悠真はあえて東久瑠コミュニティの縄張りを走った。
哉藻は約束を果たしているのか、シボレーは何事もなく快調に進んだ。
何故かラ・モールもクジラたちも追ってはこない。
というか、そもそも彼らの目的がわからない。
アパートに到着すると、ありがとうございますではなく、祥無がおかえりな
さいと二人を迎えた。
「とりあえずは、おまえに診せるのが一番とおもってさ」
深羽を抱きかかえた悠真は祥無にいって、落ち着いた呼吸をしたまま意識の
ない少女をベッドに寝かせた。
「これは、あとで洗濯が大変ですね」
呑気なことを言って、祥無は深羽を覗き込んだ。
深羽はボロボロの服で、血と泥にまみれた姿だった。
改めて明かりの元で照らされた姿は、幼い容姿もあって凄惨といっていい。
「大丈夫なのかよ?」
一見、感心もなさそうに電子タバコを咥えたまま、近くの椅子に座る。
「偽死状態ですね。相当、外部への負荷を懸念したものと思います」
「外部?」
祥無はうなづく。
「今、深羽の意識はかなり不安定です。それで万が一を考えたのでしょう」
悠真は、宵の言葉を思い出した。
そして、多賀見神社で何があったのかも。
いまさら、黙って成り行きを見ていただけの祥無に怒りはわいてこない。
大体、この少年はここから移動させないほうが都合が良いのだ。
「いつまで、この状態が続く?」
「そうですねぇ、ちょっと待っていてください」
祥無は深羽の広い額に手をあてた。
彼の眼球が細かく微細に揺れる。
しばらく経ち、ため息交じりの苦笑をして、悠真に向き直った。
「手に負えません」
「そうか……死ぬわけじゃないんだろう?」
「多分」
「……曖昧だなぁ、おい」
ぼんやりとした表情はそのままに、眼光だけが鋭くなる。
「そんな顔されても困りますよ」
小首を貸しげて、答えようがないといった祥無だった。
「役に立たないもんだ」
煙を吐き、悠真は鼻を鳴らした。もう、いつもの気だるげな様子にもどって
いる。
「申し訳ありません」
祥無の声は淡々としたものだったが、どこか感情の片鱗を感じさせるものだ
った
この少年にしては珍しい。
それほどに、今の深羽から無力感を受けているということか。
燈霞と完全に一体化していると言って過言ではない祥無が。
部屋の雰囲気はどこか重たげで暗いものになっていた。
「……あのな、笑うなよ?」
「どうしました?」
しばらく逡巡し、悠真は指の間に電子タバコを挟んで口を開く。
「化け物をみた……」
「御堂ってラ・モールの男ですか?」
「違うだろう。わかってて言うなよ」
祥無はニッコリとして、うなづいた。
「わかります」
「だいたい、あんなもんがいるわけないだろう、この世界に?」
「そうでしょうか? 例えばリンク・チップによるフラクタル・ネットワーク
は、人間の人間による人間のための空間を造るものです。端的にいって、力学
は情報化されてひさしいのですが条件として、必要なモノ以外を斬り捨ててい
ます。なので、知覚外の存在の可能性は普通にあります」
悠真は無言になった。
電子タバコを再び咥え、ちらりと深羽に目をやる。
彼女はただ静かに横たわていた。
「……まいったもんだ。長い間、人間ばっか殺してきたけど、化け物相手にし
たことなんてないわ」
半ば呆れた溜め息のようにつぶやく。
突然、その顔面に枕が飛んできてまともに叩きつけられた。
手だけで落ちた電子タバコを拾うと、こちらを睨んでいるベッドに胡坐をか
いた深羽がいた。
「……どうせ、手のかかるクソガキとでも思ってんだろう?」
声は低く、淡々としたものだった。
「あー、なんだよ?」
急なことで、悠真はついていけない。
「うるせぇ!」
深羽はベッドから降りると、しっかりとした足取りでそのままアパートを出
て行った。
「せめて着替えて行ってほしかったですねぇ」
呑気な祥無だ。
ぼんやりとドアを見つめる悠真に、追いかけてくださいと付け加える。
言われるまでもなかった。
「何怒ってるんだよ?」
真後ろを歩きながら、悠真はいつも通りの口調で声を掛ける。
「もう、おまえは用済みなんだよ! どっか適当なところに行く!」
「はぁ? いきなりすぎんだろう?」
深羽は振り向きもしないで、力ずよい歩調のまま、暗い路地を真っすぐに進
んでゆく。
「どうせすぐ死ぬじゃねぇか!」
悠真は頭を掻いた。
「あんなぁ、舐めてんじゃねぇぞ? そんな簡単にコロっと行くかよ。大体一
人で多賀見神社行くとか、どういうことだよ?」
深羽は無言だ。
悠真の目も、段々と座ってくる。
「どこか目的地はあるのか?」
「伊瑠コミュニティ」
厭味ったらしく、それだけを言う。
悠真は鼻を鳴らした。
「ああ、伊瑠な。哉藻は手なづけたから、悪いようにはしないだろう。勝手に
行けよ」
煙を吐きは、悠真は来た道を戻ろうとした。
深羽の足が止まる。
「……おい!」
「あー?」
面倒くさげに振り向くと、目を潤ませて怒りの顔を満面に浮かべた深羽が、
彼を睨んでいた。
「ふざけんじゃねぇよ!! 止めろよ!! やっぱてめぇはその程度にしかオ
レのこと考えてなかったのかよ!!」
悠真は表情を消した。ふと星も見えない夜空を見上げて、煙を吐く。
「……俺はもう死ぬ。最後くらい、カッコつけさせてくれよ?」
吐息の用の声だった。
深羽はすでに涙が垂れている目で彼を見つめたままだった。
「おまえは俺が守るよ、安心しな。絶対にだぜ?」
流石に照れたのか、そっぽを向きながら苦笑していた。
「馬鹿やろう!!」
深羽は思わず彼に抱き着いた。
小さな体とは思えない力に、悠真は戸惑った。
「死ぬとか言うな!! そんなために守られたくねぇよ!! おまえも生きる
んだよ!! 俺が何とかしてやる!! 祥無もいる!! だから……だから…
…見捨てるようなこと言うな……」
最後は嗚咽と共に吐き出されてはっきりしなかったが、十分意図は伝わっ
た。
悠真は一つ息を付くと深羽をそのままにして頭をなでてやった。
腹部に鈍痛を感じながら。
湖守からみて、V・L・S(ヴァリス)は明らかに怯えていた。
苛立ちをそのままむき出しにしているが、原因は己の存在に危機感を覚えて
いるのだろう。
ヴァリスは伊瑠コミュニティにとって、燈霞から奪い取った「神」と呼ぶべ
きA・Iであり表面上の伊瑠コミュニティのトップである。
狭い円錐状の部屋の真ん中に立つ古守の周りに、百近い浮遊ディスプレイが
浮かび、それぞれ文字を流し続けている。
同じ文字だ。
『ゆるさん』
『皆殺しだ』
『私の恐ろしさを知らしめてやる』
ただ、それだけの文字が永遠と続いていた。
確実に発狂している。
湖守は静かに考えていた。
ヴァリスがどうなろうとしったことではない。とにかく、伊瑠コミュニティ
の頂点に燈霞の存在があるということに意味があるからだ。
ただ、今回が周りに被害がでそうである。
彼は部屋から出ると、執務室に向かい、ヴァリスの管理技術主任を呼んだ。
「状態は堂んな感じなんだい?」
労わるかのような態度で、椅子をすすめる。
主任は実際、かなり疲れているらしく、顔色も悪く生気がない。ただ、以上
に目だけがらんらんと光っている。
クスリか。
湖守は彼の立場なら幾らでもやり放題だと思っているので、何も言わなかっ
た。
「……ヴァリス様はかなりの混乱状態にあります。原因はわかっていません。
ただ、これから製造されるリンク・チップの方に影響がでるかと」
「どんな?」
「意識の視野狭窄、とでもいうのでしょうか。自由に意識を操れていたフラク
タル・ネットそのものから、使う人間に閉塞感や不快感が現れると思われま
す」
湖守は机についたまままま、少し考えた。
「……わかった。今日はゆっくり休んでくれ」
サイフから、電子マネーのカードを渡す。
悠真の時との扱いがまったく違った。
「ありがとうございます……」
主任は素直に言葉とカードを受け取り、部屋を出て行った。
浮遊ディスプレイで数人と連絡を取り、状況を確認する。
どうやら、おかしくなったのは、伊瑠コミュニティの「神」だけではなく、
日本中の管理を行っている「神」的存在に不具合が起こっているらしい。
「神」とは、燈霞の代理的存在である。
人間もイマジロイドも、燈霞の機能は与えられるが、それだけだ。
燈霞に何か要求を仕様とした時、橋渡しとして「神」の存在が必要なのだ。
だが、このありさまである。
湖守は企画部と生産管理部の責任者と連絡を取り、この状況下の対処を練る
ことにした。