お客様へ
いつも、こんな小さな床屋にいらしてくれて、ありがとうございます。
他にも立派でおしゃれな美容院がたくさんある中、
路地裏のこんな床屋に通っていただけて、
とても嬉しく思います。
ただ、こんな床屋で満足するのかと、
お客様の髪質ならば、もっと本格的に美しくした方がいいのではないかと、
思ったことは一度二度ではありません。
この床屋の持てる技術を集めて、いつもお客様の髪を整えておりますが、
はたして、これでいいのかといつも思っております。
お客様は、小学生の頃からこの床屋に通われております。
その頃のこともよく覚えております。
お母様に連れられて、長くなり過ぎた髪を整えにいらっしゃいました。
ご家庭の、お母様の床屋を卒業して、
今度からこの床屋で髪を切るのと、お母様に言われて、
お母さんの床屋がいい、こんなの嫌だと泣かれたのは、
お母様への愛情から来るものだったのでしょうね。
お母様の優しい床屋が心地よかったのでしょう。
このような床屋では、不安になるのもわかります。
ましてや、お客様は当時小学生でした。
床屋のおじさんなどは、見たことのない存在でもあったでしょう。
当時の私ときましたら、
端的に申し上げて髭でデブでございました。
当時はそれなりに髪もありましたが、
月日とともに薄くなり、今では丸ハゲです。
当時の私は、幼いお客様にとって、得体のしれないものだったに違いありません。
それでも、お客様をなだめて、髪を切らせていただいたことを、昨日のように覚えております。
髪を洗い、髪を切り、整えて、
仕上がった様を見て、お客様の顔が輝いた様をよく覚えております。
おじさん床屋すごいと、お客様は言われたものでした。
あれからだいぶ年月が過ぎました。
この田舎町にも新しい美容院がたくさんできました。
それでもお客様は定期的にこの床屋にいらっしゃいます。
学生になったら、少しおしゃれのカットをしてほしいとか、
卒業したら髪を染めてみたいとか、
長く伸ばしたいと言って頑張って伸ばしたかと思ったら、
気分変えたいとバッサリ切ったり、
そのすべての髪の手入れを、私がやってきました。
お客様は、世間話のようにご家庭のことも話されました。
お母様の床屋を卒業されて間もなく、
お父様とお母様はご離婚されたお話、
お父様は新しいお母様と再婚なされたお話、
お客様はいい子でいたけれど、
やっぱりなんだかしっくりいかないというお話、
そのすべてを、私はお客様からお聞きして、
誰にも噂にすることはありませんでした。
お客様が私を信頼して話してくれたことです。
それを裏切ってはいけません。
お客様は、どうやらご自宅から会社にお勤めのようです。
会社帰りの姿で、この床屋にいらっしゃいます。
このところ、ひどく疲れた調子で、
みんなから結婚はまだかと言われているとおっしゃっていました。
お父様とお母様が上手くいかなかったのを見ているから、
なんとなく、一歩が踏み出せないとおっしゃられていましたね。
長年お客様の髪を整え、お話を聞いている私は、
お客様は、一歩を踏み出したいのではないかと感じました。
その時は、いつも以上に髪の手入れを入念にいたしました。
お客様に一歩を踏み出す自信を持ってもらうべく、
お客様を美しく仕上げました。
仕上げを見て、お客様は幼い頃のように笑いました。
おじさんの床屋さんはやっぱり最高だと。
私はそれで十分でした。
それから間もなく、お客様には、結婚を前提にお付き合いしている方ができたと聞きました。
デートの前には、しっかり髪を整えました。
そして、お客様は、結婚をすることになったと報告なされました。
結婚をしたならば、実家から通えるこの床屋に来ることもなくなるだろうと。
あと何度来れるかわからないと仰せでした。
去り際におじさんの床屋は最高だったと、やはり褒めてくださいました。
もうすぐ、お客様は結婚なされます。
お客と床屋の関係でしたが、
長い間、髪を整えられたことは、幸せな時間でした。
お客様は新しい家庭を築かれます。
そのご家庭が、愛に満ちたご家庭であることを望んでいます。
その幸せへの一歩を踏み出したのは、お客様自身です。
私は髪を整えただけです。
お客様は、素晴らしい髪をお持ちです。
嫁ぎ先の近くで、きれいに整えてくれる店を探されてください。
私はもう年ですし、そろそろ引退しようかと思っております。
お客様のおかげで、床屋人生はとても楽しいものでした。
このお手紙を渡しましたら、この床屋に幕を引きます。
長い間ご贔屓にしていただき、ありがとうございました。
お客様の今後の人生に、幸多からんことを願っております。
床屋のおじさんより