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21、後宮のお仕事、最高!

 ――翌朝。

 東方の空が薄墨色から藍色へ、そして淡い茜色へと移り変わる頃、広大な後宮は眠りから徐々に覚めていった。


「おはようございます、華凛かりん妃様」

「おはようございます」


 冷ややかな朝の空気の中、華凛かりんは壁に飾った西王母の水墨画に祈りを捧げた。


 本日は皇帝が招いた賓客が登城し、拝龍殿はいりゅうでんという謁見の間で挨拶をする日だ。

 賓客は、皇帝が戦場で共に邪悪な魔教と戦った同志である正派・ 華山派の道士たちだ。

 滄月そうげつは恩人である道士を迎えるにあたり、妃華凛かりんの同席を求めた。


(西王母様のおかげで、今朝も我が子ともども健やかに生きております。ありがとう存じます。本日は大切な公務です。どうぞ見守ってくださいませ)


 一心に念じていると、軽やかな足音を立てて、陽奏ようそうが駆けてくる。後ろに付いて来る教育係の瑞軒ずいけんが片手をわきわきさせているが、なんだろう。

 ――もしや首根っこを掴んで引き留めたい?


「おかあさま!」

「お……おはよう……、陽奏ようそう


 桃のように頬を色づかせ、目を輝かせて近寄ってくる陽奏ようそうは、手に持った桂花を差し出してくる。両手で示すので屈んでみせると、陽奏ようそうは髪飾りに花を足して肩をそびえさせた。


「おかあさま、いちばん、おきれい!」 

「まあ。ありがとう」


 侍女たちがいつも「おきれい」と言うので、真似したのだろうか。


 華凛かりんはニコニコとして陽奏ようそうを抱きしめた。

 子どもの体温が暖かく、呼吸する気配が心地いい。

 陽奏ようそうは母の抱擁にきゃっきゃっと嬉しそうな声をたててから、どことなく勇ましい声に切り替えて、何かを語り始めた。


「ぼくねえー!」

「ええ、ええ。なにかしら、陽奏ようそう?」

「おれおれ、たおした!」

「ええっ……、お、おれおれ様を?」


 今なんて?

 どきりとして耳を疑う華凛かりんに、陽奏ようそうは無邪気な笑顔を見せた。 


「ゆめでねー!」

「ああ……、夢で……ですのね?」


 華凛かりんは息子が何を言っているのかを理解できて安心した。

 子どもの言うことは正体がなかなか掴みにくい水面に映る月影に似ている。わかりにくいが、一生懸命に伝えようと話してくれる。

 なので、華凛かりんは「なんとしても理解しよう」と意気込んだ。


「おれおれ、おかあさま……」


 陽奏ようそうは両手の人差し指をたてて、ちょこちょこと動かしている。何を表現しているのだろう?


「まあ。おれおれ様がおかあさまと……踊っていました? ……ですの……?」

「ちがううう!」

「えっ……」


 息子は両手をばたばたとさせて怒った。後ろで瑞軒が両手をわきわきさせている。

 ああ、臣下を困らせている――。


「ち、違いましたのね。うふふ。でも、陽奏ようそうの夢の中におれおれ様……とお母様が出てきたのは、わかりましたわ。うふふ……家族が揃いましたのね。なにをしていたのかしら……あっ」


 あっ、と思い至ったのは、「たおした」という言葉だ。つまり、三人集まったあとで陽奏ようそうがおれおれ様を倒しちゃったという話なのでは?

 最近の皇帝の様子を思えば、意外と喜んで笑ってくれそうな気もするが、本人には聞かせられない夢だ。どうもこの息子は とにかく 父親を敵視している。


 幸い、父親である皇帝側はそんな息子に不機嫌になることがなく、面白がってすらいる気配だが、何分、相手が皇帝である。皇帝でなくとも、この夏国では父親であり家長である男性は敬うべき存在で、妻や子は「あなたさま」「お父様」と夫や父に礼儀正しく敬愛の念をもって接するのが良識なのである。


 国家の顔であり、臣下たちの模範であるべき皇帝家族が、皇帝を「おれおれさま」と呼んで「たおした!」とはしゃいでいてはいけないのではないかしら。

 でもでも、まだ三歳ですもの。可愛らしいですわね、と微笑ましく見守ってもいいのではないかしら。

 いいえ、もう少し敬意を持たせるべきではないかしら――心の中で二つの意見が対立する。


「よ、陽奏ようそう。あ……あなたのお父様は、と……とても高貴な方で……わたくしたちが、安心して……ね、ね、……眠ることができたり……、空腹を、満たすことができたり、しますのは……おれおれ……お父様の、おかげ……なの、ですよ」


 華凛かりんはやんわりと言ってみた。

 しかし、他のことは素直にお返事をして 聞き分けてくれる息子は、なぜか父親の話だけは耳に入らない様子。


「きーこ、え! なぁい」

「まあ」

「ぼくー! きいか、なあい!」


 すごく、わかりやすく「そのお話、いや!」と言われている。  

  わざとらしく「 聞こえない、ぼく、そういうの、聞きたくないなどと喚き、部屋中を走り回る息子に、華凛かりんは手を焼いた。


 可愛いし、健やかで喜ばしいのだけど、子供のしつけって難しい――。


「お母様、わかりましたわ。わかりました。夢で、おれおれさまを、倒してしまいましたのね……」

「そーう! たおしたのー!」 


 ああ、なんて誇らしげに笑うの。

「わかったか」というように胸を張って、一瞬で機嫌を直して。

 もう嫌なお話はしなくてもいいのではないかしら。こんなに可愛いのですもの。そう、倒せて嬉しかったのね、よかったですわね――華凛かりんが息子にほだされていると、瑞軒ずいけんが咳ばらいをした。


「こほんっ、そろそろ、お時間でございますので」


 息子と過ごす時間は楽しいが、時間は無限にあるわけではない。公務の時間に遅れてはいけない。


「やああぁぁっ、だああぁ~~!」

「殿下、参りましょう。殿下、さあさあ」


 駄々をこねる陽奏ようそうを宥める瑞軒を手伝うべく、侍女たちがお菓子や人形を手にあやしにかかる。


「殿下、お菓子でございます」

「殿下、おれおれさまでございますよ」


 ――今なんて?


 金襴の衣装を纏っている人形は、なんと『おれおれさま』らしい。公に知られれば、下手すれば「皇帝陛下を悪役にしてお人形遊びなど!」と厳罰に処されかねない案件である。しかし、何事にも例外案件はある。


 ちらりと「よろしいでしょうか……?」という気配でお伺いの視線を向ける侍女たちに、華凛かりんはこくりと頷いた。


「……許します」


 侍女たちが安堵の表情で視線を交わし合うのを見て、華凛かりんは『彼女らの主人である自分』を意識した。


「ふふっ……、これはあくまで『おれおれさま』という、わたくしたちの空想上の人物……実在しない、誰かさん……ですわ」


 華凛かりんが保証すると、侍女たちは華やかな笑い声を上げた。


「ええ、ええ!」

「三歳児に倒される皇帝陛下なんて、実在いたしませんとも!」

「やだ、声が大きいわ。うふふふ!」


 侍女たちは陽奏ようそうの世話ができるのが嬉しくて堪らないといった顔で、大喜びで気を引こうとしていた。


「頼もしいですわ、皆様、ありがとうございます」

「はいっ! お任せくださいませ、華凛かりん妃様!」


 頼もしい臣下のおかげで、憂いなく公務に挑める。華凛かりんは心から臣下に感謝した。

 支えてくれる人たちがたくさんいる。思えば、自分は恵まれている――そう思った。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


「ああっ、尊きお方のお世話ができる喜び、栄誉……このお仕事は、最高です! はぁっ、はぁっ……」


 いとけない小さな皇子に、侍女、雲英うんえいは恍惚となっていた。


 幼い皇子は、敬愛する妃と貴い皇帝の御子である。

 この夏国で現在、唯一の皇子。将来は国主となる特別な存在――そのお世話ができるのは、子孫まで語り継げる名誉である。しかも、三歳の皇子はとても……可愛い!


「おかあさまとおぉぉ、いりゅのおおお!」

「はああい、殿下ぁ~♪ おれおれさまでございますよ~!」

「なんでええ、じゃま、すゆのおお!」

「殿下~っ、私と遊んでくださいまし! おれおれさまでございますよ、がおお~!」


 ご機嫌斜めの幼い皇子の目の前でお人形のおれおれさまを揺らすと、小さな手がぽすぽすとおれおれさまを叩いてくれた。


「つ、釣れました。殿下が私のお人形に構ってくれました!」


 なんて可愛い――今日は「殿下が私と遊んでくださった記念日」にしよう。


 雲英うんえいは涙を流して感動した。すると、幼い陽奏ようそう皇子はびっくりした様子で大きな目を見開き、怒りを収めて心配そうにしてくれた。


「どうちた。なくでない。くりゅしゅう、ないぞ」


 ちょっと前まで両手両足を暴れさせて泣き喚いていた三歳児が、きりりとした顔付きになっている。

 この皇子は、幼いのに自分が侍女たちの主君だという自覚が芽生えているらしい。


 ああっ、御年三歳にして臣下を気遣うお心をお持ちだなんて――ちょっとぎこちなく、父親の尊大な口調を真似している様子の言い方が、たいそう愛らしい。


「うふ。うふふふふ」


「う、うんえい……っ? だ、だいじょうぶ?」


 思わずあやしい笑いを零すと、陽奏ようそう皇子は不気味に思ったのだろう、ちょっと引き気味にしつつ、大人しくなってくれた。

 侍女仲間と、教育係の瑞軒はそれを見て「よくやった雲英うんえい」と褒めてくれる。暖かく、過ごしやすい職場だ。


 ……それに、殿下が私の名を覚えてくださったわ!

 後宮のお仕事、最高!


「さあさあ殿下。もう、私は大丈夫でございます。ご心配をおかけして申し訳ございませんっ。あちらで、私たちと遊んでくださいませね」 

「う、うん。ぼく、……あちょぶ!」


 叫ぶ陽奏皇子の威勢の良さに、皆の頬も自然と緩む。

 雲英うんえいが慕う妃、華凛かりんが「ありがとう、任せましたわ」と頼もしそうに微笑むのが、光栄で、誇らしくてたまらない。

 自分は主人の役に立てている。それが嬉しくて嬉しくて、雲英うんえいの心を高揚させた。


 人形を皇帝に見立てて遊ぶことも、「倒してくださいませ」というのも――当たり前だが――恐れ多い。いけない、という背徳感が強い。

 しかし、今なら「恐れ多い」という気持ちが消し飛んで、謎の「いいのよ!」という勢いみたいなものが背中を押してくれる。

 いけないことをする、という奇妙な興奮が湧いて、さらに心を弾ませる――はぁはぁ。


「殿下、さあさあっ、このお人形、おれおれさまでございますよ! 夢の中でどんな風に倒されたのです? 雲英うんえいは殿下のご活躍を拝見しとうございます。倒してくださいませ?」


 雲英うんえいが優しく問いかけると、陽奏殿下は得意げに胸を張った。


「うんっ。おれおれさま、たおしゅ!」

「まあ、勇ましい!」


 雲英は愛らしい殿下の言葉に笑みを浮かべると、手元の人形を軽快に踊らせた。威厳ある皇帝を模した金襴の衣装を纏っているが、ただの遊び道具だ。怖くない。


「ほら、殿下。おれおれさまでございますよ。がおお~!」


 雲英が人形を揺らして陽奏皇子の前で踊らせると、侍女仲間が盛り上げてくれる。


「いやん、怖いですわ殿下!」

「きゃあ、きゃあ」

「おれおれさまが暴れてますわー!」


 陽奏皇子は大喜びだ。

「ぼくは英雄だぞ」という顔になって、えいえいと悪者のおれおれさまを成敗してくれる。


「やー! めっ! せいばいなの!」


「殿下、お強い!」

「きゃー、さすがですわー!」


 和気あいあいと盛り上がる侍女たちの後方で、瑞軒ずいけんがそっと胃を押さえていた。


「品位が……」


 教育係は、品位を気にしているらしかった。



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