その日は夜も遅く、「明日さくらに伝えなさい」と智彦に説得された聖は素直に次の日を待つことにした。

　朝が来て、さくらの喜ぶ顔を想像しながら聖は彼女を探した。

　メイドの朝は早い、もう起きて仕事に取り掛かっている頃だろう。

　今の時間は厨房にいるかもしれない、そう思った聖は厨房へと急いだ。

　厨房では朝食の支度をするコックやメイドたちが忙しそうに走り回っている。

　声をかけづらい雰囲気に、どうしたものかと考えあぐねいていると、

「聖様、どうされましたか？」

　旭が声をかけてきた。

「旭、さくらは何処だ？」

「はい、私も探しているのですが、見つからなくて。部屋にもいませんし、いつもならもうここへ来ているはずですが」

　旭の心配そうな表情を見ながら、聖はなんだか妙な胸騒ぎを感じた。

　まさかそんなわけないと思いながらも、聖の足は智彦のもとへと急いでいた。

　智彦はソファにゆったりと腰かけ、朝食の準備を待ちながら新聞に目を通しているところだった。

「父上！」

　聖が血相けっそう変えてやって来ると、そのことをわかっていたかのように智彦はいつも通り対応した。

「何か用か？」

「……さくらは、さくらは何処ですか？」

　智彦が新聞を畳たたんんで机に置く。

　ゆっくりと聖に向き直ると口を開いた。

「この屋敷にさくらは、もういない」

　その言葉の意味がわからなかった。

「どういうことです！」

　聖が叫ぶと、智彦は冷酷れいこくに告げた。

「さくらはこの屋敷から出て行った」

　その瞬間、聖は智彦の胸ぐらを掴んだ。

「さくらに何をした？　なんで！　昨日許してくれたんじゃなかったんですか！」

　聖が智彦を締しめ上げると、智彦は苦しげに少し咳せき込む。

「聖様！」

　そこへ旭がやってきて、聖を智彦から引き剥はがした。

「落ち着いてください！」

「落ち着いていられるか！　父上はさくらを追い出したんだぞ！

　許さないっ、僕は絶対あなたを許さない！」

　憎しみのこもった目で智彦を睨むと、聖は飛び出していった。

「……旦那様、本当なのですか？　さくらを追い出したというのは」

　智彦は乱れた衣服を整えると、旭から目を逸そらし答える。

「ああ……これも黒崎家と聖のためだ」

　智彦の声には複雑な感情が含ふくんでいるように旭には思えた。

　哀愁あいしゅう漂ただよう背中に向かって旭が静かに語りかける。

「差し出がましいようで大変恐縮ですが……進言しんげんいたします。

　旦那様は、本当に大切なものを見落としていらっしゃるのではないでしょうか。取返しのつかないことになる前に考え直してください」

　旭は一礼すると、聖のあとを追っていく。

　一人残された智彦は項垂うなだれた。

「私が間違っているのか……」

　聖はあれから懸命にさくらを探したが、その姿を見つけることはできなかった。

　来る日も来る日も聖はさくらを探す。

　しかしその努力も虚むなしく、彼女を発見することはできなかった。

　日に日に憔悴しょうすいしていく聖の姿に皆が心を痛めていた。

　だんだん食も細くなり、外出もしなくなっていく。

　智彦と誠一のことを避け、聖は一人部屋に閉じこもることが多くなった。

　梨華もそんな聖を励はげまそうと毎日屋敷へとおもむいたが、ただ隣にいるだけで話しかけても何の反応もない。

　そんな聖の態度にだんだん梨華も疲れはじめ、屋敷への足が遠のいていった。

　次第に梨華は屋敷へ訪れることはなくなった。

　そんな聖の姿を見て、智彦は悩み苦しんでいた。

　自分の判断は間違っていたのか、そんな思いが頭を巡る。

　智彦は黒崎家の当主として聖の父親として最善の判断をしたと自負じふしていた。

　しかし、今の聖を見ていると自分の判断に自信が持てなくなってきていた。

　誠一はそんな智彦を複雑な表情で見つめていた。

　あなたはいつも聖のことで頭がいっぱいなのですね、私の入る隙間なんか無い。

　そう感じながらも誠一は智彦のことがどうしても放っておけなかった。

「父上、後悔なさっているのですか？」

　誠一の問いに、深いため息をつきながら弱々しく首を振る智彦。

「誠一、私はわからないのだ。何があの子の幸せなのか……。

　人を想うのは苦しいな」

　肩を落とした智彦を優しい眼差しで見つめる誠一。

「そうですね。

　しかし、苦しんでいるということは、もうすぐ答えが見つかるのかもしれません。

　何かが生まれる前というのは苦しいものです」

　誠一の言葉に智彦は久しぶりに笑顔を見せた。

「おまえ、いいこと言うな」

「いえいえ、まだまだですよ」

　そう言うと、誠一は優しく微笑んだ。