を見渡してみると、その壁際にはイーゼルや画板が重ねて置かれ、画材の詰まった棚の上では石膏像が睨みを利かせている。
元々はどこにでもある教室のはずだけど、その面影は黒板くらいのものだった。
「委員長の子を口説き落としたんだって? 助言をしたのはこの私だけど、即座に実行するとは……内川くんもなかなかやるねぇ。このこのー」
「部長、地味に痛いんで脇腹を小突かないでもらえますか」
その部屋の中央には寄せ集められた机があり、広い作業台と化していた。
俺と
「それにしても……来ないね、その子」
組んだ両手の上に顔を載せながら、部長は部室の入口に視線を送る。
「帰りのホームルームで担任に用事を頼まれていたので、少し遅くなるそうですよ」
「そうなんだ。委員長さんの宿命だねぇ。でも、来てくれるだけで大歓迎。しかもその子、私の気配を感じ取ってたんだよね?」
「そうですね。神社の娘さんらしいですし、なんか感じてるっぽかったですよ」
「内川くんと出会えただけでも奇跡なのに、似たような力を持つ子がもう一人……? いやー、今年の一年生は豊作ですなぁ。これはワクワクが止まらないよー」
彼女は胸の前で両手を合わせながら、体を左右に揺らす。
待ち遠しい気持ちは理解できるけど、少し落ち着いてほしい。肩、ちょくちょく当たってるし。
それから30分ほど経過するも、
「担任からの頼まれごと、予想以上に長引いてるのかもしれませんね。ちょっとジュース買ってきますよ。部長、何がいいですか?」
「あ、私は飲めないからお構いなく。幽霊だからさ」
なんの気なしに尋ねると、彼女はひらひらと手を振りながら苦笑いを見せた。
……そうだった。至って自然にそこにいるから、つい幽霊であることを忘れてしまう。
「やっぱり幽霊だと、飲んだり食べたりはできないんですか?」
そうなると、自分だけ飲むのもはばかられる。俺は一旦浮かせた腰を戻しながら尋ねた。
「うん。できないよ。なんかね、食べ物が貫通しちゃう」
貫通? よくわからない表現だった。
「お腹も空かないから別にいいんだけど……匂いはわかるし、大好きだったドーナッツが食べられなくなったのはつらい」
心の底から残念そうに言って、彼女は天を仰ぐ。
「あ、ちなみにこの部室、絵を描いてる時以外は飲食オッケーだからね」
かと思えば、急に笑顔になってそう口にした。この人も表情がコロコロ変わる。
「お昼休みにお弁当持ってきて食べてもいいよ。そのほうがお話もできるし、私も嬉しかったりする。それとも、内川くんは学食派?」
「いえ、あの混雑の中に飛び込んでいく勇気はないので。コンビニですね」
「コンビニより購買のほうが安いよー? あ、でも混雑するって点では学食と大差ないか。でも時間をずらすと人気のカツサンドややきそばパンが買えないし……」
口元に手を当てながら、もにょもにょと何か言っていた。
「詳しいですけど、部長は購買派だったんですか?」
「ううん。お弁当派。結局、一番安いのは自炊なんだよー?」
俺を見ながらこれ見よがしに言う。遠回しに自炊しろと言っているのだろうか。
「親元離れて一人暮らしなんで、自炊は勘弁してください」
「そっか、美術部入るためにわざわざこの学校を選んだって言ってたっけ。私が作ってあげるわけにもいかないし、しばらくはコンビニ生活だねぇ」
「そうなりますね。というか、やっぱり幽霊だから包丁とか握れないんです?」
「ううん。食べられないから、味見ができないんだよ」
「ああ、そういうことですか……」
自分の唇に手を当てながら、彼女はため息まじりに言う。
自由奔放に過ごしているように見える雨宮部長だけど、実際は色々と不便なこともあるのかもしれない。
「そうだ。いくつか聞きたいことがあるんですけど」
「何かね? 乙女の秘密の数字以外なら教えてあげるよ」
「そんなこと聞きませんって……部長って幽霊なら、宙に浮かんだりできるんですか?」
「できないよ。内川くん、アニメとか映画の見過ぎじゃない?」
まるでかわいそうなものを見るような顔をされた。だって、興味あるし。
「ついでに、壁を通り抜けたりもできない。きちんと扉から出入りしないと」
どっかりと椅子に座りながら言う。そういうことなら、椅子や机を通り抜けるなんて芸当も無理なのだろう。
「その代わり、こうやって大抵のものには触れるんだけどね」
そう言って、目の前にあった鉛筆削りを持ち上げる。
「でもこれやると、私が見えない人には鉛筆削りが勝手に浮かび上がったように見えるっぽい。前にやってみたら、皆、叫んで逃げてた」
なるほど。いわゆるポルターガイストというわけだ。
「でも、中には触れないものもあるって言ってましたよね」
「そうなんだよー。私も幽霊になってから色々と試してみたんだけど、意志を伝えられるものには触れられないの」
「意志を伝えられるもの?」
「例えばペンとかの筆記用具だねぇ。スマホも無反応だし、パソコンのキーボードもダメ」
そう言い切るあたり、全部試してみたのだろう。
「物を並べて文字の形にするとかもやってみたけど、途中で動かせなくなるの」
とりあえず、他人に意思を伝えようとする行為が無理らしい。幽霊も中々に制約が多そうだった。
「内川君、遅くなってごめーん」
部長とそんな話をしていた時、部室の扉が開いて、へろへろになった汐見さんがやってきた。