海に行かなくなったのは、いつからだろう。
海が近い町だというのに、いつの間にか足が離れて久しい。
昔はよく海に行った。
夏の海水浴は言うまでもなく、
海水浴の季節でなくても、
自転車に乗ってよく海まで行った。
砂浜でぼんやり海を眺めていたことを思い出す。
ぼんやり海を眺めていたのは、
たいてい心が晴れないとき。
私の方が正しいけれど折れなければならないときとか、
事実と違うことを言われたとか、
そこまで深刻でなくても、友達とケンカしたとか、
親となんだかそりが合わないとか、
小さなモヤモヤ大きなモヤモヤ。
抱えたときには海にやってきた。
シーズンオフの海は、ただただ波が寄せて返している。
海水浴客なんて全然いない。
海と私だけのような気がして、
私は寄せて返す波に、モヤモヤを投げかける気持ちになる。
波がモヤモヤを飲み込んで引いていく。
海からさらに問いかけるように波がやってくる。
私は問いかけに応えるように、心のモヤモヤを投げかける。
くりかえすうちに、私のモヤモヤが整って、
私は気が晴れて海をあとにする。
海は何でも飲み込んでくれた。
昔の私の悩み相談はいつでも海だった。
どんな時も海がそばにいてくれたし、
海は私を裏切らなかった。
いつからだろう。
海に行かなくなったのは。
私は思い出そうとする。
あれほどそばにいてくれた海に、
近づかなくなったのは、いつからだろうか。
思い出そうとすると頭が拒否する。
思い出してはいけないと深いところがわめいている。
思い出さなくてはならない。
そんな気がするのに思い出せない。
思い出せないことに気が付いたら、
私の心にもやがかかった。
モヤモヤを晴らすのはいつだって海だった。
海に行けばもやは晴れる。
けれど私の中の深いところが海を拒絶している。
思い出せないけれど海に行ってはいけないとわめいている。
私の中がこんなにわめいているのはなぜだろうか。
私は、深いところの声を無視して、
海を目指した。
海についたのは夜だった。
満月が海を照らしていて明るい。
海はこんなにも明るかっただろうか。
波はこんなに美しかっただろうか。
私は海に魅入られた。
海が私を手招きしている。
ああ、思い出してきた。
私の身体にうろこがあらわれる。
私は海から生まれたんだ。
人になりたくて陸に上がったんだ。
この町で人の子として暮らして、
人として生きて死のうと思っていたんだ。
海のものと人の子の時間の流れは違う。
私の周りでどんどん人が死に、
私だけが生き残った。
人の子は老いて、死んでいった。
私はそのスピードを共にすることができなかった。
それでも私は人として生きたかった。
親とともに生きる子どもとして、
学校に通う学生として、
友達と過ごすものとして、
ずっとともに生きたかった。
生きたかったけれどみんな死んでしまった。
海に行ったら、
私が人でないことを思い出してしまう。
母なる海に帰ろうとしてしまう。
だから海に行かなくなった。
人であり続けようとしたため。
でも、もう、私をつなぎとめる人たちはすべて老いて死んでしまった。
私の時間だけ人と違ったままで生きている。
もう、終わりにしよう。
海から生まれたものは、
やはり海に帰るべきなんだろう。
私の身体にうろこがあらわれ、
私の姿が変化していく。
海は私を受け入れる。
時間がどれだけ経とうとも、何も変わらないように。
海は私の母。
海は私の故郷。
私はここに帰るべきだった。
人ではいられなかった。
海はそのことをわかっていた。
私が人になったらつらい思いをすることもわかっていた。
親しい人が死んでいくこともわかっていた。
海はきっともっとたくさんの死を見てきた。
全て受け止めて、海は変わらずある。
母の中に帰ろう。
母なる海は私を受け入れて、
また、いつものように波が寄せて返す。
きれいな月夜に、私はあるべき場所に帰った。
私のことを覚えている人は、もう、誰もいない。
私は静かに人の世から消えた。