太陽。闇に浮かぶそれを見たナヴィエ・クラリッサの頭に浮かんだのは、そんな単語であった。だが、あれが太陽であるなら、闇を払うことなくただ燃えているのは、何故なのだろう?
やがてクラリッサは、自分が何も見上げていないことに気付いた。太陽は自分の真正面にあり、揺蕩いもせず安置されている。そう、安置だ。何に? 目を凝らせば、死体の山が見えた。その全ては形容も躊躇われるほど無残なものであり、ここが死体遺棄場だと叫んでいる。
太陽もまた、死体であった。亜麻色の髪の少年の、首だ。欠けたメビウスめいた黒きフェイス・ペイントが施された彼は燃え、クラリッサを見つめていた。死体遺棄場にいるクラリッサを。ならばまた、自分も死んでいるのか。意識はある。腕。脚。胴。首。引き離された肢体に。死んでいる。
「そうだ。お前は死んだ」
少年の首が言った。
「死んだ。殺された。暗黒電脳教会によって。それを俺が繋ぎ留めた」
何の為にだ。クラリッサは問う。
「無論、復讐だ。俺とお前は、同じ痛みと同じ怒りを背負う。輩たる資格は、ある筈だ」
輩? 復讐だと?
「俺はケイト・ザ・フェーニクス。暗黒電脳教会主教。思い出せ、ナヴィエ・クラリッサ。お前がどうやって死んだかを……」
落ちた不死鳥の首
リボーン・イン・フレイム #1
二週間が過ぎても、フランメ村を苛む戦火は消えなかった。
暗黒電脳教会の聖堂を中心として放射状に広がる石畳の街並みには、やはり教会を中心として破壊が広がる。刻まれた爪痕は、そこに住まう人々に絶え間ない出血を強い、やがて土地を腐らせる。
教会の圧政に抗し立ち上がったフランメ村レジスタンスに対し、教会の戦力は圧倒的であった。完全なる包囲すら無意味。甚振るように、傷を広げるように押し上げられる戦線は、彼らのドグマの体現。そこに数の優位は存在せず、そして如何なる理由か、彼らには兵站の心配もないようだった。それの意味するところはひとつ。フランメ村は、負けた。
見渡せば瓦礫の山。頂より流れるは血河。それらを纏めて荼毘に付す炎。空は落ちた煙で黒く塗られ、その隙間から見える青空と陽光は濁っていた。
ナヴィエ・クラリッサは暫し足を止め、天を仰いでいたが、やがて再び歩き出した。足早に、村の中心から離れるように。既にこの村は、自分たちのものではない。深紅のコートの胸元に付いた自警団バッジが、重い。
「ハハハハ! どこへ行こうと言うのですか、少年!」
遠くから声が聞こえる。どこかの阿呆が、教会の修道戦士に見つかったか。
「そんな奥まった方へ行く必要はありませんよ! 恥じることなど何もない。あなた方フランメ村の人々は神たるWi-Fiに選ばれた御子だ……我らが
「じゃあ言い淀むなよッ」
クラリッサは足を止め、声のした方に目を向けた。
「今の声……」
顎に手を当て、考え込む。しかし、すぐに頭を振ると、声がした方へと走り出した。足元で脆い石が割れ、焼けた血が弾ける。残虐の音色が近づく。
「捕まえた。さあ、我らの神聖でありがたい拷問を甘受するのです。大丈夫。暗黒電脳教会の修道戦士は全員、二級以上の拷問士資格を保有しています」
届く声音が、隠しきれぬ喜悦に染まった。
「やばい……!」
クラリッサは、手近な瓦礫の山を駆け上がった。頂上に立てば、眼下には四頭立ての馬車が一台。黒塗りのそれには、Wi-Fiと眼を合わせたような意匠のエンブレムが描かれていた。暗黒電脳教会の紋章である。その周りには同じ紋章が刺繍された黒ローブの集団。暗黒電脳教会一般修道戦士、そして押さえられている赤毛の少年がいた。
「ああくそッ、やっぱりかッ」
唸りながら、クラリッサは跳躍した。音もなく馬車の屋根を蹴り、止まった場所は手近な修道戦士の肩の上であった。
「ン?」
彼が上を向いた瞬間、その首から噴水めいて鮮血が噴出した。
「何ッ!」
近くの一人が、それに反応して何人かが振り向く。クラリッサは殺害した修道戦士を蹴り倒すようにしながら、バク転で地に降りた。彼女の手には、いつの間にか三日月形に湾曲した短刀があった。血濡れた刃を指先で回す。視線が集まり、死線と化す。残数6。
「貴様」近くにいた一人が動こうとした瞬間、クラリッサは先んじて動いた。何かを抜こうとした腕を押さえ、短刀で首を掻き切る。「ぁぐゅ……」声にならぬ声を血と共に首から吐き出すそれを捨て置き、迫るもう一人と対峙。短刀での突きを掴み捻ると、そのまま相手に向かい押し込んだ。「はうッ」一般修道戦士のローブは、防刃ではない。自らの短刀を深々と突き刺され、崩れ落ちる。
「いえええいッ!」いつの間にやら瓦礫に登っていた修道戦士が、高みより跳躍。槍をクラリッサの脳天目掛け振り下ろした。クラリッサは即時反応、クロス腕でそれを止め流す。 SMASH! 逸らされた槍は地を割り、粉塵が吹き上がった。クラリッサはそれを抑えるかのように槍を踏んだ。「はうッ」狼狽する修道戦士。クラリッサは赤く染まった短刀を閃かせ、その両目を掻き切る!「へびゃッ!」
赤い涙を流して悶える戦士を蹴り倒すと、その勢いのままクラリッサは回転。最中に槍を掴み、瓦礫を巻き上げながら振り抜いた!「グワーッ!」ストライク! 吹き飛んだ瓦礫が一人を殺! 残る二人は怯み、たたらを踏む。
「はッ、いい槍じゃんか」
クラリッサは瓦礫を打ってなお毀れぬ槍先を見、歯を剥いた。
「資本の差ァ感じちゃうね。やっぱ宗教って儲かるの? そういう話よく聞くけど」
「クックック……」
声は、馬車の中からであった。重々しく戸が開き、その中から青ローブの男が這い出でる。空気が軋むような音を立てた。中級修道戦士。クラリッサは小さく息を吐き、現れた存在感を睨む。
「当然、儲かる。そうでなければ、誰も向上心など持たんだろう?」
「生臭宗教が」
「人は現世利益に目が向くからな。まず目を向かせねば、救うこともできなかろう」
青ローブは悠然と構える。
「集まったカネは、救済に役立てているぞ。
「はァッ!」
クラリッサが裂帛と共に突き出した槍は、馬車に突き刺さった。青ローブの頭部を掠めた凶刃はベールを裂き、ごま塩を振ったような頭を露にさせる。衝撃に驚いたか、馬が落ち着きなく足踏みを始めた。青ローブは、勝ち誇ったようにほくそ笑んだ。
その瞬間、クラリッサは槍を引き戻した。刃先が彼の頬を掠め、一文字の傷を刻んだ。
「……」
苛立たし気に目を細める青ローブ。顎を伝う血を指で掬い、舐め取る。彼は針のような瞳を、少年の近くにいる戦士に向けた。
「少年を連れ撤退。爾後、直ちにの拷問を開始せよ」
「ジャッ!」クラリッサは回り、槍を横薙ぎに揮った!「ヌ!」「アバーッ!」一人の首が飛ぶが、もう一人はしゃがんで躱す。殺害ならず!「ちぇいッ!」回転に巻き込まれるかのように青ローブが駆け込み、クラリッサの顔面に手を掛ける。それと同時に足を払う!「うッ」クラリッサの体が浮いた!
クラリッサは重力に従い背中から倒れこむ。「ジャッ!」肩が地に着くと同時に背筋の力で回転、短刀で青ローブの足を刈りにゆく! 青ローブはこれをバク転で躱す。クラリッサは回転の勢いのままブレイクダンスめいて隙を打消し立ち上がる。だがその時!「ヌウウウン……」力む青ローブの周囲に、瓦礫が浮遊を始めたではないか!
「何ッ……」
「驚いたか。これぞ我が異能、我が人間性、
「志が低いなッ」
「ほざくがいい!」
青ローブが力を解き放った! 揺蕩っていた瓦礫はにわかに速度を得、矢のようにクラリッサに殺到した!「ジャッ!」クラリッサは右に左に側転を打ち、頭を潰さんとする飛礫を躱す。未だに鋭く青ローブを睨みつける。「ほう、中々タフだな。これを見て尚戦意十全とは!」青ローブが歯を剥き出す。「だが、瓦礫は無数にあるぞ!」次々と浮かび上がる瓦礫!
「フハハハハーッ!」最後に残った黒ローブが、少年の喉元にペンチを当てがったまま勝ち誇った。「見たかッ我らが頼れる小隊長、タダノ・カマセーヌ兄弟の滅擦瓦礫地極! ありがたく思い、恐怖して死ねーッ!」「ジャッ!」「びゅっ」投擲された槍が黒ローブの頭を貫き、石壁に突き刺さった。飛び散った血と脳漿が少年を汚す。「うえ」少年は大袈裟に顔を歪め、足早に離れる。青ローブ……カマセーヌはそれを追わぬ。クラリッサに意識と瓦礫を集中!
クラリッサは、投げた槍に向かって走る。稲妻めいた軌道で走る彼女に向けて瓦礫は殺到し、しかし捉えること能わず石畳を砕くのみ! そしてクラリッサは槍に足を掛け……「ジャッ!」跳躍した! 流麗なる背面飛び。背の下を掠めるようにいくつもの瓦礫が過ぎ越す。遠くでいくつもの石材が破壊されるが、クラリッサは無傷! そして彼女は、馬車の屋根に着地した。
「く……」カマセーヌの攻勢が緩む。馬車と馬は教会の資産。壊すことまかりならぬ! クラリッサは屋根から滑り降りると、馬を繋ぎ止めていた軛を破壊した。馬たちは頭を振り、場を離れんとする。「しまった……」「ジャッ!」カマセーヌが狼狽した瞬間、クラリッサが飛び掛かった。膝蹴りが顔面に突き刺さり、押し倒されるカマセーヌ。クラリッサは勢い馬乗りになると、カマセーヌの眼窩に短刀を深々と突き刺し、捻った。「ぇぁ」カマセーヌは何事かを口から漏らし痙攣したが、すぐに動かなくなった。
クラリッサは抵抗が完全に止まったことを確認すると、短刀を抜いて立ち上がった。見渡せば、敵影はない。あるのは砕けた街並みとクラリッサ。そして馬が一匹残っており、その陰から、赤毛の少年が飛び出した。
「クラリッサ姉ちゃんッ!」
どこかで血と脳漿を拭ってきたか、汚れのない頭になった少年は叫び、クラリッサに抱き着いた。クラリッサは大きく溜息をつくと、綺麗になった彼の頭にゲンコツを落とした。
「痛ッた!」
「ショーン、中心地にゃ近づくなッて言っただろッ! 教会の連中がウロついてて危ねえッて言うの、これで何度目だ? あ?」
「だってよ……」
ショーンと呼ばれた少年は口ごもる。その時初めて、クラリッサはショーンが紙袋を手にしていたことに気付いた。ショーンは躊躇いがちに紙袋を開き、クラリッサに覗かせた。それはナスやトマトなど、瑞々しい野菜であった。
「ショーン。食料なら村の外れでも手に入るだろ?」
「新鮮でうまい野菜は村の中心に入ってただろ。教会の支部があるからってさ」
ショーンは再び紙袋を抱え、近場の瓦礫に座り込んだ。残っていた馬が彼に頭を摺り寄せる。ショーンは馬を撫でながら、不満げに続ける。
「ナジミ姉ちゃん、子供できたじゃん。うまいモンいっぱい食べてほしいじゃんか」
「……マジ?」
クラリッサの胸中で、何かがとぐろを巻いた。
「え、知らないの?」
「初耳だぞ。いつデキた?」
「一ヶ月くらい前」
「マジか。ナジミの奴、幼馴染にすら報告ナシとかどんな了見だよ……いや、それ以前に今の状況でよくもマア、そんなことデキるモンだ」
クラリッサは先よりも大きく溜息をつくと、壁に突き刺さったままだった槍を抜き、短刀を懐にしまった。
「まあいい。それならさっさと行くぞ。ソイツに乗れ」
「ソイツ……この馬? 乗って大丈夫なの?」
「いま教会が使ってる馬、大半は自警団から接収したモンだからな。そしてコイツは、あたしがいた屯所のヤツだ。な、ウマーン」
馬は満足げにぶるると鳴き、クラリッサに歩み寄る。クラリッサは馬を撫でると、その背に飛び乗り、ショーンを引っ張り上げた。
「行くってどこに? というかクラリッサ姉ちゃん、どこに行こうとしてたの?」
「そのナジミたちのところだよ」
ショーンがしっかり跨ったのを確認すると、クラリッサは馬を走らせ始めた。瓦礫に溢れた街並みは、特に単騎にとっては往きづらい場所だ。慎重を期しながら、馬を進めてゆく。
街並み。揺られながら、クラリッサは口の中で呟いた。ほんの一年前まで、この場所はブドウ畑が広がっていた。採れたブドウでワインを作り、この世界〝クルースニクの心象〟に広めていた。フランメ村のワインは三千世界に誇れる〝クルースニクの心象〟特産の一つであり、それを潰したのは、暗黒電脳教会だった。
ある時、行き倒れていた暗黒電脳教会の宣教師を村民が助けた。宣教師はしばらく村に滞在し、その時に当時の村が抱えていた問題……例えばWi-Fi怪物マルファクターやヤクザなど、様々な問題を解決する為に尽力した。それのみならず村のこともよく手伝い、彼は村に受け入れられていた。それ故、彼の布教を誰もが受け入れた。
『死を迎える時に純粋な心を持つことで、人は世界を作ったWi-Fiの一部となる』暗黒電脳教会の教義を端的に述べると、こうなる。隣人を愛し、自分を愛し、互いに頼り、互いに助け合う。そうであれば、素晴らしいものだったのだろう。だが、そうではなかった。
暗黒電脳教会に与する者の多くは、痛みによって無理矢理心を塗り潰し、それによって教義を遂行する異常者であった。彼らはその為に集団内に取り入り、不和を起こし、自分たちに蜂起させるのだ。フランメ村にできたインターネットカフェも、無料Wi-Fiスポットも、一歩進んだ街並みも、税率軽減策も、全てが信徒の為にのみあったのは、その為だ。
自警団を中心として教会に蜂起したレジスタンス。その後の顛末は、思い出しただけで体が震える。先のような三下をいくら殺したところで、盤面には何の影響もない。
フランメ村は終わりだ。逃げなければならない。蜂起が始まる前、開発が届かなかった地域に隠した幼馴染たちを連れて。
やがて、石畳は土の道に変わった。比較的手入れされているとはいえ、草木が茂る。フランメ村の外れは、既に見放されているかのようだ。馬は、やがてそこにあるボロボロの小屋の前で止まった。
「ホレ、着いたぞ」
クラリッサはショーンと共に下馬すると、馬の背を撫でた。
「好きなところに行きな。自由だぜ」
「……」
「ひょっとして、あたしと一緒にいたいのか? それも自由だけど、世話の保証はできねえぞ」
馬は満足げにぶるると鳴いた。クラリッサは再びその頭を撫でると、小屋の前で待っていたショーンのところへと向かった。
「先、入っててよかったのによ」
「やだよ。久々にクラリッサ姉ちゃん来てくれたんだもん」
ショーンの言葉を聞き、クラリッサは何かを言おうとして口を動かしたが、暫しの後に肩を竦めただけで、何も言うことはなかった。ショーンはそれを見ながらニヤニヤと笑い、しかしすぐに戸を開いた。
「ただい」
「ナジミ! シヌーン! 出てこい、クラリッサちゃんの登場だぞッ!」
おんぼろの小屋を解体せんばかりの大声であった。揺れる木造から、反響するかのように慌ただしい音が響き、やがて音は一組の男女の像を結んだ。
「クラリッサ!? 来るなら連絡くらい……」
「アホか、シヌーン。通信は教会が監視してんだぞ。ここがバレたらどうすんだって」
クラリッサはシヌーンと呼んだ男の額をぴしゃりと叩くと、ショーンを顎で示した。
「ナジミ。これ、お前にだってサ」
ショーンはナジミに紙袋を渡した。ナジミはそれを覗くと、眉間に深いシワを刻んだ。
「ショーン……あんた、また村の中心部に行ってたの?」
「だってナジミ姉ちゃん、いっぱい栄養あるモノ食べなきゃじゃん」
「ショーン、それであんたに何かあったらどうするの? あんた、これからお兄ちゃんになるのよ? 生まれる前から、兄弟を一人ぼっちにする気?」
不満げに口を結ぶショーン。ナジミはしゃがみ込んで目線を合わせる。その時、クラリッサが制するかのように手を叩き、ナジミを立ちあがらせた。
「ヘイヘイ、そこまで。来る途中にたっぷり説教はしといたから。それより、だ」
「?」
「ナジミ。お前、大親友にして幼馴染であるあたしにすら子供が出来たことを教えないたあ、どういう了見だ? ン?」
「えっと、それは……」
「俺の提案なんだ」
シヌーンが口を挟んだ。
「お前、レジスタンスの最高戦力だろ? 今、この村にはお前が必要なんだ。活動を妨げるわけにはいかないだろ」
「…………」
沈黙するクラリッサ。それに気付かずか、シヌーンは笑う。
「いやあ、まさかあの悪ガキ大君、ゴリラの現身クラリッサが……」
言うなり、シヌーンは固い顔で腹を押さえた。その顔は、真っ直ぐクラリッサに向いている。
「ンだよ」
「そろそろ腹パン来るかと痛ァッ!?」
ローキックが突き刺さった脛を押さえ、うずくまるシヌーン。予想外の方向から受けた攻撃に、涙目になりながら呻く彼を見、皆が笑った。やがてショーンが、野菜を倉庫にしまいに離れた。未だうずくまるシヌーンをさて置き、ナジミはクラリッサを見る。
「クラリッサ。戻って来られたってことは、前線は落ち着いたの?」
「あー、うん。まあな」
「それなら、今晩は一緒に居てくれない? 今まで話せなかった分、あなたと話したいわ」
「あー……」
口ごもるクラリッサ。彼女には、実際迷いがあった。自分は、幼馴染らを回収して逃げる為にここに来た。そうゆっくり出来よう筈はない。では、どうして自分は迷っているのだろう? 少し考えた後、クラリッサは迷いに従うことにした。
「ああ。いいぜ」
「嬉しい! おいしいもの、用意しなきゃね。丁度いい野菜も入ったし、さっそく腕にヨリをかけるわね」
ナジミは言うと、台所に向かった。やや遅れ、シヌーンがゆっくりと立ち上がった。
「俺も手伝ってくる。クラリッサはノンビリしててくれよ」
シヌーンもまた、ナジミらの後を追った。後に残ったのは、クラリッサ一人。
自分は、本当に何を迷っているのだろう? 今はまだ、戦火はここまで到達していない。だが、明日に来ない保障はどこにもない。昨日までの自分では、こんな悪手を打つことは絶対にない筈だ。
大きく息を吐くと、村の中心部を振り仰いだ。フランメ村を苛む戦火は消えず、立ち上る煙が、空を黒く染め上げていた。その隙間から見える夕陽は、濁っている。
────────────────
濁った陽が沈み夜となっても、未だ村の中心部には炎がちらつく。そこから立ち昇るものがゆっくりと空の闇に迎合し、さながら夜を生み出す鍛冶場のようであった。だが、そうして生まれた空に、星はない。
クラリッサは、それをただ眺めていた。何かを考えていた訳ではない。何も考えたくないのだ。どれだけ変われど、フランメ村は青春を過ごしてきた場所だ。考えれば、囚われてしまう。いなくなった友人。歩んできた道。選択と後悔。場所が消えても、消えないもの。自分はそれを、捨てようとしている。
風が吹く。炎の臭いが鼻を焼く。燻された記憶が、腹の底で薫る。香の源に眠る血と死の堆積は、ここまでは届かない。
「クラリッサ」
声。記憶と同じ、優しい声だ。振り向けば、小屋からナジミとシヌーンが出ていた。
「眠れないの?」
「ああ……」
クラリッサは、村を焦がす炎を再び見やった。二人の視線も、それに続く。燃える。自分たちの過去の証が。ナジミとシヌーンも、何も言わなかった。その胸中を、クラリッサは推し量ることができない。何故だか、前より彼らが遠く感じる。
それでも一つ、疑問があった。それを確かめずして全てを捨てることは、何故だか躊躇われた。
「ナジミ。シヌーン。お前たち、なんで逃げなかったんだ?」
「え?」
首を傾げるナジミ。クラリッサは続ける。
「なんでこの村から逃げなかったんだ? 先々週に教会への反攻が始まった時、あたしはお前らをここに逃がした。そのままどっかに行くことを期待してな」
「……」
「確かに、ここにはまだ戦火は来ていない。けど、明日にも来ない保障はない。なんでだ?」
「うーん」
唸るシヌーン。誰も彼を急かすことなく、続きを待った。シヌーンが再び口を開くまで、優に一分以上が経過していた。
「俺たちは、この村で生まれ育った。ワインだけが有名だった頃も、お前が自警団に入った時も、暗黒電脳教会が宣教に来た時も、教会のお陰で村が成長していく時も。教会が教義に従わない村人を圧し始めた時も。全部この村と、そしてお前とナジミとショーンと一緒だった」
「……」
「だからかな。せめて結婚だけは、この村でして行きたいんだ」
「結婚の話も聞いてねえぞ」
「本当は反攻が始まった日に言おうと思ってたんだけど、状況が状況だったから……本当にすまん」
「結婚決めたのはいつ?」
「一ヶ月くらい前だな」
「……子供がデキたとわかったの、それくらいだって聞いたぞ?」
「それはー……」
口ごもり、乾いた笑いを浮かべるシヌーン。ナジミもまた、気恥ずかしげに目を逸らしていた。クラリッサは肩を竦めた。
「散弾銃なんて持ってないぜ? 異世界からの輸入品は高いからな。結婚はいつの予定だったんだ?」
「明日だ。ハリコさんに頼んでたドレスが今日、できる予定だったんだ。けど、村があの様子じゃな」
「そっかぁ……」
三度、沈黙が落ちた。幼馴染たちは、何も言わない。クラリッサが話し出すのを待っているのだろうか。
結婚。子供。二人は、新たな道を歩もうとしている。自分に出来るのは、それを守ることだけだった。それはいい。それでいい。だが、それすら出来ない自分を彼らが知ったら? 先の夜が記憶をどよもす。即ち、上級修道戦士との邂逅。
深紅のローブを纏うたそれに相対した時、クラリッサらは10人がかりだった。しかし全ての剣は躱され、槍は見切られ、拳と蹴りは全くいなされ関節を極められた。何度となく戦士たちの関節を極められ、甚振るように解放され、その果てに一人ずつ殺された。逃げようとした者は、後ろから容赦なく殺された。その動きを見切ることは能わなかった。戦力ではなく、生物としての格が違った。勝てない。絶対に。
クラリッサだけが見逃されたのは、如何なる理由か。戦士は何かを言っていたが、思い出そうとすると頭がぼんやりする。しかし結果としてクラリッサは見逃された。その時には、既に斗う気も失せていた。絶望すらせず、心を折られていた。だから、逃げることにしたのだ。未だ残り、村を取り戻そうとする仲間を捨てて。
大きく息を吐くクラリッサ。簡単なことだ。自分は、一人逃げるのが嫌だったのだ。友も戦友も前へ進むのに、自分だけがそうできないのが恥ずかしかったのだ。例え向かう先が、別々の道だとしても。
クラリッサは首を回すと、再び大きく息を吐いた。
「……明日の昼、大規模な反抗作戦が開始される。戦火はここまで届く筈だ」
嘘である。だが、真っ直ぐに言い切った。ナジミは目を伏せた。
「そう……ひょっとして、本題はそれ?」
「ああ。昼には村から逃げないとヤバいぜ」
「そっ……か」
「だから式は朝一で済ませろ」
「え?」
項垂れるナジミの肩を叩くと、クラリッサは立ち上がった。
「ドレス、ハリコさんの店だったな?」
「……今から取って来る気か? 夜な上に、中心のすぐ近くだぞ」
「だからあたし以外取りに行けないんだろ。それともシヌーン、行くか?」
「いや、それは……」
「そういうこった。ナジミ。ショーン起こして式の準備しといてくれ」
「待ってよ、急だってば! それにクラリッサがちゃんと出てくれるなら、ドレスだって……」
「結婚式でめかしこまねえ花嫁が一体どこにいるよ、ナジミ。人生で一番キレイでいたいタイミングだろ? それに……」
「……」
「あたしなりのケジメでもある。臆病なあたしへのな」
「……?」
「わからなくていい。あたしだけの問題だ。けどこれを越えない限り、あたしに明日は来ない」
「……わかったわ」
ナジミはゆっくりと頷いた。そこにあったのは、ある種の諦念だ。それでも彼女は、クラリッサを真っ直ぐに見た。
「けど、約束して。絶対に戻って来るって」
「ああ。承った」
クラリッサは再びナジミの肩を叩いた。シヌーンは不安げにクラリッサを見ていたが、やがて静かに頷いた。クラリッサは微笑みで応えると、近場で立ったまま寝ていた馬を起こし、それに跨って橙ちらつく村の中心へと向かって行った。
なんと嬉しく、誇らしいことか。友にとって、自分は未だに勇敢で、強き者であった。ならばせめて、そのままに死にたい。最も親しき友の幸せを見届けたら、再び戦列へと戻ろう。そこには、未だ自分を待つ友がいるのだ。彼らと共に大義ある、しかし無意味な斗いに臨み、誇り高く散ろう。真に強き者に、弱者の意地を見せてやろう。
友よ。おお、友よ。そして願わくば、我が名を子らに語ってくれ。父と母の友は勇敢で、名誉ある戦士だったと。その真実を、臆病を、君と子供が知る必要はない。それだけが、ちっぽけな自分の望みだ。それだけで、自分は満足だ。
クラリッサは村を睨んだ。今はただ、捨てた誇りを取り戻す為に往く場所を。そして明日、自らの墓となる青春の地を。
(つづく)