「お前もどこかへ行きたいんだな」
そう言っているこいつは誰だろう。
「俺もどこかへ行きたい」
「お前は誰だ?」
「俺は俺さ。どこかへ行きたいと思っている男だ」
「それだけか?」
「俺はお前じゃない、けれど、似たようなことを考えている」
「それだけか」
「それだけさ」
「どこかへ行くと、忘れられる気がするんだ」
「何をだ?」
「なにもかもさ」
男はそう言った。
「現にお前は、俺のことも忘れている」
「…ああ、忘れている」
「どこかへ行ってきたんだ。お前は」
「もう行ってきているのか」
「そう、そして戻ってきてしまったんだ」
「悲しいな」
「悲しいのか」
「ああ、悲しいさ。どこかへ行きたいと願っているのにな」
「行ったら帰ってきてしまうものさ」
「そうなのか?」
「そうなのさ」
男はそう言った。
「全てを忘れてもなお、帰ってきてしまうものさ」
「それでも、どこかに行きたいさ」
「行けばまた、忘れてしまう」
「お前のこともか?」
「そう、俺のこともな」
「それは悲しいな」
「そうか、悲しいのか」
話している男が、
ふっと立ち上がった。
「俺もどこかに行きたいさ」
「ならば行けばいい」
「俺はだめだ」
男は口の端で微笑んだ。
「お前を待つんだ。帰ってこられるように」
「…」
「お前のことを覚えているんだ。それが俺の役目だ」
「…」
「俺はここにいる。お前がどこに行っても、ここにいる」
「お前は、なんなんだ?」
男は微笑んだ。
「忘れちまったんだろ?」
それは透明な微笑だった。