とうとうこの日が来た。

　黒崎智彦、貴様に復讐するときが。

　メイドに扮ふんしたその男は口の端を上げた。

　彼の名は藤堂とうどう。

　藤堂は智彦が取引をやめた会社の社長の息子だった。

　智彦に切り捨てられたことで会社は経営難に陥おちいり、彼の会社は破綻はたんした。

　智彦のせいで会社が潰つぶれたと思った彼は復讐を計画した。

　彼は少し前から新人のメイドとしてこの家に侵入していた。

　そして、智彦が一人になり油断するときを待っていた。今までもその機会はたくさんあったが、あの旭という執事が邪魔だった。

　少しの気配も見逃さず常に黒崎家の人物に気を配りつづけていた。

　あいつには隙がなかった。

　しかし、最近旭は屋敷を空けることが多くなった。

　これは絶好の機会だ、そう思った藤堂は計画を実行することにした。

　今も智彦は一人部屋でくつろいでいる。

　旭もどこかへ出かけていない……今ならいける！

　藤堂は智彦の部屋のドアをノックすると、扉を開けた。

「失礼いたします」

　ゆっくりと智彦に近づいていく。

「旦那様……」

　呼ばれた智彦は振り返る。

　すると、至近距離にメイドが佇たたずんでいることに驚く。

「なんだ？」

「旦那様は藤堂という人物を覚えておいでですか？」

　急に変なことを聞いてくるメイドに、違和感を覚えた智彦は眉を寄せる。

　そのとき、部屋の扉が勢いよく開くと、旭とさくらが姿を現した。

　少し遅れて、聖も駆けつける。

　さくらは智彦に向かって走り出す。

　それに反応するかのように聖がさくらのあとを追っていく。

　藤堂は急に現れたさくらたちに驚き、行動が遅れていた。

　急いで隠し持っていた包丁を握ると智彦に向けて振り下ろす。

　確かに人間を刺した感触があった。が、それは智彦ではなかった。

　包丁が刺さり倒れた人物……それは、

　「聖様！」

　さくらが叫ぶ。

　智彦に向けられた刃は、智彦を庇かばったさくらに向かうはずだった。

　聖がさくらを庇わなければ。

　咄嗟とっさに智彦を庇ったさくらを、聖が庇ったのだ。

　失敗したことを知った藤堂はもう一度智彦を刺そう試みるが、颯爽さっそうと現れた旭が包丁を握る手を蹴り飛ばした。

　包丁は放物線を描き、遠くの床に落ちる。

　逃げようとする藤堂を旭が羽交はがい絞じめにして捕らえる。

　手際よく縄で縛り、逃げないように固定する。

　次に旭は携帯電話で救急車を呼ぶと、聖とさくらを一瞥いちべつし部屋を出て行った。

　さくらは倒れて動かない聖の側へ行き、恐る恐る触れるとそっと揺すった。

「聖様、聖様？　どうして、なんで……」

　さくらは泣き叫ぶこともせず、静かに聖に問いかける。

　あまりの出来事に、感情が出てこない。頭が真っ白になり、何も考えることができない。

「聖！　聖！　なんで、こんなことにっ……死ぬなあ！」

　智彦は、先ほどから気が狂ったように泣き叫びながら、聖の側に寄り添っていた。

　部屋に戻って来た旭は冷静に二人を聖から離す。

　そして持ってきた救急箱を手に応急処置おうきゅうしょちをはじめた。

「聖様は……大丈夫ですよね？」

　弱々しく尋ねるさくらに、旭は頷き返す。

「大丈夫、これぐらいで死なない」

　そう言いつつ、聖から流れる血の量に顔をしかめる旭だった。

　病院に運ばれた聖は、すぐに手術室へと運ばれていく。

　皆、祈るような気持ちで聖の無事を待った。

　それは長く、途方もない時間のように思われた。

　待っている間、さくらの体は震えていた。

　恐くて仕方ない、聖を失ってしまうかもしれないその恐怖に、さくらは耐えられそうになかった。

「さくらさん、大丈夫ですか？」

　旭が、温かいココアの入った紙コップをさくらに差し出す。

　さくらは戸惑いながらも、それを受け取る。

　一口飲むと、なんだかほっとして、心が落ち着きを取りどしていった。

「ありがとう……」

　旭は優しく微笑むと、さくらの隣へ腰を下ろした。

　こういう気遣いに、いつも救われる。

　本当に旭には頭があがらないことばかりだ。

　さくらは旭に感謝しつつ、聖の無事を祈り続けていた。

　旭の処置が早かったおかげで、なんとか命をとりとめた聖は病室へと移された。

　しかし意識は戻らず、聖はずっと眠り続けている。

　医者からはいつ目覚めるかわからないと告げられた。

　眠り続ける聖に、智彦はすがりつきながら泣いて謝ることしかできない。

「聖、すまないっ、こんなことになるなんて！

　私が刺されればよかったのだ、おまえが刺されることなんてなかった。

　……目を覚ましてくれ！！」

　泣き崩れる智彦の肩にそっと手を置いた誠一は、悲し気に聖を見つめる。

「馬鹿だな、本当に……」

　誠一の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。

　聖の横でずっと手を握ったまま動かないさくら。

　固まってしまった人形のように、ただずっと聖の手を握り続けていた。

　それから、一週間が過ぎた。

　さくらはずっと聖の側にいた。一時も離れることなく、世話をしたり、話しかけたりする毎日。

　智彦も誠一も、さくらが側にいる方が聖も喜ぶだろうと、世話をさくらに任せ、一日に一度見舞いに来る程度だった。

　さくらは聖の手を握りながら話しかける。

「聖様、どうか目を覚まして。

　早くあなたの笑う顔が見たい、優しい声が聞きたい。

　あなたに抱きしめて欲しい……」

　来る日も来る日も、さくらは聖に声をかけ続けた。

　少しでも聖の意識が回復することを祈って話かけるが、反応は一切なかった。

　さすがに疲労も溜まってきており、さくらは立ち上がった際、眩暈めまいがして倒れそうになった。

　すると、さくらは誰かの腕に支えられる。

「大丈夫ですか？」

　倒れかけたさくらを支えたのは、旭だった。

　手には花を抱えている。どうやらお見舞いに来たらしい。

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」

　気丈きじょうに笑うさくらを見て、旭は悲し気な視線を送る。

「さくらさん、無理はいけませんよ。あなたが倒れたら聖様は悲しみます。

　今日は私が看みていますから、一度屋敷へ戻って寝てください」

　旭の気持ちは嬉しかった。

　本気で心配してくれているのもわかった。

　しかし、さくらは聖と一時も離れたくはなかった。

「ありがとうございます。でも、聖様が目覚めたとき側にいたいので」

　さくらに強い眼差しを向けられ、旭は観念かんねんしたように小さく頷く。

「わかりました。しかし、今日は私も病室に残ります。

　さくらさんが倒れないか見張らせていただきます」

　さくらも頑固だが、旭も頑固なのを知っている。

「ありがとうございます、旭さん」

　旭の優しさに感謝し、頭を下げるさくら。

　返事の変わりにさくらの頭を優しく撫で、旭は何も言わず花瓶かびんを手に取ると水を汲くみに病室から出ていった。

　その夜、さくらは久しぶりに聖の横で熟睡じゅくすいしていた。

　旭がいることでさくらは安心し、久しぶりに睡魔すいまが押し寄せてきていた。

　旭は聖とさくらが仲良く手を繋いで眠る姿を微笑ましく眺めると、持ってきた暇つぶし用の本のページを開いた。