俺、村上翔太は東京都内のマンションで一人暮らしをするアラサーの冴えない社会人だ。
IT企業で働いていて、給料や残業はそこそこ。ブラックではないけどホワイトでもない立ち位置の会社だと俺は認識している。
主にリモートワークだから出会いの機会が極めて少ない。
大学卒業以来、彼女がいない期間はもう五年に及ぶ。
主な趣味はゲームだ。
最近は『サンクチュアリ・レジェンズ』というオンラインゲームにハマっている。
『サンクチュアリ・レジェンズ』はファンタジー系のMMORPGだが、ストーリーや3Dで作られたキャラクターのグラフィックのクオリティが高く評価されていて、ソロでプレイするキャラゲーとしても人気が高い。
俺にはそのゲームの中に、いわゆる推しキャラがいる。
女神フィリス。
メインストーリーに登場する主要なキャラの一人で、主人公であるプレイヤーを助け導く存在だ。
ユーザーからの人気が高く、人気投票では常に上位に入る。
王道的な金髪美少女といった感じのルックスに加えて、穏やかな性格でありながら主人公に対する好意を隠さずに素直にデレる姿に惚れ込んでいるユーザーは多い。
俺もその一人ってわけだ。
まあ推しと言っても、熱心な連中みたいに同じグッズを何十個も買ったり、バッグを缶バッジ塗れにするレベルじゃない。
グッズを買うとしてもせいぜい一個ずつだ。
さすがにゲーム内のガチャでフィリスが実装された時は、初日に完凸したけどな。
俺にとってフィリスというキャラクターは、退屈で代わり映えのしない日常に彩りと癒しを与える存在だ。
そんな推しキャラに関連して、最近気になることがある。
「いつも通りならそろそろ来る頃かな」
リビングでパソコンと向き合いながら仕事をしていた俺は、モニターの端を見る。
表示された時刻は十九時三分。
「少し早いけどもう終わるか」
俺はパソコンでウェブ勤怠管理ツールを開いて、退勤ボタンを押す。
仕事を終えて一息ついた俺が、椅子の上で伸びをしたその時。
インターホンが鳴った。
「噂をすれば……だな」
壁際に設置されたモニター付きの親機を見て、俺は誰が来たか確認する。
俺は玄関に向かうと、扉を開けて訪ねてきた人物を出迎えた。
「こんばんは。お仕事お疲れ様です、翔太さん」
部屋の前には、柔和な顔立ちをした金髪の女の子が佇んでいた。
年齢を直接聞いたことはないけど、見た目の印象だと十八歳くらいだと思う。
花咲フィリスさんだ。
推しにそっくりな外見に加えて、フィリスという名前まで同じこの人物は、最近隣の部屋に引っ越してきた。
「こんばんは。こんな時間にどうしたんだ?」
「カレーを作り過ぎてしまったので、一緒に食べませんか?」
部屋着にしては少しお洒落な格好をしているフィリスは、両手で鍋を持っている。
「それでわざわざ持ってきてくれたんだ、ありがとう」
「作り方を教えてくれたのは翔太さんですから、そのお礼です」
「ネットで調べたレシピをそのまま伝えただけだから、恩を感じる必要はないのに」
「実は……さっきのは建前です」
「建前?」
「はい。本当は翔太さんに私の手料理を食べて欲しかったんです」
フィリスは眩い笑顔でそう言った。
「あー、なるほどね……?」
フィリスはこういう思わせぶりな言葉を、深い意図もなく発する女の子だ。
ここ最近フィリスと接する機会が多い俺は、なんとなく彼女の性格が掴めてきた。
「そういうことなら、ぜひご馳走になろうかな」
「はい、お邪魔しますねっ」
招き入れると、フィリスは心なしか嬉しそうな様子で靴を脱いで俺の部屋に上がった。
一応ここは男の一人暮らしの部屋なんだけどな。
単に無防備なのか、それともフィリスから信頼されている証なのか。
どちらにせよ、俺がフィリスに何かしようって気はないから関係ないな。
そんなことを考えながら、キッチンに向かうフィリスの後を歩いていると。
「ちなみに、ここに来たのはもうの一つ理由があるんです」
フィリス が立ち止まって振り返った。
「もう一つの理由って?」
「えっと、ただ翔太さんに会いたくて……あ」
フィリスは何かを言いかけてからハッとした表情を浮かべた。
「俺に会いたくて……?」
「恥ずかしいことを言っていると気づいたので、今のはやっぱりなかったことにしてください!」
フィリスは慌てた様子で前を向いた。
長い金髪の間から覗き見える耳が、赤くなっているのが後ろから分かる。
よく分からないけど、口ぶりから察するに恥ずかしがっているらしい。
こうやって感情がすぐ表に出る姿は、俺の推しキャラによく似ているんだよな……。
今、俺の目の前にいるフィリスは一体、何者なんだろう。
外見は、『サンクチュアリ・レジェンズ』の登場キャラクターである女神フィリスがゲームの中から出てきたのではないかと思うほど、そっくりだ。
だが非現実的なことはあり得ない。
オタクだからって妄想も大概にしろ、俺。
こんな妄想が頭をよぎるのは、名前まで推しキャラと同じだからだろうか。
それとも単に、俺がフィリスのことをよく知らないからだろうか。
彼女について、俺が知っている情報は数えるほどしかない。
フィリスが最近、隣の部屋に引っ越してきたこと。
実は初対面は隣に引っ越してくる前だということ。
そして、俺の生活は彼女によって一変したということだ。
○
あれは二週間ほど前のことだ。
その日は月に一度の出社日だったので、俺は通勤のために珍しく朝から家を出た。
PCバッグを片手に駅前を歩いていると、ふと気になる光景が目に入ってきた。
「何きみ? 困ってるの? それなら俺が話聞くけど」
「え、えっと……」
進行方向の百メートル程先、二十代前半くらいと思われる柄の悪そうな茶髪の男が、女の子に話しかけていた。
女の子はその辺の男からいきなり話しかけられるだけあって、かなりの美少女だ。
日本人とは思えない白い肌と金髪の持ち主で、背は少し低いけどスタイルもいい。
服装は簡素な白いワンピースを着ているだけだが、それはそれで清楚に見える。
なんだ、朝からナンパか……?
いくらなんでも、あの男じゃ釣り合っていないように見えるけど。
「てかとりあえず違う場所に行かね? オレ、いい場所知ってんだ」
「いえ、私にも行きたい場所が……」
「その辺の話は後で聞くからさ、ほら」
話しかけているというか、面倒臭い絡み方をしていた。
女の子は露骨に迷惑そうにはしていないものの、間違いなく困惑している。
少し遅い時間に家を出たので、ピーク時よりは落ち着いているものの、二人の周囲には多くの人が往来している。
しかし誰もが、多少目をやる程度で、特に気にかけることなく通り過ぎていく。
皆、朝の通勤や通学で忙しいのだろう。
自分の予定を犠牲にしてまで面倒ごとに関わりたいと思うお人好しは、今時少ない。
俺自身も、どちらかと言えば事なかれ主義の人間だ。
大体、あの男が何か犯罪をしたわけでもない。
多少しつこいせいで相手の女の子が困っているかもしれないけど、所詮はただのナンパだ。
いつもの俺だったら、その場では少しだけそんな言い訳じみたことを考えながら通り過ぎて、職場に着いたら忘れる程度の出来事だ。
だけどこの時の俺は、足を止めた。
近づいてから、絡まれている女の子が自分のよく知る人物に似ていると気づいたからだ。
正確には、俺の推しキャラであるフィリスに瓜二つだった。
二次元である『サンクチュアリ・レジェンズ』の世界からそのまま飛び出してきたような姿だ。
なんだあの子、コスプレ……にしては作り物感が全くない。
あの姿が彼女にとっての自然体なのだと、雰囲気で察することができる。
彼女は何者なんだろう。
女神フィリスにそっくりだけど、まさか本物じゃないよな……?
というか、常識的に考えてゲームのキャラが現実にいるはずがない。
だけど、もし仮に。
推しがトラブルに巻き込まれている状況に、俺が遭遇したとしたら。
そう考えたときに取る行動は一つだ。
押しキャラにしか見えない女の子の方にもう一度目を向けると、柄の悪そうな男が強引に腕を掴もうとしていた。
「その辺でやめておいた方がいいと思いますよ」
俺は二人の間に割って入って、男を制した。
「あ、なんだお前?」
男は気分を害したのか、俺のことを睨みつけてくる。
「この子が困っているから、やめておいた方がいいと思います」
「いきなりなんだ? オレを不審者扱いか、ええ!?」
男は俺を威圧するように顔を近づけてくる。
すごい迫力だけど、こういう時はビビったら負けだ。
落ち着け、俺。
「別に、ただ……」
「ただ、なんだよ」
「相手が大人しいのをいいことに、強引に迫るのが良くないって話をしているだけです」
それにしてもこの人、息が酒臭いな。
どうやら酔っ払っているみたいだ。
冷静に相手の様子を見ていると、恐怖心を感じなくなってきた。
「チッ! お前のせいでシラけたわ」
俺が動じないのを見ると、男は煩しそうにしながら引き下がった。
素面に戻ったのか?
ともあれ、男は諦めて駅の改札とは反対方向に去っていった。
「ありがとうございます。どうすればいいか分からなかったので助かりました……」
女神フィリスにそっくりな女の子は、俺にお礼を言ってきた。
「どういたしまして」
「本当に、どうやってお礼をしたらいいでしょう」
「そんなに大げさに捉える必要はないよ。言葉だけで十分だ」
「そうですか? 貴方は優しい方なんですね」
女の子は先ほどまで少し危険な状況だった割には、少し暢気にも見える柔らかい笑顔を浮かべている。
近くで笑っている姿を見ると本当に、あのフィリスにしか見えない。
「なんにせよ、一件落着だな」
「ふふ。その通りですが、一難去ってまた一難でもあるんですよね……」
女の子はそんなことを言ってため息をついた。
「まだ何か困りごとでもあるのか?」
「実は行きたい場所があるのですが、行き方が分からないんです」
「行きたい場所ってどこなんだ?」
俺の質問に対して、フィリスは近くにあった街頭広告を指さした。
「あの絵に書いてある場所に、どうしても行く必要があるんです」
フィリスが指したのは『サンクチュアリ・レジェンズ』の展示会の広告だった。
絵というよりはポスターだよな?
あの展示会は俺も一度行ったことがある。
期間限定で『サンクチュアリ・レジェンズ』のゲームアートや世界観を再現したような展示物を見ることができる場所だ。
よりによって『サンクチュアリ・レジェンズ』関連とは、余計にフィリスと関係あるんじゃないかと思えてくるな……。
「『サンクチュアリ・レジェンズ』展なら行ったことがあるから、場所を知ってるよ」
「本当ですか!? その場所への行き方を教えてもらうことはできますか?」
「ああ、教えるのは構わないけど……スマホで調べたら分かるんじゃないか?」
「スマホ、とはなんでしょう?」
「え?」
スマホを知らないって、世間知らずなんてレベルを超えていないか?
不思議そうな顔を見る限りでは、冗談でもフィリスというキャラになりきっているわけでもないらしい。
この様子だと、行き方を教えても一人で辿り着けるか怪しいな。
「……これはもう少しお節介を焼いた方が良さそうだな」
「はい? 何かおっしゃいましたか」
「いや、こっちの話」
俺は女の子にそう答えてから、スマホをポケットから取り出した。
仕事で使っているチャットツールを開いて、勤怠の連絡をする。
丸一日休む必要はないだろう。
俺は午前休の申請をしてから、スマホをポケットに戻した。
「これでよし。君の目的地まで、俺が今から案内するよ」
「それは……貴方が直接連れて行ってくれるということですか?」
「ああ、そういうこと」
同行者が増えて、目的地が勤務先から変更になった俺は、そうして駅の改札へ向かった。
「デンシャという乗り物にはどうやって乗ったらいいのでしょうか?」
改札付近に着いてまず、フィリスにそっくりな女の子はそう言った。
なんというかもう、現代の文明に関する知識が全くないレベルだな。
ここまで来ると、日本語で会話できていることが不思議だ。
「あそこの券売機で切符を買って、改札に通してホームに入って待つだけだよ」
「切符を買う……困りました、私お金がありません」
女の子は肩を落とした。
「電車賃くらい俺が払うよ」
「でも、さすがにお金を払ってもらうのは貴方に申し訳ないです……」
「乗りかかった舟だ。目的地まで連れていくって言った以上は、それくらい問題ないよ」
俺は女の子の分の切符を買った。
自分の分はICカードがあるから必要ない。
「さあ、切符を買った以上は使わないともったいないだろ?」
「……ありがとうございます」
女の子はまだ少し申し訳なさそうにしていたが、小さく笑顔を浮かべた。
俺たちは『サンクチュアリ・レジェンズ』展の会場に行くために電車に乗った。
通勤通学のピークよりは遅い時間だったので、二人とも座ることができたのは幸運だった。
会場の最寄り駅に到着し、少し歩く。
『サンクチュアリ・レジェンズ』展の会場は、駅から五分ほど離れた場所にある商業施設内にある。
到着してから、俺たちはあることに気づいた。
「入場料二千円、ですか。これがどの程度の価値なのかは分かりませんが、少なくとも私は一円も持っていません……」
そう。
当然と言えば当然だが、『サンクチュアリ・レジェンズ』展は有料だ。
「これ、入場料」
俺は財布から二千円を取り出して女の子に渡した。
「そんな、受け取れません」
「別にあげるわけじゃない。ただ、貸すだけだ」
「貸すだけ?」
「ああ。次に会った時に返してくれたらそれでいいよ」
「そういうことなら、分かりました……本当にありがとうございます! このご恩は必ずお返しします!」
女の子は逡巡した後、二千円を受け取った。
ここまで喜んでくれるなら、身銭を切った甲斐があるな。
入場料を支払った後、会場に入っていく前に頭を下げてお礼をする女の子の姿は、とても切実に見えた。
彼女はこの場所にただ遊びに来ただけではない。
何か、特別な事情がある気がした。
何も事情がない人間が、世間のことを何も知らないような状況で、流行りのゲームに因んだ展示会なんかに行きたがるとは思えない。
だからって、あえてその事情を聞き出そうとは思わない。
「そう言えば、名前も連絡先も聞いてなかったな。そもそも連絡手段があるのか怪しいけど」
女の子を見届けた後、俺は一人で呟いた。
入場料二千円と、ここまでの電車賃が三百八十円。
大した給料を貰っていない俺にとって、知らない相手にお節介であげるには気前の良い金額だ。
「まあ、あの子の助けになったならそれで良いか」
俺にとって今回のことは、推しにそっくりな美少女と短い間一緒に行動した、少し不思議な体験だ。
彼女とは、二度と会うことはないだろう。
しかし同時に、忘れられない体験になりそうだと思った。
一週間後。
自宅でリモートワークをしていると、インターホンが鳴った。
モニターに映っていたのは、見覚えのある女の子だった。
「本日隣に引っ越してきた花咲フィリスと言います。引っ越しの挨拶に来ました!」
先日会った推しにそっくりな美少女が、そこにはいた。