あの時のピアノ奏者の方へ
この駅のストリートピアノは、誰が弾いてもいいピアノです。
子どもの演奏も受け入れますし、
セミプロの演奏も受け入れます。
僕もピアノをかじった程度のピアノ奏者です。
本職ではありませんが、少しだけ弾けます。
本職は会社員です。
いつも同じ時間に退勤して、
同じ駅のストリートピアノをちょっと演奏するのが、僕の日課でした。
みんなの目や耳がありますけれど、
僕は気楽に演奏を楽しんでいました。
あなたと出会ったのは、そんな日常の中で、突然でした。
僕はいつものように、退勤する際、駅のストリートピアノを弾きに行きました。
その時間帯にしては珍しく、先客が演奏をしていました。
その演奏は素晴らしく、
耳から入って魂を洗うかのようでした。
これは、プロの方かもしれない。
ものすごい奏者なのかもしれないと思いました。
それが、あなたでした。
あなたは一曲弾き終えて、ため息をひとつつき、周りを見て、
僕と目が合いました。
あなたは、僕のことを知っていました。
この時間帯に来れば、会えると思ったと言いました。
こんなとんでもない奏者に、
僕が覚えてもらえるということは、
恐れ多いことですし、なんで僕がと思いました。
あなたは僕を誘います。
連弾しよう。君がアレンジしたら合わせよう。
僕は身震いしました。
これほどのピアノ奏者と演奏ができる。
その事実とともに、忘れていた過去を思い出しました。
僕は、幼い頃からピアノを習っていて、
何かとピアノを弾く時には駆り出されるほどには上手く弾けました。
学生時代なら合唱の伴奏などもしました。
ただ、僕のピアノはそこまででした。
僕の演奏である必要などなく、
何だったら伴奏を流せればそれでよかったのです。
僕のピアノは、僕である理由がありませんでした。
絶対僕でなければいけない演奏ではありませんでした。
僕はそのことを感じて、静かに失望して、
しかし、僕でなければいけないほどの技術もなく、
それでもピアノから離れがたくて、
学生生活を終えてから、会社員になっても、
駅にストリートピアノがあったら、弾いてみようと思ってしまうのです。
僕は僕のピアノに望みは持っていません。
ただ、僕がピアノを見限ることができないまま、
高みを目指すこともできず、諦めることもできず、
ただ、日常の中に僕の音色を流せればそれでいいと、
毎日ストリートピアノを弾き続けていました。
あなたに誘われるままに、僕はあなたの隣に座りました。
僕は、おずおずとピアノを鳴らし始めます。
あなたがそれに合わせて伴奏を入れます。
僕の自信のない演奏に、彩を加えて元気にしてくれるように。
僕はもっと技巧を加えてみます。
あなたらさらに音数を増やして答えます。
原曲からかなりアレンジを入れました。
いつもの僕では考えられないほどの奏法です。
あなたはそれにしっかりついてくるだけでなく、
さらにその上の世界を見せてくれます。
ピアノの奥深さ、世界の広さ、音の輝き、
こんなに世界は広かったのかと、目が開いたようでした。
演奏を終えて、万雷の拍手が駅を包みました。
あなたは僕に握手を求めました。
君のピアノはまだまだ伸びるよ。
あなたはそう言いました。
また、時間があったら演奏しよう。
あなたはそう約束してくれました。
あの日から少しして、
あなたのことを動画で見ました。
やはり、プロだったのですね。
しかも、世界的なプロでしたね。
あの技術であれば当然でしょう。
ただ、あなたを隣に感じられた時、
僕はあなたに届くような気がしました。
果てしなく遠く感じるのでなく、
僕が僕のピアノを見つけさえすれば、
また、あなたの隣で演奏ができるような気がしました。
あなたは、たまたま僕のストリートピアノを聞いて、
僕はいつも同じ時間であることを知って、
そして、僕を誘ってくれたのでしょう。
あなたが誘ってくれたのは、僕の目を開くため。
僕のピアノを見つけるべく、ピアノへの目と耳を開くため。
きっとそうだったのだろうと思います。
僕は会社員をしつつ、
僕だけのピアノを追い求めようと思います。
ストリートピアノでいつもの時間に演奏をしています。
あなたが開いてくれたピアノの世界を、
僕は楽しく冒険しています。
もし、お時間が合えば、また連弾しましょう。
あなたはきっとお忙しいと思います。
それでも、僕はいつもの時間にいます。
僕はピアノの夢を見つけることができました。
あなたのおかげです。
ピアノの演奏でどこまでも僕は行けるような気がします。
あなたに届くよう、いつもの場所で僕は演奏しています。
気が向いたら来られてください。
あなたの演奏が、僕は好きです。
会社員のピアノ奏者