少し不思議な隣人から引っ越しの挨拶を受けた後、俺は仕事に戻っていた。
時刻はまだ十一時過ぎ。
今日も一日が長いな。
リモートワークは確かに働く場所などがある程度自由だし、通勤がないから楽だ。
しかし、世間一般で言われているようにサボれるかと聞かれたら別の話だ。
場所を選ばずできる仕事があるからこそ在宅で働いているわけで、業務量自体はそこそこ多いし、ウェブでのミーティングの予定は毎日入っている。
「幸いにも午前中はミーティングがないから、作業に集中できそうだ」
俺が一人でそう呟きながら、パソコンのキーボードを叩いて明日のミーティングで使うための資料を作成していたその時。
壁の向こう……隣の部屋から、重低音が漏れ聞こえてきた。
「……? あっちはフィリスの部屋だったな」
荷物の整理でもしているんだろうか。
引っ越してきたばかりだし、ある程度物音が出るのは仕方ないだろう。
気にせず作業に戻った俺だったが、その集中は長続きしなかった。
隣の部屋から微かに聞こえてくる物音が気になったからだ。
別に騒音が煩わしいわけではない。
このマンションはある程度の防音性があるから、多少隣の部屋の音が聞こえてきても、イヤホンを付けたら分からなくなるレベルだ。
ではなぜ気になったかと言うと、聞こえてくる音の頻度が妙に頻繁で忙しなさを感じたからだ。
言い換えると、ドタバタした気配が伝わってくる。
「苦戦していそうだな……」
こうもあからさまに引っ越し作業に手こずっていそうな気配が伝わってくると、気になってしまう。
余計なお世話かもしれない。
しかし初めてフィリスと出会った時と世間知らずぶりを思い出すと、そこはかとなく不安を覚える。
「少し様子を見に行ってみるか……?」
俺は隣の部屋を訪ねてみることにした。
隣の部屋のインターホンを鳴らすと、フィリスが出てきた。
「こんにちは、翔太さん。どうかしましたか?」
「さっきから物音が色々聞こえてきたから、大丈夫かなと思って」
「う、うるさかったですか……?」
「と言うよりは少し心配になってね。荷解きは順調そう?」
俺の質問に対して、フィリスは困ったような顔をした。
「荷解きに関しては問題ありません。むしろその逆と言いますか」
「荷解きの逆?」
「どう言ったらいいでしょう……あ、もしよろしければお部屋に上がって行きませんか? 続きは中でご説明しますね」
フィリスはそう言って、俺を招き入れようとしてきた。
一人暮らしの部屋に、そんなに簡単に男を上げていいのか……?
まあ、俺が何もしなければ関係ないか。
仕事の方は少しくらい離席しても、困った人の手伝いが目的なら許されるだろう。
……決して推しにそっくりな女の子からの誘いだから乗ったわけじゃないからな。
「そう言うことなら、お邪魔しようかな」
自分に言い訳しながら、俺はフィリスに促されるまま部屋に上がった。
俺の部屋を左右反対にしたような間取りで、基本的な設備は同じだ。
違いがあるとしたら、とにかく物がない点だ。
フィリスの部屋には、家具や家電どころか、段ボールの一つもなかった。
「引っ越しの荷物とかはないんだな。これから届くとか?」
「実は急な引っ越しだったので荷物はほとんどないんです」
「それでどうしてあんなに音が聞こえてきたんだ……?」
荷物がないなら整理をする時の物音は発生しないはずだ。
「その、慣れない設備に戸惑っていまして……」
「なるほど?」
このマンションの部屋にある設備は賃貸物件としては標準的で、珍しくはない。
俺からすると何に戸惑っていたのか今一つ想像できないな。
「ちなみに、家具とか家電はこれから用意するの?」
「実は、どんな家具を用意すればいいか分からないんです。それと……カデン、とは何でしょう?」
今度は家電を知らないと来たか。
「冷蔵庫とか、洗濯機とかのことだよ」
「……?」
フィリスはやはり、何を言われているか分からなそうな顔をしている。
「一体今まで、どんな環境で生活していたんだ? 実はとんでもないお金持ちの家のお嬢様とか?」
初対面の時は全くお金を持っていなかったけど、普段は自分以外の誰かが常に支払いを行なっている、なんて可能性はある。
「お嬢様……ですか。もしかしたら、それに近いかもしれません」
フィリスは少し考えてから、そう言った。
「今は誰か、身の回りの世話をしてくれる人とかはいないの?」
「はい……」
「初めてフィリスと会った時から思っていたけど、何か訳ありって感じだよな」
「やはり私、ご迷惑をおかけしているでしょうか……」
正直、フィリスはよく分からないことが多い。
聞けば全てを話してくれるという感じでもない。
あまり深入りしない方が無難だよな、と我ながら思う。
だけど、放っておけない。
私が信頼できるのは、この世界で翔太さんしかいません。
そんなことを言ってくれた女の子を無碍にはできない。
「迷惑なんてとんでもない」
「本当ですか……?」
「ああ。こうして隣人になった縁だ、必要な家具家電の買い物を手伝うよ」
「翔太さん、ありがとうございます……!」
何もない部屋の真ん中で、フィリスは頭を下げた。