入って直ぐ左が台所。その奥には散らかった和室があり、開けたままになった部屋の仕切り戸から投げだされた足が見えている。
「警察です。誰かいますか?」
ゆっくり中に入ると、見えていた足の人物は血を流して倒れていた。腹と下半身を執拗に刺されたのか、かなりの出血量だ。頭の方に回り込んで首で脈をとるが、既に事切れていた。
顔は映像で見た男だった。遺体を確認していた鈴はある事に気がついた。そして自分が見た映像を思い出して愕然とし遺体から黒い靄が続く押し入れを見つめる。
怨霊は何でこんな事をさせたのよ。でも、殺してしまったのなら罰は受けないといけない。
それが社会だけど――子供を虐待していたあの母親にも怒りが湧いたが、今回はこんな事をさせる怨霊に対して初めて鈴は腹の底から怒りが湧いていた。
鈴は押し入れの中をあえて確認せずに、加地に電話をする。
「もしもし加地さん。今どこですか?」
「もう一、二分で着く」
「今、探していたアパートの部屋にいるんですが」
「はあ? お前、何で待てないかなあ」
「すみません。住人が刺されて死亡していました。管轄の警察署へ連絡します」
「分かった。アパート名は?」
「関コーポ二〇四号室です」
「ああ、今ちょうど着いた。今から上がる」
少ししてからカンカンと外から階段を蹴る音が聞こえてくる。
「守矢」
「ここです加地さん」
頭を掻きこれ見よがしに鈴に前でため息をこぼす。
「桜葉の坊ちゃんから下で聞いた」
「え?」
「桜葉さんも責任感が強い人だが、別にデートの途中じゃなくてもいいんじゃないのかって言っといた」
「はあ」
加地が何を言っているのか鈴にはさっぱり分からないが、桜葉がここに来る事になった流れに関して何か説明をしたんだと分かった。
桜葉さんは加地さんに何て説明したんだろう。あの人は私の行動が理に叶っていないと見ていて知っているはず。隙を見て桜葉さんと話を合わせないと。
鈴が内容を整理している間、遺体を確認している加地は眉間に皺を寄せていた。
「死んでからまだ時間は経っていないな。犯人らしき人物は見たか?」
「いえ」
「部屋が荒らされた……というか散らかってはいるが、物取りって訳でもなさそうだな。怨恨の線かもしれんな」
ガタンと押し入れの中から音がした。加地が鈴に視線で合図を送ってくる。
押し入れを開けたくない。でもここで開けないと不自然極まりない。鈴は諦めて押し入れを開けた。
「え?」
「どうした?」
「子供が、います」
「え?」
押し入れの中に、兄が弟をかくすように抱きしめて隠れていた。上の子は小学低学年くらいで弟は五歳くらいだった。
「君たち、この部屋の子供か? おじさん達は警察官だ。もう大丈夫だよ」
弟を抱える兄のほうは手負いの獣みたいに鈴たちを見てくる。
「大丈夫だから出ておいで」
「――本当に? 僕たちに何もしない?」
兄のほうは品定めするかのように、言葉に意味を含ませて聞いてきたが、加地がそれに気が付いているかは分からない。
「おじさんたちは警察官だ。何もしないさ。名前は?」
「後藤勇気。弟は正樹」
少しして兄弟はゆっくり這って押し入れから出てきた。黒い靄は弟の方に濃く纏わり付いた。
「お兄ちゃん」
「大丈夫。この人たちはお巡りさんだから。お兄ちゃんが付いてる」
加地さんはあの下半身部分に集中している傷に気が付いているんだろうか。
このまま知らない振りをしたいけど、弟の方に付いている怨霊をどうにかしないと。
鈴はそれらしく弟のほうに手を伸ばす。服から出ている腕にはアザや火傷の痕が見えるに堪えない程にあった。加地も兄のほうの体をチェックして顔を顰めている。
あれ? そう言えば服が汚れていない。着替えた? 兄の方から視線を感じた鈴は、弟の方の服が汚れていない理由が分かった気がした。
隠し通すつもりなんだ。頭のいい子だ。この状況から見れば兄弟で支え合って何とかしてきたんだと鈴にも理解はできた。
「とにかくこの部屋から出しましょう」
「そうだな」
鈴は弟の方を抱き上げつつ大祓詞を小声で唱える。
「イヤーーッ!」と鈴が抱き上げて唱え始めると奇声を上げ、体をそり始めた。
バランスを崩しそうになった鈴は、抱いておくことが出来ずに下におろした。そしてアッと思った時には鈴の横腹に子供が隠していたハサミが刺さっていた。
しくじった! と鈴が思った時には、横腹が燃えるように熱くなっていた。子供だから持ち物を調べていなかった。
でもここで止める訳にはいかない。加地が鈴を呼んでいるが、答えている暇はない。刺された瞬間の鋭い痛みが、鈍い痛みに変わってくる。
それでも子供を抱きしめたまま大祓詞を唱え続けると、子供は力が抜けてそのまま気を失った。
子供を落とさないように鈴は片膝を付いた。加地が連絡した所轄のパトカーと救急車のサイレンが混じり合いながらアパートの下で止まる。
「――くそ痛っ!」
「お前! 大丈夫か?」
「大丈夫です。そんなに深い傷ではないと思います。でもメチャクチャ痛い」
加地が駆け付けた警察官に指示を出しながら、鈴の腕を肩にかけて救急車まで運んでくれた。
「鈴さん!」
異変に気が付いた桜葉が取り乱した様子で車から下りてきた。桜葉の服に水玉模様が出来上がっていくのを、鈴はぼんやりと見ていた。
「血が!」
「ちょうどいい。桜葉さん、守矢を病院まで付き添ってやってくれ。俺はもう少しここに残る」
「もちろんです。車があるので後ろから付いて行きますが、任せてください」
「別に桜葉さんは関係がないんで、帰ってもらっても」
「刺されたんですよ!」
「あ、はい」
この人、大きい声が出るしこんな表情ができるんだなと鈴が、見たことがない桜葉の態度にほんの一瞬だけ痛みを忘れる事ができた。