ひどく懐かしい声がした。
横を向いて、僕は思わず布団から飛び起きた。
(お父さん――っ?)
台本と睨めっこしながら、同じ台詞を繰り返し声に出す後ろ姿。
見間違えるはずがない。
僕の――――父だ。
「お、
心が激しく揺らいだけど、すぐに冷めた。夢だと分かったからだ。
父だけど、違う。
そこにいるのは……昔の父だ。
それに、また顔が真っ黒に塗り潰されている。
「ううん、大丈夫だよ。練習してるの?」
「おうよ! 今度の舞台は、絶対に成功させなきゃならねーからな。つうか絶対するぜ。葉月が脚本を書いたんだからな」
「脚本って、僕はアイデアを出しただけだよ」
興奮気味の父に、僕が笑いかける。
かつて交えた会話が、映像でも見ているかのように勝手に進んでいく。
(確か……小学三、四年生だったかな)
父が、初めて念願の主役になった舞台。
あの時の父の喜びようは、今でもはっきりと覚えている。父が主役として舞台に立つのは、僕の夢でもあったから。
「何言ってやがる。そのアイデアがなかったら、この舞台は出来なかったんだぜ? お前が脚本を書いたも同然じゃねーか」
「そっか……お父さん、主役になったんだよね。おめでとう」
「サンキュー! ま、俺が主役なのは当然だけどな。俺以外には演じられねーし」
(当て書きだしね)
今の僕なら内心でそう突っ込むだろうけど、夢の中の僕は小学生だ。
あの頃はまだ幼くて、当て書きという言葉も、その意味も知らなかった。ただただ、父の言葉を素直に受け取って喜んだものだ。
「見てろよ、葉月。今はまだ小さい劇場だけどよ、俺はこれからどんどん大きくなるぜ。主役張りまくって、テレビにも出まくって、ゆくゆくはハリウッドだ!!」
「ハリウッドスターになるんだよね!」
「あぁそうだ!! しがない舞台俳優で終わるかってんだ!! 必ずアカデミー賞取って、レッドカーペットの上を歩いてやるからな!!」
父はいつも、子供のような笑顔でそう話を
だけど今は、真っ黒に塗り潰されているせいで、その笑顔も見えない――――
「――――」
意識が、元に戻った。映画が終わって、現実に帰ってきたような感覚だ。
(…………久しぶりに、見た)
父の夢を見るのは、いつ以来だろう。
胸の中が、気持ち悪いくらいにざわついている。今の僕は多分、あまり人に見せたくない顔をしているだろう。
ふと、誰かに見られていないかと不安になって周りを見回す。そこが
なんで、今になってあの夢を見たんだろう。
なんで、顔が真っ黒なんだろう。今回といい、その前といい――――
(……思った以上に、疲れてるのかな)
気分を変えるのも兼ねて、時間帯を把握しようと窓の外に目をやる。
少し赤みがかった白い空だ。一瞬夕方なのかと思ったが、ひんやりと肌を撫でるこの空気は、
時計を見ると、まだ
この世界では、時間は十二
ちなみに
二度寝しようかと思ったけど、すっかり目が冴えてしまったのか、眠気は一向に来ない。とりあえず、起きて髪を整えることにした。
「…………さむ」
春とはいえ、朝晩は少し冷える。寒がりなので、羽織を着てから鏡台の前に座った。質素だけど立派な造りだと一目で分かる。鏡も、餅屋で使っていたのよりずっと鮮明だ。元の世界で使っていた鏡に限りなく近い。
(相変わらず可愛い顔だ)
最初はこの顔に度々見惚れていたけど、今となっては何も感じないどころか、客観的に観察できるようになってしまった。慣れというのは本当に恐ろしいものだ。
「……うわ」
よく見ると、目が少し赤い。それでも、人前に出られないほどではない。
昨日、
(そういえば、誰かの前であんなに泣いたの、すごく久しぶりだ)
今になって急に恥ずかしくなった。可愛い女の子ならともかく、大泣きする男子とか全然笑えない。まぁ、見た目だけは可愛い女の子だけど。
このままでは恥ずかしさで死にそうなので、強引に髪へと意識を戻した。
まずは
長い上に癖があるので、いきなり
(きいちゃんの髪は
妹の髪を思い返して、笑みが零れた。
この髪も柔らかくて触り心地は良いけど、
妹の綺麗な髪には及ばないけど、元の僕も、ここまでの癖毛ではなかった。そもそも、絡むほど伸ばしたこともなかったけど。
髪を梳くというだけなのに、時間も手間もかかるし、根気も要る。
だけど、僕はこの繊細で地道な作業が、子供の頃から割と好きだ。
乱れた髪が綺麗になっていくのは気持ち良いし、何より妹が喜んでくれる。その笑顔を見たくて、子どもの頃から妹の髪を梳いてきた。
とはいえ、この長い癖毛は手強すぎる。
もう少し何とかならないものかと、悪戦苦闘しながら手を動かし続けていく内に、いつしか思考が別の方向へと流れていった。
(……桜さんの髪って、触ったことないな)
真っ直ぐな黒髪が、脳裏を鮮烈に彩る。
綺麗な顔と大きくて鋭い目が印象的だけど、あの黒髪も綺麗だ。吸い込まれるような黒で、滑らかで、もはや奇跡だと思う。
髪を下ろすのを何度も見たけど、その度に思わず見惚れてしまって、桜さんに
多分、彼女は自分の髪にほとんど関心を持っていない。綺麗な髪なのに、一つにまとめるだけだし、実にもったいない話だ。
(髪をときたいってお願いしたら、ドン引きされるかな……って、今さらか)
自分の顔に見惚れたり図書館で興奮したりして、
「…………」
桜さんの髪に思いを
(彼女にとって、
もちろん、姉を死なせた憎い仇であるはずだ。実際、少し見ただけで全身が凍り付いてしまいそうなほどに、激しい憎悪に満ちた顔をしていた。
だけど、大切なものを壊してしまった子供のような……そんな顔もしていた。
本当は、殺したくなかった?
一緒に過ごす内に、情が湧いた?
それとも、もっと別の理由があるのか……考えたところで分かるはずがない。
夜長姫に抱く想いは、桜さんだけのものだ。僕が共感できるものでも、ましてや共有できるものでもないだろう。
僕にできることは、
桜さんの罪を帳消しにするという条件で巫女になったけど、本当の意味で、帳消しにすることなんてできない。
ゴーンと、時の鐘が鳴った。明け六つの正刻。
元の世界風に言うなら、朝の六時だ。考え事をしている内に、いつの間にか一時間も経っていたらしい。絡まり放題だった長い髪も、すっかり綺麗に整った。
そろそろ桜さんが起こしに来る頃合いだろう。早起きした僕を見て驚く桜さんを想像して、ちょっと楽しみになってきた。
ふと、いつもと違うことをしようと思い立った僕は、座布団を引き、正座をし、背筋をピンと伸ばした。お城の愛らしい姫君のイメージで。
せっかく髪を整えたのだから、この見た目に釣り合うことをしてみようと思ったのだけど、それがいけなかった。
「…………大丈夫?」
桜さんが来るのが思いのほか遅くて、僕の足はすっかり
その結果、
***
「舞、ですか?」
「巫女が国の中心部である社町で舞って、一年の穢れを払う儀式よ」
桜さんはこの場にいない。従者や侍女たちは、別の部屋で食事をすることになっているからだ。ちょっと寂しい。
できれば桜さんと一緒に食べたかったし、正直、巫女たちに囲まれた食事は緊張してならないのだけど、それは
朝食の話題は、視察についての説明だった。
明日から始まるということで、僕向けの初心者講座のような感じになっている。いきなり巫女になった身としては、ありがたい話だ。
約四、五か月の馬車旅らしいけど、馬車の揺れには良い思い出がない。体を打ち付けたり、途中で具合が悪くなって吐いた衛兵さんを目の当たりにしたりと、ファンタジーな馬車のイメージが音を立てて崩れていったものだ。
黄林姫が言うには、視察ではそんなことにはならないから大丈夫という話だけど、不安はどうしても
そして視察で
「視察のことは知ってましたけど、巫女が舞うっていうのは初耳ですね」
「民衆の間では、舞はあくまで視察の余興という認識が強いのでしょうね。でも、視察の本来の目的はその舞の方なのよ」
「へぇ、なんだか楽しそうですね」
「言っておくけど、儀式の形式としてじゃなくて、実際に一年の
「舞は巫女の重大な使命の一つよ。巫女になったからには、お祭り気分で舞うなんて絶対に許されないから。しかと
「あ、はい……」
もちろん、お祭り気分で挑むつもりはないけど、近所の夏祭りの巫女舞を思い出してほっこりしたのは図星なので、ちょっと恥ずかしい。
縮こまった僕を見てか、
「別に難しい話じゃない。表向きは舞いつつ、余分な気を切るだけだからね」
普通に難しそうだ。ナニソレ。
だけど、前にそんな話を桜さんから聞いたことがある。国が乱れないよう、巫女が気の流れを管理して整えているのだと。
「……確か、陰と陽の気の
黄林姫が「えぇ、そうよ」と微笑んだ。