どうにも顔が覚えられない。
みんな顔が記号に見える。
誰かから、顔が覚えられないという症状らしいものがあると聞いた。
顔が覚えられないので誰だったかはわからない。
声を聞いたり、服装を見ればわかるかもしれないけれど、
顔はどうにも覚えられないので、
誰だったかが思い出せない。
すれ違ってもわからないんだろうなと思う。
とにかく私は人の顔が覚えられない。
みんな記号に見える。
なんと言ったら、わかってもらえるだろうか。
例えば、顔に個性が見出せないような、
全て同じに見えるような感覚と、
それぞれの顔にあるという個性的な特徴というものを、
総合して顔として認識できないのとを、
合わせたようなものかもしれない。
例えば、ほくろがあるらしいが、
そのほくろを特徴として覚えられないのと、
まずは顔自体が全て同じように見えているようなもの。
顔自体が記号のようなものなので、
記号に特徴としてのほくろがあっても覚えられないような、
そんな感覚といえば伝わるだろうか。
目の数、鼻の位置、口の位置などは、
顔として構成される以上、変わることはないと思う。
顔の構成が基本変わらないものとして捉えているから、
私の中では記号になる。
例えば、記号として金銭としての円のマークがある。
¥というものだ。
これが手書きであっても、画面に表示されたフォントであっても、
同じ記号として認識される。
私にとっての顔は、とにかく顔という記号であり、
先に述べたほくろのような個性というものは、
手書きかフォントかの違いのようなもので、
全部が同じ記号として認識される。
私にとって顔は記号で、全部同じものとして認識されていて区別がつかないのだ。
顔が記号なものだから、
表情を読むことがとても苦手だ。
気配を読むことである程度の空気感は読めるけれど、
完全に感情を読むことはできない。
どうにもズレた応対になることもしばしばある。
声や音から何を感じているのかを察することはできるけれど、
黙られているとなかなか難しい。
泣いているのは音でわかるけれど、
不機嫌というものを察するのは難しい。
微笑んでいるというのもなかなか察するのが難しい。
言ってくれないとわからないということが、
往々にしてある。
こうして、顔が記号化された私の見ている世界は、
顔の判別できる人とは違うのだろうなと思う。
時々、若い人の顔が判別できないという声を聞くこともある。
また、別の国の人物の顔の判別ができないという声も聞く。
自分に関わりの薄い年代の顔の判別ができないという声も聞いた。
赤ちゃんの判別ができないという声もあった。
私はかなり顔が記号化されているけれど、
私までとはいかなくても、
他の人の顔が記号になってしまっている人は、
それなりにいるのかもしれない。
記号の違いを敏感に感じられるような人は、
顔の判別が得意であるのかもしれないと思う。
私は多分その違いを頭の中で構築できないので、
いつまでたっても顔が記号のままなのだろうと思う。
人混みはみんな記号化された顔を持って歩いている。
私にとっては全部同じ顔だ。
その顔の持ち主それぞれにいろいろな人生があった。
多分いろいろな表情を持った。
私はその表情を感じることができずに、
全ての人を同じように見る。
ある意味何のしがらみもなく平等な視点なのかもしれない。
体格や服や声などは違うかもしれないけれど、
同じ顔を持っているという点において、
全ての存在が同じものであると見ているのかもしれない。
顔が記号になっているのはすべて人間。
人間であるということについては、みんな等しい。
人生を毎日懸命に生きているという点において、
記号化された顔を持っている全てが平等なのかもしれない。
どこに行っても記号化された顔がある。
顔の持ち主はみんな毎日を生きている。
判別はできないけれど、
わかる人が見れば、みんないい顔であるのだろう。
どうにも顔の見分けがつかないけれど、
記号化された顔は、悪いことを表している訳じゃない。
今日も記号化された顔が街を行く。
見分けはつかないけれど、
みんな頑張れと私はエールを送る。