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第145話 海に行かなくなったのは

海に行かなくなったのは、いつからだろう。

海が近い町だというのに、いつの間にか足が離れて久しい。


昔はよく海に行った。

夏の海水浴は言うまでもなく、

海水浴の季節でなくても、

自転車に乗ってよく海まで行った。

砂浜でぼんやり海を眺めていたことを思い出す。

ぼんやり海を眺めていたのは、

たいてい心が晴れないとき。

私の方が正しいけれど折れなければならないときとか、

事実と違うことを言われたとか、

そこまで深刻でなくても、友達とケンカしたとか、

親となんだかそりが合わないとか、

小さなモヤモヤ大きなモヤモヤ。

抱えたときには海にやってきた。

シーズンオフの海は、ただただ波が寄せて返している。

海水浴客なんて全然いない。

海と私だけのような気がして、

私は寄せて返す波に、モヤモヤを投げかける気持ちになる。

波がモヤモヤを飲み込んで引いていく。

海からさらに問いかけるように波がやってくる。

私は問いかけに応えるように、心のモヤモヤを投げかける。

くりかえすうちに、私のモヤモヤが整って、

私は気が晴れて海をあとにする。

海は何でも飲み込んでくれた。

昔の私の悩み相談はいつでも海だった。

どんな時も海がそばにいてくれたし、

海は私を裏切らなかった。


いつからだろう。

海に行かなくなったのは。


私は思い出そうとする。

あれほどそばにいてくれた海に、

近づかなくなったのは、いつからだろうか。

思い出そうとすると頭が拒否する。

思い出してはいけないと深いところがわめいている。

思い出さなくてはならない。

そんな気がするのに思い出せない。


思い出せないことに気が付いたら、

私の心にもやがかかった。

モヤモヤを晴らすのはいつだって海だった。

海に行けばもやは晴れる。

けれど私の中の深いところが海を拒絶している。

思い出せないけれど海に行ってはいけないとわめいている。

私の中がこんなにわめいているのはなぜだろうか。

私は、深いところの声を無視して、

海を目指した。


海についたのは夜だった。

満月が海を照らしていて明るい。

海はこんなにも明るかっただろうか。

波はこんなに美しかっただろうか。

私は海に魅入られた。

海が私を手招きしている。

ああ、思い出してきた。


私の身体にうろこがあらわれる。

私は海から生まれたんだ。

人になりたくて陸に上がったんだ。

この町で人の子として暮らして、

人として生きて死のうと思っていたんだ。

海のものと人の子の時間の流れは違う。

私の周りでどんどん人が死に、

私だけが生き残った。

人の子は老いて、死んでいった。

私はそのスピードを共にすることができなかった。

それでも私は人として生きたかった。

親とともに生きる子どもとして、

学校に通う学生として、

友達と過ごすものとして、

ずっとともに生きたかった。

生きたかったけれどみんな死んでしまった。


海に行ったら、

私が人でないことを思い出してしまう。

母なる海に帰ろうとしてしまう。

だから海に行かなくなった。

人であり続けようとしたため。

でも、もう、私をつなぎとめる人たちはすべて老いて死んでしまった。

私の時間だけ人と違ったままで生きている。

もう、終わりにしよう。

海から生まれたものは、

やはり海に帰るべきなんだろう。


私の身体にうろこがあらわれ、

私の姿が変化していく。

海は私を受け入れる。

時間がどれだけ経とうとも、何も変わらないように。

海は私の母。

海は私の故郷。

私はここに帰るべきだった。

人ではいられなかった。

海はそのことをわかっていた。

私が人になったらつらい思いをすることもわかっていた。

親しい人が死んでいくこともわかっていた。

海はきっともっとたくさんの死を見てきた。

全て受け止めて、海は変わらずある。

母の中に帰ろう。


母なる海は私を受け入れて、

また、いつものように波が寄せて返す。

きれいな月夜に、私はあるべき場所に帰った。

私のことを覚えている人は、もう、誰もいない。

私は静かに人の世から消えた。

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