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第157話 短調の調べは悲しいばかりでない

悲しげな音楽は短調からなっていると聞くけれど、

短調と呼ばれるものって悲しいばかりじゃないなと思う。


勉強の合間に音楽をかける。

まぁ、何かの勉強をしていると思ってもらっていい。

学生と思ってもらってもいいし、

社会人になって資格の勉強をしていると思ってもらってもいい。

とにかく勉強を続けていて、

一息つく時に音楽をかける。

音楽もいろいろ試してみたけれど、

下手に元気なものは、なんだか疲れてしまう。

最近流行りのものも試してみたけれど、

曲によっては転調が多くて疲れる。

転調というのが正しいのか、音楽に詳しくはないけれど、

曲の場面場面がころころ変わるような感じで、

勉強で疲れた頭はさらに疲れる。

かといって童謡まで単純なものかと言うと、

それもなかなか気分転換にはならない。

いろいろ試した結果、

少し古い程度の短調の調べが心地いいことに気が付いた。


短調の物憂げな調べは、

生きることの深さを表しているように思われる。

自分が生きてきたことなんて、たかが知れているけれど、

それでもそれなりの苦労はあった。

勉強もそれなりに大変だ。

短調の調べは、その大変さに寄り添ってくれるようである。

短調の調べは、楽しいばかりでないものを歌っている。

大変なのはあなただけでない。

苦しんでいるのはあなただけではない。

一人ではないと歌ってくれているようである。

元気づける長調の調べではない。

短調の調べは弱っている時や疲れているときによく効く。

失恋の歌もある。

別れの歌もある。

しみじみとした短調の調べもあれば、

歌い上げる短調の歌もある。

生きることは大変なことの連続だ。

その大変さょよく表現し、歌っているのが短調の歌だ。

短調の歌を聞くと、

大変さをわかってもらえているような気分になる。

そう、寄り添ってほしいのだなと思う。


コードのことはさっぱりわからない。

私が思っていることも的外れかもしれない。

音楽をやっている人からすれば、

素人が見当違いなことを言っていると思われるのがオチなんだろう。

ただ、音楽の聞き手なんてほとんどが素人だ。

素人がこんな風に思った、それでもいいと思う。

古い物憂げな短調の曲に、

私は人生の深さと、そこから来る優しさを感じる。

たくさんの涙を越えてきた果てに得たであろう、

どこまでも深い優しさを思う。

明るい日の当たる場所で笑顔でばかり生きていたのでは得られない、

暗いところで泣いていた経験を経て得られる優しさだ。

人知れず慟哭していたかもしれない。

心で泣いていたかもしれない。

そんな悲しみを経てきたような、

古い短調の曲には深みがあり、優しさがある。

重いと言われるかもしれないけれど、

多分私は心を抱きしめて欲しいのだと思う。

古い短調の曲は重い。

重い愛情を歌いあげていたりする。

そのくらい重い愛情で、

疲れた私を抱きしめて欲しいと思う。

私の大変さに寄り添って、一緒に泣いてほしいのだと思う。

重い重い愛が欲しいのだと思う。


古い短調の曲を何曲か流す。

どれもズシリと重い。

曲の世界観も重いし、

流行りの曲と比べると、曲調も重い。

短調なだけでなく、重い。

短調のポップもないわけではないけれど、

ポップの裏に悲しみと重さと深みがあって、

涙の果てにポップになったものかと思う。

それもまたいい。

短調は単純な悲しみでない。

悲しみの果てに得られた境地なのだろうなと思う。

私はその境地に至った曲たちに救われている。


私は曲をとめて、勉強に向かう。

勉強は今の私に必要なこと。

越えなければいけない大変なことだ。

越えた先に笑顔があるか、涙があるかはわからない。

ただ、涙であったとしても、

涙を越えた先には優しさに至れる道がある。

古い短調の曲が示してくれた道だ。

私は今を全力で生きる。

どんな道であっても、そこに音楽は流れている。

私は古い短調の曲が好きだ。

これからもそんな曲をかけながら、

私は強く生きていきたいと思う。


人生の深さと優しさは、いつもそばにある。

音楽を再生させれば、すぐそこに。

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