私には、作られた私の虚像がある。
それは私から、かけ離れたものだ。
かけ離れているけれど、
その虚像も私の姿のひとつなのだろうなと思う。
私は鏡を見る。
鏡に映るのは私だけど、
鏡の向こうに私がいるわけではない。
私を映している像に過ぎない。
虚像と言えばそうなのかもしれないけれど、
私を映しているという事実はある。
真の私ではないかもしれないけれど、
私という要素のうちのひとつを映し出しているのだと思う。
全てが偽りというわけではない。
鏡に映るものが全部真実というわけでもない。
ただ、鏡は私の要素のうちのひとつの側面を映す。
その像もまた私ではある。
私は必要以上に持ち上げられている。
祭り上げられているという状態に近いかもしれない。
私は何かの象徴や偶像やシンボルになっていて、
そのシンボルの私が、いろいろなことを言われていたりする。
私は、シンボルや象徴や偶像の私から、
かけ離れていると思う。
私はそんなことをしていないし、言っていないということもあるし、
そんなにすごいことをしていないのに、しているとされている。
私はそんなにすごくない。
すごい私は虚像の私であると思う。
私の姿をしているけれど、
ここにいる私とはなんだか違うものだ。
けれど、私はすごい私のもとになった考え方は持っている。
最初はその考え方を話しただけだった。
困りごとの相談を受けただけだった。
最初は本当にそれだけだった。
それが、あれよあれよという間に祭り上げられてしまった。
私は奇跡なんて起こしていない。
予言なんてしていない。
そこは私のしたことではない。
でも、みんなが困りごとなく幸せであればいいなとは思う。
私はそのくらいのことしか考えていない。
虚像の私はもっと大きなことを言っているらしい。
世界を平和にするとか何とか。
あまりに大きなことで私からはかけ離れているけれど、
世界が本当に平和になるのならば、
虚像の私という存在も悪くないのかなと思う。
今ここにいる私は、
あまり力のないただの私だ。
ただの私は、みんなが幸せであればいいなと思う。
何の力もないただの私の願いだ。
祭り上げられた虚像の私は、
世界を平和にしてみんなが幸せになるようにするらしい。
私からはかけ離れているけれど、
虚像の私と、この私は、根っこが一緒であると思う。
みんなの幸せを願っている。
その点だけは一緒だ。
だから、虚像の私も、私の一部であるし、
私を映し出しているものである。
あまりに大きく映し出されているので、
私でないと思える時もあるけれど、
虚像の私も私の一部。
全てが偽りというわけでなく、
私の一部を大きく映し出しているものだ。
何の力もないただの私だけど、
虚像の姿も私の姿だ。
虚像に必要以上に取り込まれることなく、
私は私と地に足をつけつつ、
私は虚像の私と力を合わせて、
みんなを幸せにできないかと考える。
奇跡なんて起こせない。
予言なんてできない。
でも、悩みを聞くことはできる。
困りごとを何とかしようと一緒に考えることはできる。
そばにいることもできる。
抱きしめることもできる。
虚像の私がそれをすることによって、
神秘体験が起きるとすればそれは思い込みだけど、
私はみんなへの愛をもって、
心を楽にしてあげたいと思う。
ただの私ができるのはそんなことだ。
虚像の私が大きなものにしてしまうけれど、
私ができることなんて、その程度なんだ。
虚像の私は祭り上げられている。
大した力のない私はその虚像を大きなものに感じつつ、
その根っこの愛を伝えようとする。
虚像の私も私。この私も私。
みんなを幸せにできるのであれば、
私は使えるものをすべて使おう。
鏡に映る私は私の一部。
大きく見える虚像も私の一部。
上手く共存してみんなを幸せにできればそれでいい。
その願いだけは、真実だ。