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第五話「花の宴 ーはなのえんー」 (後編) ④

 殺される瞬間、夜長姫は向けられたはずだ。

 今しがた見せた、あの顔を。


 あの顔を向けられたら、頭が真っ白になって、心が真っ黒になる。自分の中にある全てを焼き尽くされてしまって、何も考えられなくなる。



 だけど夜長姫は、むしろ感動したという。



(…………狂ってる)


 その光景を思い浮かべて、戦慄が走った。

 悪鬼のような顔で滅多刺しにする桜さんにではなく、笑顔で刺される夜長姫に。


 僅か十歳で鬼狩りを起こし、怨嗟も殺意も意に介さず、無邪気に笑える少女。


 今なら、分かる。夜長姫が鬼だと言われるのは、夜長姫に似ている僕が鬼だと迫害されるのは、当然のことだ。


 桜さんは、そんな人を恨み続けたのか。

 恐怖に屈することなく、周囲を欺いて、殺意を研ぎ澄ませ続けてきたのか。



 ずっと――独りで。



「姉さんは、いつも言っていたわ。命というのは尊いものだって。どんな人にだって、死んだら悲しむ人がいるって」

「それは……」


 否定したかったけど、できなかった。

 だって、知ってしまったから。


 その鬼のような姫の死を、狂ってしまうほどに悲しむ人間の存在を。


「私は、自分を好きだと慕う人間を殺したのよ」

「いや、でも、それは」

「どんな事情があろうとも、私は最低の人殺しで、最低の鬼よ」


(……なんて、言えばいいんだろう)


 桜さんは、責めてほしいのだろうか。だけど、僕にはとても責められない。かといって肯定するのも、違う気がする。


「ねぇ、葉月。従者にするということは、ずっとそばに置くことになるのよ。たとえそれが、どんな人間であったとしてもね」

「え?」

「私のことはまだ取り返しがつくわ。あんたが責められるようなことは何もない。本当なら、とっくにこの首はどうから離れているのだから」

「桜さん……?」

「私のことは、今からでも切り捨てられる」


 あの時見たのと同じ笑顔で、桜さんは言った。

 美しいのに、寂しさと切なさが入り混じった、泣きたくなるような笑顔で。


(あぁ、そうか)


 今さらのように分かった。

 最初から、この人は僕を、自分から引き離すつもりだったんだ。




 ずっと、独りで生きていくつもりだったんだ。


 誰にも頼らず、

 誰にも寄り添わず、

 自分の罪だけを背負い続けて。




「……僕は、桜さんじゃないです」


 桜さんの目が点になった。

 当然だろう。自分でも、何を言っているんだろうと呆れるレベルだ。


「だから、桜さんがどうするべきだったかは、僕には分からないです。もちろん殺人は罪ですけど、必ずしも間違いなのかというと……」

「間違いよ。受け入れられるべきじゃない」

「ですよね。だけど……」


 やっぱり、桜さんは正しい。言葉一つ一つに迷いがなくて、説得力がある。そんな彼女だから、自分の罪を真っ直ぐに受け止めるのだろう。


 それでも――いや、だからこそ。

 僕の気持ちは、変わらなかった。


「僕は、桜さんの隣にいたい。何があっても」


 桜さんが、目を見開いた。

 目力のある桜さんだけど、その目は震えているようで、少しも怖くなかった。


「間違いとか、正しいとか、そういうの関係なしにそばにいたいんです。僕は、桜さんを独りにしたくないんです」

「……なんで、そこまで」

「桜さんの笑顔、時々寂しそうだから」


 桜さんが、いぶかしげに目を細めた。

 多分、本人には自覚がない。本当の気持ちには、案外気付かないものだから。


「僕、昔から人の表情に……笑顔に敏感なんです。その人が本当に心から笑っているのかどうか、分かるんです。何があっても、ちゃんと笑っていられるように……毎日、鏡の前で笑顔の練習をしてるから」


 桜さんが目を丸めた。

 どことなく驚いているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。


「怖かったんです。家族の泣き顔とか、怒っている顔が。僕のせいで、空気が重くなったりするのとかも怖くて……だから、人の笑顔にも敏感になったのかな」

「……優しいのね」

「いえ、全然。だって、自分のためですから」

「え?」

「よくそう言われるけど、結局は自分のためなんです。傍にいたいのも、僕が桜さんに寂しい顔をしてほしくない。笑ってほしい……それだけなんです。だから、桜さんが気負いすることなんて何もないんですよ」



 話を一通り終えたところで、僕は我に返った。



 もしかして、話し過ぎてしまっただろうか。いきなり僕の特技の話をされたって、反応に困るだけではないだろうか。


 恐る恐る、桜さんの顔色をうかがう。


 桜さんの顔は、穏やかだった。

 先ほど悪鬼のような顔をしたことが、何もかも嘘だったかのように。


「……私の姉さんも、そうだったわ」

「え?」

「姉さんも、よく鏡の前で笑ってた。朝晩どころか、鏡さえあればいつでもね。私には意味が分からなくて、なんでそんなことをするのか聞いたら、今のあんたと似たようなことを言ってたわ。笑顔でいないと、怖いんだって」


 思わず、息を飲んだ。

 笑顔でいることは、自分を守る術だった。笑顔でいるためなら何でもした。常に笑顔でいないと、怖くて仕方なかった。


 僕以外にもいたんだ。そんな人が。


「あんた、本当に姉さんとよく似てるわ。周りを気にして、しょっちゅう作り笑いをするところなんか……特にね」


(作り笑い、か)


 出会った時、桜さんは僕の笑顔をあっさりと受け入れてくれた。ずっと嫌いで仕方なかった、作り笑いも含めて。




『笑顔を絶やさず、病気と闘って生き抜いたんでしょう? その人生を、自分で暗いと切り捨てるべきではないわ』


『あんたが生きていく上で、必要なものだったんでしょう?』




 ただのお世辞だったとしても、深い意味のない言葉だったとしても、そう言ってもらえたこと自体が嬉しかった。


 そして今、あれは心からの言葉だって分かって、ますます嬉しい。


「……正直、最初は警戒したわ。あまりにも、夜長姫とそっくりだったから」


 夜長姫の名前が再び出てきて、反射的に体が少しこわった。

 そういえば、初めて見た桜さんはちょっと怖い顔をしていた気がする。


「でも、あんたと話をして、確信したわ。あんたは夜長姫でもなんでもない。『やまづき』という一人の人間だって」


(名前、覚えててくれたんだ……)


「その葉月が、他でもない葉月自身が望んでくれるというのなら……分かった」

「え?」

「傍にいるわ。従者として」

「本当ですかっ!?」

「もちろん」


 桜さんが、手を差し出してきた。


「よろしくね、葉月」

「はい」


 差し出された手を、そっと、握った。温かい。


(あ…………っ)



 視界が、急ににじんだ。



「葉月?」

「すみません……」


 気が付いた時にはもう、遅かった。

 目からあふれる雫が、みっともなく落ちていく。寝台に、桜さんの手に。


(あぁ、そうか……)


 一人にしたくないと思っていた。寂しい思いをさせたくないと思っていた。だけど違った。そんな綺麗な感情じゃなかった。




 僕が、桜さんにそばにいてほしいんだ。




「……すみませ……手、汚し……う……」


 慌てて離れようとしたけど、その手にしっかりと掴まれてしまった。みっともない涙が、桜さんの手に絶えず落ちていく。


 強い瞳が、僕をとらえる。

 目を逸らすことすら許さず、真っ直ぐに。


「一つだけ、約束してくれる?」


 鼻水が出そうになったので、うなずくだけでもう精一杯だった。


「人の気持ちというのは、月日の流れで移り変わるもの。今のあんたの気持ちが変わる可能性も充分あるし、それはけして悪いことじゃないわ」

「…………はい」

「だから、もし私から離れたくなったら、躊躇ためらわずに実行すればいい」

「はい……って、えっ?」

「約束して。何よりも、自分を優先すると」


 桜さんの手が、僕の手を強く握りしめる。


「お願い」

「……分かり、ました」

「ありがとう」



(あ――――)



 桜さんが、笑った。ずっと前から見たかった、心からの笑顔だ。

 この世界で初めて見た桜吹雪なんか比じゃないほど美しくて、僕の顔をはっきりと映したあの川よりも澄んでいて、太陽のように温かい。


 大粒の涙が、また目から溢れ出した。


「えっ? ちょっと、葉月?」

「すみません」


 ずっと笑顔を作ることに腐心してきたくせに、僕はこの瞬間まで知らなかった。


 人の笑顔で、涙が止まらなくなるなんて。






   ***






 扉を閉める音が、やけに空虚に響いた。


 あの後、私は目を真っ赤にした葉月を部屋まで送った。終始、鼻をすすりながら謝ってばかりだったから、侍女が通りかかった時は少し恥ずかしかった。葉月はそれどころではなかったから、何も言わなかったけど。


(明日、起きたら目が腫れてるだろうな……)


 医務室に居なくていいのかと心配されたが、治療なんてとっくに終わっている。虹姫と二人きりで話すのに、あそこに居残っていただけだ。


(本当に、静かだ)


 静かすぎて、右も左も分からないような錯覚におちいりそうになる。

 そう感じた自分に少し驚いた。静寂なんて、もう慣れきったはずなのに。


(……あぁ、そうか。最近は、ずっと葉月と一緒だったから)


 じっと、己の手を見つめる。

 どんなに洗い流しても、この手は血にまみれたままだ。これからも、ずっと。


 だというのに、血で汚れたこの手を、葉月は躊躇ちゅうちょなく握り返した。それがどんなに嬉しかったことか、おそらく彼は知らない。




『葉月について、教えておきたいことがある』




 先ほど、虹姫と話していたことを思い返す。


『ただし、本人は現時点で知る由もないし、言っても分からないだろう。まぁ、その辺りはあんたの判断に任せるけど』

『もったいぶらないで早く教えて』

『せっかちなのは相変わらずだな。じゃあ、ちょっと耳貸して』

『は?』

『他の奴の耳に入るのは、不味いと思うよ?』


 私はいぶかしく思いつつ、大人しく耳を貸した。

 そして、全身が凍り付いた。


『……それは、確かなの?』

『私の経験からして、間違いないよ』


 目の前が、暗くなっていく。座っているのに、足元がおぼつかない。

 私は強く唇を噛みしめた。自分を保つためだ。少し、血の味がした。


『なぜ、私に……?』

『もちろん、あんただからだよ。それとも、知りたくなかった?』

『……いいえ』

『それを聞いて安心した』


(白々しい)


 言葉とは裏腹にのらりくらりとした虹姫に、若干の苛立ちを覚える。私と同類のこいつなら、言われなくても分かることだ。


『後は、あんた次第だよ。煮るなり焼くなり、好きにするといい』

『……あんたはそれでいいの?』

『何が?』

『あんたは仮にも一国の巫女よ。場合によっては、あんたも重罪人になるけど』

『私が、一国の巫女として教えたとでも?』


 答えるまでもなかった。

 それを分かっている虹姫も、返答を待つことなく言葉を続けた。


『私はただ、何も知らないよりは良いと思っただけだよ。残酷な事実だろうとね』

『……どうだか』


(あの後、葉月が聞き耳を立てていたと知って肝が冷えたけど……)


 おそらく、虹姫との会話は聞いていない。そのことに少し安堵した。


 虹姫は、何も知らないよりはましだと言った。私も同意見だ。

 だけど、彼がそうだとは限らない。彼は苦しいほどに優しくて、温かくて、繊細だ。姉さんが、そうだったように。


 少なくとも、今、彼に教えるべきではない。

 いや、いっそ知らないままの方がいいだろう。




 葉月が、夜長姫におかされていることなど。




『もし、夜長が蘇るなんてことがあったら……あんたはどうする?』


 血で汚れた手を、強く握りしめた。

 迷いなく私の手をとった温かなぬくもりを、しっかりと噛みしめて。


(私には、責任がある)


 葉月がそんなことになったのは、私が夜長姫を殺したからだ。


 殺したこと自体に、後悔はない。

 初めから覚悟していたからだ。自分はもちろん、他人にも犠牲を強いることを。


 だからこそ、こんな形で、中途半端に終わらせるわけにはいかない。

 今の私にあるのは、殺した責任と、終わらせる義務だけだ。


 もし、あの女が蘇るなんてことがあったら、何が起こるか分からない。七年前の……いや、それ以上のことが起きるかもしれない。


(起こすわけにはいかない。姉さんのような犠牲は、もう……!)



 ふと、頭をよぎった。



 私の傍にいたいと言った時の、必死な顔が。

 私の手を握って、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった顔が。



 涙で濡れた、溢れんばかりに優しい笑顔が。



「……大丈夫」


 彼には、約束してもらった。いざという時は、自分を最優先にすると。


 だから、大丈夫。ちゃんと自分を守るはずだ。

 私も、いざという時は躊躇ためらわない。無駄に苦しめてしまうだけだから。


(大丈夫……夜長姫の時だって、私は上手くやったのだから)


 昔の私とは違う。

 私はもう『この体質』を飼い慣らしている。完璧に制御できる。




 だからこそ、『黒湖様の加護』を打ち消して、巫女を殺せたのだから。




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