幼子の声が響くまでの間――皇帝、
単純に「神聖な儀式だから」というだけの理由ではない。
文官、武官、名士たち――宴の場に揃いし全員が、「皇帝が剣舞の時間に奸臣を制裁する」という噂を耳にしていたからである。
彼らの皇帝は、天命を受け、天下を治める『天子』の座にふさわしき傑物だ。
天上の神々が精魂籠めて造形したような端正な顔立ちは、冷酷で無慈悲な印象を奸臣に伝えた。
先入観は大いにある――『皇帝の眼差しは罪を見逃さず、正義の心は苛烈で、名家である孫家の
それも、瑶華姫の父であり、皇帝の
罪状は納得のいくものであり、姫の非は明らかで、庇う者はいない。
だが、「それにしても恐ろしい」とは、共通の見解であった。
特に、皇帝不在の間に利権を貪り、私腹を肥やした奸臣たちにとっては「明日は我が身」だ。
あの曇りなき皇帝の剣の切っ先が、いつ我が身に向くだろう――彼らは恐怖におののき、立派な礼服の内側で冷や汗をかいていた。
どうして道を誤ってしまったのか。欲に身を任せ、人生を棒に振ってしまうとは――と、心のうちで大反省会を展開していた。
走馬灯のように、自分が悪臣堕ちした経緯を振り返っていた。
思えば、人の道は細く険しく、ふとしたはずみで道を外れたくなるものである。
外道の世界は誘惑に満ちていて、「こちらに堕ちれば甘い汁をすすり放題だぞ」と訴えかけてくるのだ。
世相が芳しくなく、『清く正しく誠実に』という人物が報われず、艱難辛苦を味わう人生になりがちなときほど、外道の世界は輝いて見える。
清く正しく不幸になるぐらいなら、一度きりの人生、外道として幸せに生きようではないか――そんな考えに陥るのだ。
そもそも、天仙のごとき善良な官吏たちだけの『疚しいことの全くない国政現場』というのは理想であるが、そうはいかないのが現実世界。
『人の性は善なり、いや、悪なり』と論が分かれるように、人間の性質は混沌としており、政治の現場ではどうしても不正や汚職が
まして、絶対の権力を握る皇帝が新たに即位したばかりの二十二歳の若造で、しかも戴冠早々に遠征に出かけて長期間不在だったのだ。
夏国は敵対勢力に国の存続を脅かされていて、もしかすると危ういかもしれない。
世継ぎは産まれたばかり。
妃は引き篭もりがちで社交的ではなく、「国母として頼りない」と噂する声がある。
名家の実家との関係もよろしくないらしい――「絶好の機会ではないか」――環境は甘美なる誘惑に満ちていて、彼らは道を外れてしまった。
皇帝が悠々と踏み込み、空気を切り裂く鋭い音を立てて、剣を振る。
清冽な冷水の流れを思わせる剣舞は美しく、神聖な気配を纏っていた。
冴え渡る剣の軌跡は、見ているだけで自分の心の邪悪さを自覚させられ、罪の意識を掻き立てられる。
一振り一振りが「さあ、そなたの罪を裁くぞ」という断罪予告に思われて――喉が詰まり、胸が締め付けられ、過呼吸になる。
もうだめだ。呼びつけられて斬られずとも、もうなんだか死んでしまいそうな心地だ――奸臣が勝手に自滅しかけていたとき、幼い皇子の泣き声が響いたのである。
「うああああん」
皇帝は間違いなくその瞬間、剣舞への集中をほどいて表情を優しく緩めた。
『冷たく無慈悲で、容赦なく剣を振り下ろす断罪執行人』から、『我が子に戸惑い、持て余しつつ、愛情を抱いている年若き父親』の顔になったように思われた。
「殿下が泣いておられるぞ」
「本当だ」
張りつめていた空気が、ふわりと弛緩した。
剣舞はそのまま、ゆるりと終わり、皇帝は妃と皇子のいる珠簾へと姿を消した。
「ああ、
奸臣の仲間が囁いた。
何を言うのか、と訝しんでいると、彼は「若き君主の過激な正義の剣があらぶりかけたのを天が察して、落ち着きたまえと諭してくださったのだ」と手を合わせている。
その人柄は知られておらず、これまでは「取るに足らない、気弱で扱いやすい娘」とか「実家の父君にも見放されかけており、妹姫が代わりに妃になるかもしれぬ」とか言われていた。
しかし、最近になって急に「能ある鷹が爪を隠していたのだ」だの「制約があり正体を隠している天女」だの「伏龍」だのとまことしやかに噂されるようになり、なにやらたいそう素晴らしい御方らしい。
「さ、さようであるか? 我々は、天に許されたというのか? 天は、主上に『過ちを犯した臣下を許せ』とおっしゃり、温情をくださったと……」
奸臣軍団は天上の神々と
ただ、命までは奪われなかったので、処罰された罪人たちは「温情に感謝します」と頭を下げ、それよりは更生した――と、夏国の歴史書には綴られている。