「ヒ~ッヒッヒッヒ! ヒィ~ッヒッヒッヒッヒ!」
薄暗い灰色の部屋。サンゼンレイブンは鎖に繋がれた暗黒電脳教会雇用戦士の男たちを前に、下卑た哄笑を上げた。彼の手には、ぐらぐらと煮えたぎる黄金色の液体と、複数の何か固形物が満ちた鍋が掴まれている。
サンゼンレイブンの目の前には、暗黒電脳教会の虜囚二人……ピンクモヒカンの男・ピロフィリアと口ピアスの男・
「オマエたち、これが何だかわかるか?」
「こ、こいつァ……!」
鍋を突きつけられ、ピロフィリアは逃げるように壁に背を押し付けた。
「や、やめろ……! プララヤ条約違反だぞッ!」
悲鳴じみて叫ぶS`s。ピロフィリアは涙と鼻水を流し、幼児じみて首を振っていた。サンゼンレイブンはクレバスめいた亀裂を顔に刻むと、二本の棒を片手で掴み、鍋に突っ込んだ。
「ヒーッヒッヒッヒッヒ! さあ、お楽しみの時間だぜッ!」
鍋から出でた棒……箸の間に、白いドーム状の塊が挟まれていた。塊の下半分は液体を吸ってやや茶色く染まり、挟むそれに苛まれ、雫を滴らせていた。それは柔らかいようで、箸はやや塊を抉っている。ハンペンであった。鍋の中にあるのは、
サンゼンレイブンがニヤリと笑うと、銀の右目と金の左目に酷薄な光が宿る。ピロフィリアとS`sは目に涙を浮かべながら、それを拒んだ。サンゼンレイブンはそれを無視し、S`sの顔面にハンペンを押し付けた。
「熱っち! あふ、やめ、マジであふぃ、うまッぶふぁッ!」
S`sは押し付けられる熱に悶え、身を捩じらせる。サンゼンレイブンは逃げようとする男を執拗に追跡し、ハンペンを押し当て続けた。ハンペンの欠片が口に入り、なお藻掻くS`s。サンゼンレイブンはその口にハンペンをねじ込むと、次は厚揚げをピロフィリアに押し付けた。
「あヅぁ、あぢ、あふ、うめ、ああっふっぷふぅ!」
「ヒ~ッヒッヒッヒ! ヒィ~ッヒッヒッヒッヒ!」
「何やってんのお前ら……」
横合いから冷えた声が飛んだ。その瞬間サンゼンレイブンは苛みを、捕虜たちは藻掻くことをぴたりとやめ、声の方を睨む。栗色の髪の女、クラリッサが何か理解できないものを見るような目で男たちを見ていた。黒いタンクトップだけを羽織り、髪を拭きながら入って来た彼女は大きく溜息をつきながら、スイムバッグを置いてある近場の木箱に座った。
「「「……」」」
三人は極めて不満げな視線をクラリッサに投げかける。サンゼンレイブンはクラリッサのそれに負けないほど大きく息を吐くと、虜囚を繋ぐ鎖を外した。虜囚はその瞬間に顔を突き合わせ、ひそひそと話し始めた。
「よォ、この姉ちゃんはどこの田舎モンだ?」
「仕方ないだろ、世界自体が田舎なんだ」
「聞こえてんぞ捕虜どもッ!」
クラリッサは苛立たし気に叫ぶ。タオルを投げ捨てると、膝の上に頬杖を突いた。
「サンゼンレイブン。さっきのは何だ」
「紳士協定ッてヤツさ」
サンゼンレイブンはクラリッサ近くの木箱から携帯コンロを取り出すと、おでんの鍋をその上に置いた。
「オオサカ・プロトコルっつってな。アツアツのおでんに対し、捕虜の側はプララヤ条約に記載された捕虜の扱いに違反していることを指摘する。その上でおでんを食えば成立だ。捕らえた側は、捕虜に人道的な扱いをすることを確約する。捕虜の側は本来の任務に反さない限り、全面的な協力を約束するッてこった」
「口約束以下だな」
「だから何より大事なんだよ。これを蔑ろにすれば、自分はあらゆる誇りを失うことになる。そして仲間も同じ目で見られることになるのさ」
「……誇り、ね」
「クラリッサさんよ」
サンゼンレイブンは努めて真っ直ぐ、クラリッサに向き合った。
「アンタの事情は概ねわかった。だがな、暗黒電脳教会は一枚岩じゃねえんだ。それは知ってるだろ? そしてわかってるだろ、コイツらはカネで雇われただけのモンだってな」
「……」
「納得はしなくていい。ただ、理解だけしておいてくれ。いいな?」
「……ああ。わかった」
「悪いな」
サンゼンレイブンは、ばつが悪そうに笑うと再び虜囚らの方を向いた。
「さて。ピロフィリアとS`sだったか。改めて尋問を始めるが、その前に何か言っておくことはあるか?」
「いや。しかし俺たちも、このゾンビ騒動には巻き込まれただけだぞ」
「あ?」
凄むクラリッサを、サンゼンレイブンは手で制した。彼女が引き下がるのを確認してから、再び虜囚らを見る。
「その割に、あの襲撃は企図したもののように見えたが」
「あァ、見張りしてる時に偶然アンタを見つけたら、デコンポジションの大将がなんかスゲーやる気になっちゃってよ……」
「敵対するより手を組んだ方がいいと進言はした。証拠はないが……本当だ」
「何の為に? あのデコンポジションも、オマエらだって弱者じゃない。この街から脱出くらい、ワケないだろ」
「〝敵〟がいる」
「トウヤ湖条約か」
サンゼンレイブンが言うと、捕虜たちは目を見開き、言葉を詰まらせた。クラリッサが身を乗り出す。
「何者だ? そのナントカ条約ッてのは」
「説明が難しいな。ニッポンの秘密結社だが……ま、国家を転覆できるだけの秘密を握ってるのは間違いない。そもそもオマエらは、条約と斗う為に雇われたんだろ?」
S`sが頷いた。
「ああ。尤も、どうして条約と教会が斗ってるのかは知らんがね」
「無責任な」
あっけらかんと言うS`sに、クラリッサは舌を打った。棘のある言葉に、サンゼンレイブンが溜息を重ねる。
「雇われなんてそんなモンだ。おれの調べでも、条約が一方的に教会を襲っているように見える。クラリッサ。もしオマエが考えてるようにゾンビ騒動に関係があるとしたら、条約の方だろうな」
「だからって、コイツらが関与してない可能性はないだろ?」
「まあな。証明は?」
「出来ないな。だから、条約の追滅にせよゾンビ調査にせよ、喜んで協力するぞ。だが」
S`sはクラリッサを見た。
「そっちの姉さんが斗う理由はまあ、推測できた。サムライになって日が浅いだろうこともわかった」
「ちょっと待って、サムライ?」
「しかし、だ」
「待って、サムライ?」
クラリッサの疑問を無視し、S`sは木箱から器を出しているサンゼンレイブンを睨む。
「俺たちのように雇われたでもないだろう。サンゼンレイブン、お前の斗う理由はなんだ?」
「だから待って、サムライってなんで?」
「医者が斗う理由なんて、一つだけだろ?」
サンゼンレイブンは、出した器におでんを盛りながら言った。
「予防に勝る治療なし。このゾンビ共は、広められんわな」
「なんでみんな無視すんだよ……」
サンゼンレイブンは憮然とした顔でスイムバッグを抱えたクラリッサ、そしてS`sとピロフィリアに、程よい温度となったおでんの器を渡した。
「まずは腹ごしらえだ。その後おれシャワー浴びてくっから。それから出発するぞ」
全員は頷き、おでんを食べ始めた。
「……」
ピロフィリアは、クラリッサをじっと見ていた。正確には、彼女が抱えたままのスイムバッグを。
「なァ、アンタ。メシ食う時ゃカバンは降ろそーぜ。ギョーギ悪いぜ」
「うるせえなあ」
「そうだぞ。サムライ未満に目くじら立てんでいいだろう」
「だから何だよサムライって」
「ダメだ、やっぱりガマンならねえッ!」
ピロフィリアは器を丁寧に置いて立ち上がると、埃が立たぬようゆっくりとクラリッサに歩み寄り、やはりゆっくりとスイムバッグを掴んだ。
「俺ァそういうギョーギ悪いメシの食い方がガマンできねーんだッ。降ろせッ」
「いや、これは大丈夫だから……おあッ」
スイムバッグの紐が切れ、固い音を立てて落ちた。口が開いたその中から、ボール状のものがまろび出、止まる。亜麻色の髪の、生首だった。髪と同じ色の目が食卓を見ていた。箸の音が止まり、沈黙が落ちた。
「え……」
「……元気?」
声を漏らしたピロフィリアに、生首が語り掛けた。
「りょ……猟奇殺人鬼……!」
「いや、ちょっと待て! 別にそういうのじゃ……っつーか生きてたろ! 今ッ!」
慄くピロフィリアに、クラリッサは慌てて釈明しようとした。その手からおでんが滑り落ち、まろび出た生首に掛かった。
「あっづァッ!!」
生首が叫んで跳ね上がった。ピロフィリアがギャアと叫んで転び、おでんの鍋を弾いた。放物線を描く土鍋と金色の
「あっ!」
「…………」
サンゼンレイブンは、熱い熱いと喚きながら転げ回る首を掴んだ。
「最初に
「ま、待て待て待て!」
ピロフィリアに盾にされたクラリッサが喚いた。
「お前アレだろ! オオサカ・ナントカの、その……ナントカ条約に反してるだろ!」
「プララヤ条約!」
「そう、それにもとる……」
クラリッサは、自分の言葉に付け加えたピロフィリアを見た。ピンクモヒカンと目が合った瞬間、何故か自然に笑いが漏れた。その鼻に、生首が投げ当てられた。
「ふぎゃッ!」
「ほい、キャッチィ!」
ピロフィリアが生首を取り、サンゼンレイブンに投げ返した。サンゼンレイブンは無言でそれを取り、さらに投げ返す。応酬が始まる。
「やめッ……生きてる、俺、生きてるからやめてぇぇぇぇ」
ボールにされた生首が、情けない悲鳴を上げた。それに取り合う者は、誰もいなかった。
S`sが蚊帳の外で、おでんを食べながら溜息をついた。
────────────────
ドンコドンコドンドン! ドンコドンコドンドン! ドンガドコドコドンドン!
「ワーオ! オチンチンがヴァギナの奥まで到達だぜ!」
「奥り人だ!」
「「「Fooooooo!!」」」
男たちが飛び跳ねると、キャンプファイヤーじみた炎がボンと音を立てて燃え盛った。熱を持った空気が砂を巻き上げ、黄色い闇に紅の墨絵を描く。切り出される影たちは猛々しくくねり、或いは複雑に絡み合っている。
聞こゆるは下卑た笑いと嬌声、ただならぬ呻き声。否、それは呻きなどと生易しいものではない。獣の唸りじみた痛苦か、屈辱か、或いは怒りか悲しみか。何れにせよおよそ人間の声帯から出るようなものでない、悍ましき声。それを発するのは、縛られた女のゾンビ。服を裂かれたゾンビの尻に、男が腰を打ち付けていた!
「最高だぜ! ゾンビなら無理矢理ファックしても文句言われねえからな!」
「ああ、全くだ! 俺は昔から、合意なし力ずくのファックでしか興奮できなかったんだ!」
何たることか! 己が歪んだ欲望を満たす為、状況を利用しているのだ! そして見よ、彼らの周囲にはいくつもの檻がある。いくつかの中にいるのは多数のゾンビ。乱獲された希少動物めいて詰められ藻掻き、鉄格子の隙間から手を伸ばしている。しかしそれらが集まる無軌道者に届くことは、ない。
そしていくつかの中に捕らえられているのは……何たることか……生きた人間ではないか! ここまで言えば、もうお分かりだろう。これらは無軌道者たちがファックする為のゾンビ、その材料! 生きた人間を強姦するのは問題でも、ゾンビならば大丈夫! 何という法と倫理の穴を突いた性的欲求の充足計画!
自らの運命を悟ってか、生存者の檻の中で震える少年あり。彼を優しく抱き締め、無軌道者を睨みつけるのは赤毛の女性。無軌道者らは肉欲の宴にのめり込み、それに気付くことはない……ただ一人を除き。モヤシめいて細い眼鏡の男がそれに気付き、ちらちらと彼女らを見ていた。
「う、うう……」
眼鏡の男は無軌道者の輪から外れ、ぽつんと座り込んでいた。彼は多くの者が見た目だけで抱く偏見通りの男であり、この場に全く馴染めずにいた。そこから逃れたい一心だろうか? 女性と少年、そして宴の間で忙しなく目を動かす。彼の名は、モースグ・シヌヨ。
「か、帰りたい……チクショウ、なんで僕がこんなところに……」
「ハロー、オタククン!」
もじもじとしていたシヌヨにホットな格好の金髪女がしなだれかかった。無軌道者の中には女もおり、生きた男とファックを楽しんでいるのだ。
「ハハーン、その調子だとまだ童貞だな? 駄目だぞー、そんなんじゃ」
「い、いいじゃないですかそんなこと! それに僕は……」
「そんなこと言ってるから童貞なんだゾ!」
「まだ何も言ってない!」
金髪女は豊満なバストをシヌヨに押し付けながら彼のズボンをまさぐり……首を傾げた。
「あれ? オチンチンは……」
「だから言ってるじゃないですか、こういうのに興奮なんかしないって!」
「え、マジだったのアレ?」
驚いたか呆れたように言う金髪女。シヌヨから離れると地面に胡坐をかき、興味深そうに彼の顔を覗き込む。
「じゃあさじゃあさオタククン、どういうのなら興奮すんの? アタシにだけ教えてヨ」
「え、いや、僕は……」
「……」
「僕は……小さい男の子にしか興奮しないんだぁぁぁぁッ!」
シヌヨは泣きながら叫ぶと、少年たちが入れられた檻に飛びつき、鍵のかかったままの扉を引っ張り始めた。
「「ぎゃああああッ!」」
「クソッ! 何だってんだよ、童貞童貞ってバカにしやがってッ! 子供ーッ!」
「アッハッハッハッハ! オタククン、ウケる!」
金髪女は手を叩いて笑うと、手を振って何人かの無軌道者を呼んだ。なんだなんだと呟きながら、ぞろぞろと集まる無軌道者。
「子供ーッ!」
「ギャーッハッハッハッハ! まったく、シヌヨの特殊性癖は相変わらずだな!」
タトゥーがびっしり入れられたスキンヘッドが笑う。彼は一頻り笑うと、声を張り上げた。
「よォし、そろそろ新しいゾンビでも作ッか! シヌヨ、鍵開けッからどきな」
「子供ーッ!」
「ああ、子供ゾンビ解禁だぜ!」
「ウオオオーッ! 子供ーッ!」
シヌヨは大きくガッツポーズをしながら引き下がった。スキンヘッドが檻の鍵を開け、中に手を伸ばす。捕らえられていた女性がより強く少年を掻き抱き、声を荒げ拒んだ。
「やめて! ショーンに触らないでッ!」
「ンー……」
スキンヘッドは考え込むように、逆の手で顎を擦った。しかし数秒の後、伸ばした手を拳に変え、女性の顔面を殴った。
「げッ……」
「おばさんッ!」
鼻血が飛沫き、ショーンと呼ばれた少年にぴちゃりと滴る。スキンヘッドはそのまま少年を女性から剥がし、引きずり出した。赤毛の女性が呻きながら手を伸ばす。それを分断するように、檻が閉められた。
「おばさーんッ!」
「よーし、それじゃあゾンビの檻を開けなッ! 気を付けてな!」
スキンヘッドの号令が響く。それを受けたニヤニヤとしたサングラスの男が、檻から手を伸ばすゾンビを叩き、その錠前に指を掛け……その瞬間、彼の腕が掴まれた。横合いから伸びた腕によって。
サングラスは目を動かし、その出元を辿った。茶色いツイードの腕は、チェスターコートから伸びていた。その上に乗るのは、乳白色の髪を頂く男。アンバーの瞳が、サングラスを射抜いていた。
「失礼。道を訪ねたいんだけど、いいかな」
闖入者は言った。散歩中に迷ってしまっただけかのように穏やかな言葉であった。その様は日常の崩壊によって外れた箍の中ではある種、異質であり、その男が尋常の存在でない気配を漂わせている。
「……あ? 何、アンタ」
だがサングラスは、それを無視して凄んだ。彼だけではない。享楽に興じていた者共の大半が剣呑な視線を、闖入者に向けていた。彼らは舌打ち、溜息をつき、或いはニヤニヤと笑いながら闖入者に近づく。手にはナイフ。角材。ヌンチャク。武器。
「あー、兄ちゃんよォ」
リーゼント頭が、男の肩に手を置いた。……その瞬間、リーゼントの首がぽろりと落ちた。
「え」
誰かが漏らす。落ちた首がバウンドし、黄色い天を見上げ止まった。彼は目を瞬かせながら、キョロキョロと動かしていた。やがてそれが、闖入者の肩に手を置いたまま首を失った自分に向き、止まった。
「え」
声は、リーゼントの首からであった。彼の表情がコマ送りめいて歪む。数秒の後にそれは石細工じみて固まり、同時に彼の首から噴水じみて血が噴き出した。黄色を血の朱で汚しながらもんどり打って倒れた。
「道案内に武器が必要なのかな?」
玲瓏とした声が響く。ゾンビの檻の上で、闖入者が周囲を睥睨していた。彼の手には、腕が掴まれていた。肘先から千切れた腕が。
「あ」
サングラス男が自分の右腕を見た。肘から先が、なかった。闖入者に捕まれていた筈の腕、その末路を彼は理解した。瞬間、血が噴き出した!
「ぎゃあああああッ!」
サングラス男が死のダンスを踊った。その中で闖入者が立つゾンビの檻に激突、扉が開かれる! 途端に伸びた青黒い腕の数々がサングラスを掴み、引き倒し、群がり、噛み付く!
「がああああ! あばっ、あびゅいいいいッ!?」
腹に喉に突き立てられる歯。肉を食い裂き、血が噴き出る。
「やべ、たすけへえええええええええええあ」
喉が破れ、音が途絶えた。サングラス男だったものに預かれなかったゾンビが、群がるものを踏み越えて檻の外に這い出でる。キャンプファイヤーが、ひときわ大きく揺れた。
「「「AAAARGH! AAAAAAAARGH!」」」
別の檻にいるゾンビが、肉にありつかんとした仲間を羨んだか。より大きく暴れ……檻の鍵が、引き千切れた! バキン! バキン、バキン! 全てのゾンビ収容檻が解放!
「うおおおおおおッ!」
「うわあああああッ」
たちまち溢れ出る生死者たちに戦き、無軌道者が逃げ出した! もはやそこに、闖入者を制裁しようという意気など、微塵もない!
「あっ……」
一人の女が転んだ。周りの者は一瞬振り返るが、手を差し伸べようともしない。
「ま、待ってッ! 置いて行……」
哀願の声は、ゾンビの呻きに掻き消された。大勢のゾンビが彼女に群がった。
「あぎいいいい肋骨掴まないで引っ張らないぎぐゃああああああッ」
別の場所では、コーン・ロウ女が青モヒカン男を突き飛ばした。
「な、何しやがるッ!」
「うるせえ、食われちまえよインポ野郎がッ!」
転倒した青モヒカンに群がらんとするゾンビ。コーン・ロウ女はその隙に逃走!
「へッ、ザマァ見ろ」
逃げようとする者共を押しのけ押しのけ、キャンプファイヤー場の外へ出たその瞬間、目の前に外から現れたゾンビ!
「うごあッ、がひいぃッ! 鎖骨、てめえこの野郎ばあああああああ」
一方、押しのけられた青モヒカンはどうにか直近のゾンビ群れを躱していた。彼は山と積まれた木箱に上り、ゾンビから逃れる!
「やめろッ来んなッ」
登ろうとしてくるゾンビを蹴落とす。しかし横合いから、青黒い手に足を掴まれ、引き落とされた! 彼は瞬く間に群がられた。頭を掴む手の指が眼窩を抉り、首の筋肉が千切れるくらいに引っ張られる。腹を腕を足を食われながら!
「あああああああああ! 俺の肉を喉に、詰まらし……」
他方、檻の中に捕らわれたままの生者! そこにもゾンビは群がる!
「やめろッ! 来るな、来るなああああああ肩ッ俺の肩が骨ごと痛い痛いやめろ放して放せええええええ」
「あたしのオナカ返してよおおお」「あっあっ肋骨の間すすらないでやめてぺろぺろしないで」「食べないでなんで生きたまま食べないで」「いだいいだいいだい」「えうッえうッ」
阿鼻叫喚! それを見ながら闖入者は笑う。
「おやおや……なんだ、この中にサムライは一人もいなんだか? 笑えるね。人倫を踏み躙りながら自分たちは御免被る。通らんよ。それは」
喉奥をくつくつと鳴らす彼の目には、明らかな軽蔑があった。ここの無軌道者の大半は、ぬるま湯のような危険の中に身を置いてきたのだろう。そこは実より名、意地より見栄を選ばねば爪弾きにされる世界であり、そうでないものを徹底的に排斥する。自分の言動に、彼らは違和感を僅かなりとも覚えた筈だ。それすらも幼稚な怒りで塗り潰した、そのツケである。
闖入者に寄ろうとしたゾンビの五体が、スパンと断たれる。この程度であれば、何億いようが何の障害にもならない。だが彼には切実な、もっと別な問題があった。
「……しまった! 道、聞くの忘れてた!」
大慌てで周囲を見渡す。生存者はどこだ!
「……ハァーッ! ハァーッ!」
モースグ・シヌヨはゾンビの群れを避けながら、少年を追っていた。少年もまた、自らの体躯を活かしてゾンビから逃げ惑っている。喜ばしいことであった。ヤンクたちが恐ろしくて言えなかったが、ゾンビを抱く趣味はない。やはり初めては、生きた少年がいい!
「アアンもう、邪魔ッ!」
立ち塞ぐゾンビを突き飛ばし、ショーンと呼ばれていた少年に迫る。彼は既に袋小路におり、壁を背負うてガタガタと震えていた。
「エッヘヘ、捕まえたァ」
シヌヨは唇を舌で湿しながら漏らした。
「なんで逃げるのかなァ! 別に怖いこと、しようッてんじゃないんだよ」
「性的暴行が怖いことじゃないなら、何が怖いことなんだよッ」
「殺人? けど僕はね、そんなことしないヨ……死体に欲情なんてしないからね、僕はね」
目をぎらつかせるシヌヨ。彼は威圧的に腕を振り上げるが、その瞬間、ショーンが脇をすり抜けようとして走り出した。
「コラッ!」
「ぎゃッ」
しかしシヌヨは、驚くべき速度の反応でショーンを捕らえた。両腕を掴み、彼を宙に吊り上げる。
「大人を……大学生をナメちゃいけない。君はまだ10歳くらいだろう? 僕、19歳。君、勝てない」
「痛……まだ9歳だよ……」
「なんで10じゃないんだよッ!」
シヌヨはショーンを地面に叩き付けた。がひゅ、と口から音が漏れ、倒れ伏した彼は、震えながらシヌヨを睨め上げる。
「僕はなぁ、ギリギリ二桁になったくらいの男の子で童貞を捨てたかったんだッ。それを君はッ!」
「うっ……」
「チクショーこうなりゃヤケだッ。一桁で我慢するッ、男の子で童貞を捨てながらゾンビに食われてやるッ!」
「はぁ!? 頭おかしいんじゃ……」
「イヤーッ!」
シヌヨは、上からショーンを殴りつけた。苦鳴を漏らしてから、ショーンは口を閉ざす。睨め上げる目には、怯えが宿っていた。
「……人に、頭おかしいとか言っちゃいけない。本当に頭がおかしかったら、こうなっちゃうからね」
「ゲホッ……うぇ、ゲホッ」
咳き込むショーン。シヌヨは自らのズボンを脱ぐと、背中から両足を抱えるようにショーンを持ち上げた。そのままに歩き出す。広場の方、ゾンビたちが犇めく方へ。
「ウフフ、男の子。今、僕はようやく卒業して至高に到達するんだ。見てくれよ、今やゾンビたちでさえ僕たちを祝福している気が……アレ?」
シヌヨの脚が止まった。広場のゾンビは全滅していた。静止している。死んでいる。生死者たちが。五体をバラバラにされねば動きを止めぬ者共が。全て、全て、恐らく新たに食われた者共も全て。五体を断たれ、止まっていた。
「なんで……グワーッ!?」
シヌヨは顔面を何かに打たれ、ショーンを放し転倒した。地に落ちたショーンはこそこそと逃げ出し、現れた者の陰に隠れる。この惨状の切欠となった、乳白色の髪の男の陰に。
「ごめん。あまりにも
氷めいて冷ややかな視線を、男はシヌヨに向けていた。彼はそのまま躊躇うように、或いは嫌がるように、シヌヨに手を差し伸べる。
「……立てる?」
「……」
シヌヨは大人しくそれを掴み、引き起こされた。男は煩わしそうに手を振る。ショーンは、彼の陰でシヌヨを睨んでいる。
「……なんで邪魔したんだよぉ」
「何の?」
「僕の卒業式だよッ! せっかく、せっかく男の子とぱふぁ」
男の拳がシヌヨの顔面に突き刺さった。彼は顔面を半ばまで陥没させながら吹き飛び、壁面に激突。首があらぬ方向に曲がり、肉を骨が突き破っていた。
「……」
「えっと」
男が躊躇いがちに、ショーンに聞いた。
「気持ち悪すぎてうっかり殺しちゃったけど……大丈夫だったよね?」
「うん……ありがと、兄ちゃん」
「人殺して礼言われたのは初めてだな」
男は、考え込むように顎を擦る。が、すぐにそれをやめ、屈み込んでショーンに目線を合わせた。
「ま、いいや。それなら、お礼代わりに少し道を教えてもらえないかい?」
「道? いいけど……どこの?」
「墓地に行きたいんだ」
「墓ぁ!?」
ショーンは目を見開き、大袈裟にすら見えるほどに激しく首を横に振る。
「ダメダメダメ! 危ないよッ! どれだけの死体があったと思ってるのさッ」
「周り見てよ」
親指で周囲を示す。辺りにゾンビは、一体たりとも残っていない。ただ一人、走り来る生存者がいるのみ……。
「ショーン!」
「……ショーン?」
生存者の叫びを聞き、男は訝るように呟く。彼をすり抜け来たった赤毛の女性が、ショーンを抱き締めた。
「無事だったのね、ショーン」
「おばさんこそ!」
「お姉さん」
赤毛の女性は抱き締めていたショーンの頭を小突くと、男を見上げた。
「ありがとうございます。なんとお礼を言っていいか……」
「ああ……いや」
男はぼんやりと、ショーンと呼ばれた少年と、赤毛の女性を見比べる。
「その……親御さん、ではないですよね?」
「はい。私がヤンクたちに捕まった時、この子……ショーンは先に檻に入れられていたんです。それが不憫で……クソ野郎ッ!」
女性はバラバラになった死体に唾を吐き、蹴り飛ばした。ショーンは、彼女を見上げる。
「おば……お姉さん。この兄ちゃん、墓地に行きたいそうなんだ」
「あー、待った。それは後でいいや。先にお二人を安全な場所に送り届けよう」
「え? 兄ちゃん、用事があるんじゃないの?」
「後で大丈夫だってば」
ショーンは男に目を向け、ぱちくりと目を瞬かせる。男はそれに、ウインクで応えた。
女性が胸に手を当て、ばつが悪そうに言葉を継ぐ。
「ありがたい申し出ですが、そこまでご迷惑をお掛けは……」
「いや、本当に構いませんよ。時間が切られてる訳じゃないですし。尤も、どこが安全かなんてのはわかりませんがね」
「それならさ!」
ショーンが食いつくように声を張り上げた。
「……ショッピングモール。あそこに、生存者が集まってるんだ。墓地と方角は一緒だよ」
「……」
ショーンの声は震えていた。男は、それに敢えて深入りせずに手を打った。
「OK、わかった。まずは、お二人をそこまで。それから、墓地までの道を教えておくれよ」
「うん……ありがとう、兄ちゃん」
ショーンは言うと、先導を始めた。
「こっちだよ。こっちが近いんだ」
てってこと歩くショーンに、男と女性は追従を始める。その中で、女性が声を掛けた。
「本当にありがとうございます。どうお礼をすればよいか……」
「ああ……構いませんよ。個人的な事情もありますから」
「はあ……そうだ、自己紹介がまだでしたね。私はフランシスと申します」
「俺は……」
男は親指を立て、自分を指し示した。
「マクシーム・ルキーチ・ソコロフと言います」
(つづく)