悲しみに寄り添ってくれるもの。
それはコーヒーかと私は思う。
私は町の喫茶店によく行く。
最初はかっこつけのつもりだった。
喫茶店で苦いコーヒーを飲んでいると、
なんだかかっこいい大人になれたような気がした。
今思えば背伸びだったのだけど、
背伸びでしか見えない風景があった。
未熟な私は喫茶店のコーヒーを飲んで、
さながら、思いっきり爪先立ちをするようなフラフラの背伸びをして、
大人の仲間入りをするべくかっこつけていた。
喫茶店のマスターは、いつも無口だった。
私の背伸びしたコーヒーに、
砂糖多めにしますかなどとは聞いてこなかった。
今思えば、私の背伸びを見守っていてくれたのだと思う。
かっこばかり気にしていた未熟者だった。
背伸びしたコーヒーは限りなく苦かった。
苦いけれど、香りはとても甘く優しく、
大人とはこんなものだとなんとなく感じていた。
次第に、背伸びしなくても大人扱いされる年頃になった。
それでも私は喫茶店に通った。
コーヒーは頭の切り替えに使った。
苦みが集中をあげるのにいい感じがした。
また、香りはピリピリした神経を落ち着かせるような気がした。
集中して、興奮を抑えて、
私は仕事の失敗などから頭を切り替える。
その頃には後輩もできていた。
私ができないと言ってはいけない。
大人とは、できないことがあってはいけない。
後輩の前ならばなおさらだ。
山のように構えて、後輩が失敗したならばフォローをする。
未熟な頃に憧れていた大人というものは、
こんなにも裏でいろんなことを考えているものかと思った。
喫茶店でコーヒーを一杯嗜む。
正々堂々頭を下げる算段をする。
大人とは、どれだけ頭を下げられるかだと思う。
大人とは大きなものでなく、
何かを守るために頭を下げて小さくなれるのが大人だ。
無口なマスターの入れたコーヒーは苦いけれど、
その苦さが覚悟をくれる。
私は覚悟を決めて、喫茶店をあとにする。
泣き言の前にすることがある。
あれからまた月日が過ぎた。
私は結婚を考えていた恋人に振られた。
親の具合も最近よくない。
会社での扱いもよくない。
かろうじて給料はあるけれど節約では追いつかなくなってきた。
四方八方ふさがっている。
それでも私は喫茶店にやってきた。
大人というのは万能でなく、
ちょっとしたことで高い壁が立ちふさがることもある。
その高い壁は、前ばかりでなく、
私の周りすべてを囲んで、
私はその場から動けない。
何から手を付ければいいかわからない。
どうすればいいかわからない。
どこまでも無力で、何ひとつ解決できない。
うつむく私の前に、マスターのコーヒーが置かれた。
心地よい香りがする。
いつもそばにいてくれたコーヒーの香りだ。
私はコーヒーを口にする。
心地いい苦みが口の中に広がり、
あたたかいまま喉を落ちていく。
喉を落ちながら、香りは鼻にも抜けていき、
香りは脳を落ち着かせていく。
あたたかい苦みは胃に落ちていき、
緊張していた腹をあたためる。
内側があたたまっていくと、何かができそうな気がした。
それと同時に、今までの無力感からの悲しみが押し寄せてきた。
やっと泣ける。
今までずっと悲しかったんだ。
大人は泣くものじゃないと気を張っていたんだ。
それが解れていくのを確かに感じた。
コーヒーは悲しみに寄り添ってくれた。
コーヒーはいつでもそばにいてくれた。
本当に悲しい時に、
悲しいと感じてもいいのだと。
もつれた感情を解して癒してくれた。
私はコーヒーを飲み干す。
人生の苦みを飲み干すように。
「また、いらしてください」
無口なマスターは私にそう声をかけた。
私は会釈して喫茶店を出た。