味と記憶は近いところにあると思う。
だから、最後は果てしなく幸せな味とともに死にたいと願う。
私は人生に疲れた人間だ。
まぁ、何に疲れているかは、あなたが勝手に考えて構わない。
いろいろなことが起こりすぎて疲れていて、
楽になるために死を選ぼうと考えているほどの、
それほど人生に疲れた人間だ。
疲れている理由をあなたに話したとしたら、
その程度でと言われるかもしれないし、
または、そんなに大変だったんだと言われるかもしれない。
どちらにしても、あなたの感じるところではある。
私が感じるところでは、
私の人生は大変過ぎて、もう死にたいと思うほどだ。
あなたにはあなたの、私には私の、
人生があって、感じ方がある。
感じ方が違う以上、同じ答えは出てこない。
同じことを感じようと言っても、
それはどだい無理なことだ。
とにかく私は人生に疲れ果てている。
あなたはそれだけわかってくれたらそれでいい。
さて、私は最後の晩餐を考えている。
絵画などで有名なあれではなく、
死ぬにあたっての、最後に何を食べるかを考えている。
幸い、私は味覚はちゃんとしているし、
内臓もまだ生きている。
食べることに関しては問題がない。
ただただ人生に疲れているだけだ。
まぁ、人生に疲れ果てているので、
軽率に終わらせようかとは考えている。
終わらせる手段はあとで考えることにするけれど、
苦しむ手段は嫌だなと思っているところだ。
楽におさらばできたらそれがいいと思っているし、
素人が死に手を出すととても苦しむだろうなとは思っているので、
あまり軽率に死に手を出すのも考え物だ。
とにかく、最後の晩餐を考えている。
これを食べたらもう死んでもいいというものは何だろうかと考えている。
どんな味が最後にふさわしいかをつらつらと考える。
ものすごい肉を考える。
塊のステーキみたいなもの。
じゅうじゅうと焼けていて、中身はレアで、
切って口に運ぶと、肉汁とうまみがあふれるもの。
肉は確かに美味しい。
美味しいことは間違いない。
ただ、あれは生きる味だ。
野生に近い食べ物で、食べたら何事にも負けずに生きる味だ。
死ぬことを考えていての、最後の晩餐には向かない。
食べたら、生きようと復活してしまう。
確かに食べたらとても幸せな気分になるのだけど、
幸せな気分のまま死ぬ味ではない。
実家の味を思い出す。
焼きたての魚の干物。大根の味噌汁。炊き立てごはん。
日によってはエビフライもあった。
ハンバーグもあった。
餃子など大皿にたくさんあった。
実家の母が作ってくれたいろいろな献立を思い出す。
確かに幸せな味だ。
あの頃はこんなに人生に疲れるとは思っていなかった。
実家のどれかの味を再現して食べたら、とても幸せな気分になると思う。
夢のような気分になると思う。
ただそれと同時に、
実家で暮らしてきた家族のことを思い出して、
悲しませてしまうなと思ってしまう。
軽率に死を選べなくなる。
幸せな味だけど、生きなければいけない味だ。
コンビニやファミレスの味では、最後にしたくないなと思う。
死にゆくものにも平等な味だけど、
あまり幸せな味ではない。
疲れ果てているときには、最後くらい果てしなく幸せになりたい。
あんなに平等な味ではなくて、
疲れ果てている私にだけの、
果てしなく幸せな味を感じてから死にたいと思う。
コンビニやファミレスの味は、いつだって平等だ。
誰にでも平等だから、
最後の晩餐には向かない。
いろいろ考えた挙句、
食べることは生きることだなと思った。
食べることで幸せを感じられるうちは、
多分まだ生きていられる。
私はかなり人生に疲れ果てているけれど、
食べることを考えられるうちは、
まだ身体が生きようとしている。
私は何を食べたいだろうか。
何を食べれば幸せを感じられるだろうか。
果てしなく幸せを感じる味はどんなものだっただろうか。
私は今までの人生を振り返る。
今は疲れ果てているけれど、
それほど悪いことばかりではなくて、
記憶の中の味には、
笑顔になるような幸せなものもたくさんあった。
なんだ、思ったより悪くない人生じゃないか。
美味しいものがたくさんあった人生じゃないか。
これからの人生も美味しいものがあると思っていいじゃないか。
もっと人生味わい尽くしてからでも遅くない。
果てしなく幸せな味は、
生きようとするものの味であり、
また、その味は、
立派に生き切ったものだけが味わえる、人生そのものの味なのかもしれない。
半端に死を考えるものではきっと味わえない。
最後の晩餐は、果てしなく幸せな味は、
まだまだ遠くにある。
仕方ない。
食べて、生きるか。