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第152話 忘れることも悪くない

まぁ、忘れることも悪くないんじゃないかな。


らしいらしいで申し訳ないけれど、

どうも私は記憶があまり持たないらしい。

何か事故か何かあったとか何とか。

それすらも忘れたので、どうしてだかはわからない。

ただ、なんだか記憶が持たない。

過去になんだかすごいつらいことがあったらしい。

私のことを知るらしい人からは、

私がどれほどつらい目に遭ってきたかを聞いた。

聞いたけれど忘れた。

なんだか私はつらかったらしい。

よくわからないし覚えていないけれどそうらしい。


なんだか私は、とてもつらい人生を生きてきたらしい。

その上、記憶を失うことになって、

私はまるで悲劇の主人公らしい。

このあたり、実感がまるでない。

聞かされている、つらい経験や人生というのは、

私の中で全部忘れられている。

また、私のことを知るらしい人たちが聞かせてくれるけれど、

その記憶もあまり持たずに忘れていくし、

私のことを知るらしい人たちの顔も名前も忘れていく。

なんとなく見たような気がしないでもないけれど、

目の数も鼻の数も一緒だという程度しかわからない。

細かい特徴も覚えられないし、

どんな表情をしているかも思い出せない。

私はかわいそうらしい。

そのあたりの実感も薄い。


私はいろんな記憶がない。

聞かされているように、とてもつらいものであったのならば、

思い出せなければそれでいいのかもしれない。

私は穏やかに過ごしている。

昨日のことというものは大体忘れている。

過去のことならばなおさら思い出せない。

朝目が覚めたら新鮮な一日が始まる。

毎日が新しいもので満ちていると思う。

下手すれば数時間で忘れるし、

小さな事ならばもっと早くに忘れる。

だから、私は常に新しいものに囲まれて、

新しい驚きや新しい経験をしている。

私のことを知るという人も、

どうにも思い出せないから、

いつだって初めましてだ。

過去に何をしてきた人かわからないから、

今から新しい関係を結べればいいし、

多分忘れるから今だけの関係かもしれないし、

だったらなおさら、笑顔で始める関係がいい。

いろいろあったかもしれないけれど、

初めましては笑顔がいいと思うね。


さっきは、初めましてと言った人に、

泣きながら謝られた。

何があったか全然思い出せないけれど、

その人は私に何かしてしまったらしい。

全然思い出せないけれど何かしたらしい。

思い出せないから怒ることもできない。

私にされた事実次第では怒ったりするのが筋なのかもしれないけれど、

まったく思い出せない。

だから、私は許すことにした。

許した事実もそのうち忘れるのかもしれないけれど、

初めましての人とはいい関係で始めたい。

私が覚えていないことで泣くのならば、

忘れた私はそれを許すことで始めよう。

しばらくしたらまた初めましてだけど、

何度も許せるだけ許そう。

どうせ思い出すことはない。


記憶が持たない私を、

いろいろな人がかわいそうだと言った。

いや、これはこれで悪くないと思う。

よくわからないけれど、

心が苦しくなるようなことを忘れているのはいいことだと思う。

まぁ、思い出せないのでどれほどのことかもわからない。

また、何でも許せるようになったようだ。

許せないことをそもそも覚えていないから、

結局許すのが一番いい。

私にかかわったすべてを許せるようになったようだ。

私に許されることで楽になるならばそれがいい。


私はいろいろなことを忘れていて、

また、記憶もあまり持たないので、

庭から外には出してもらえない。

それでも庭に出ると、季節の移り変わりを感じる。

今日はあたたかいということは、

多分これから季節が進んでいって、

もっと花が咲くんだろう。

そのあたりの基本は覚えているけれど、

花の名前なんかはさっぱり思い出せない。

あたたかい風が吹く。

私の心にもあたたかさが満ちる。

要らない記憶を忘れたら、

みずみずしい季節の感覚で満たされるようになった。

私の記憶はきっと戻らない。

戻らないまま、私は多分老いて死ぬ。

それまでの間、

毎日の季節の感覚で身体を満たして、

その心地よさのまま眠って、

また、次の日はすべて忘れて、また心地いい感覚で満たす。

そんな毎日が繰り返されるのだろうと思う。


昨日のことは忘れた。

過去のことはもっと忘れた。

忘れることも悪くない。

私は今この時、季節とともに生きている。

この瞬間、私は満たされて生きている。

それだけで十分だよ。

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