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7、うるさい、この世のすべて

 父親であるそん静風せいふうは危機感を抱いていたが、娘の瑶華ようかは「これは好機」と声をあげた。


「お父様……いいえ、爸爸ぱぱ! 私が主上をおもてなしいたします」


「瑶華!」


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 瑶華は、姉である華凛が嫌いだ。大嫌いだ。


 孫家は上流の家柄だが、なかなか子宝に恵まれなかった。

 父と母に子供がいない頃、戦地で死にかけた父は、赤子を連れて帰還した。


 「浮気はしていない。この子は孤児だ。しかし、赤子を拾った詳しい経緯については、実はあまり記憶がない」と言って。


 親族はこの件について「浮気されて出来た赤子だとしても、子を産めない妻が悪い」という見解だった。母が傷ついていると、「夫の生存を喜ばぬか!」「赤子を嫌がるとは心の冷たい女だ」と非難した。母はますます傷付いた。


 とはいえ、母はその後すぐ懐妊し、瑶華を出産した。

 親族を見返すことができたのだが、……恨みが消えるはずもない。


 母は、瑶華に言い聞かせた。


「瑶華。男は愛さず、利用なさい。男と接するときは面従腹背――従順を装い、愛嬌を振りまきながら、自分にとって都合のいいよう転がしておやり。自分以外の女は敵だと思い、不幸になさい」


 父はまともな教育をしてくれる教師を用意していたが、それとは別に、母の歪んだ教育は毎日続いた。


 子供にとって母親の教えは絶対だが、同時に名家の令嬢らしく一般教養も叩きこまれていたおかげで、瑶華には母が自分に一般的ではない歪んだ教えを吹き込んでいるのが理解できた。私情、私怨で子供の価値観を自分色に染めようとするなんて、と憤慨した。反抗期だ。


 でも。

【母もおかしいと思う一方で】

 父の主張通りならば、姉の華凛は名家の血を持っていない。

 瑶華は立派に父と母の子だ。姉妹の扱いは、同じであっていいのだろうか?

 姉妹の待遇に格差がないのは、おかしいのでは?

【自分と言う存在は、もっと価値があるとみんなに言ってもらうべきだと思う。姉が褒められるのは間違っているとも思う】


「私の価値は、お姉様よりも高い。私はお姉様よりも尊重されるべき――ねえ、お姉様も皆様も、そう思いませんか? だって、お姉様は拾われただけ。孫家の血を引いていないのですもの」


 母の歪んだ教えも、その考えを強めていく。なのに、世の中の人々ときたら。


「華凛姫は実にお美しい。将来が楽しみですな」

「華凛姫は聡明で、しかも謙虚でいらっしゃる。世の中の分をわきまえぬ女どもにも見習っていただきたい」

「自分を前に出さず、他の者を引き立てようと一歩二歩下がって、奥ゆかしく健気なことよ」

「女は美しき見た目と優しくあたたかな情で男に奉仕するのがいい。華凛姫はよくわかっているのだなあ」


 この国は古来から男尊社会。

 時代と共に立場がよくなってきているという声もあるが、社会生活への参加を制限されている。

 女性は他家に嫁ぎ、夫の父母を実の父母として敬う。

 そして夫を自分の「天」として奉仕する……という社会規範がある。


 「奉仕係」という低い地位なので、我が強かったり男よりも優秀だったりすると、嫌がられる。

 女らしくせよ、と言われる。女らしさを、幼い頃から教えられる。

 名家の娘は、いい体臭がするようになる丸薬を日常的に服用させられて成長する……。


 母が怒りを募らせ、瑶華に歪んだ教育をする気持ちも理解できてしまう。


 だって、気持ち悪い。こんな美徳。

 だって、うるさい。世間の良識や道徳が。


 男を愛して引き立てて尽くせ?

 幼い頃からそう躾けて、この気持ち悪さをわからないように育てているのが、おぞましい。


 母が「騙されるな」「世の中の価値観に染まるな」と冷水をかけ続けてくれたおかげで、瑶華はわかった。


 でも、他の女は?


 例えば――――姉の価値観は?


 姉と言う人間は、母と自分に隙あれば意地悪や嫌味を言われ、物を奪われたり叩かれたりしていたものだが……それゆえに、普通の女とは「違う」のでは?


 知りたい。

 わかりたい。

 話したい。「そうよね」「わかるわ」と言い合いたい。

 ……だって、姉は妹の味方でしょう? なら、妹の「これがいや」がわかるでしょう?

 妹の「この考えに同調してほしい」が伝わるでしょう?

 その通りに奉仕してくれるでしょう?


「お姉様。女を家財と呼ぶ男たちについて、どう思います? 人間扱いされていないんですよ」

「……っ、あ……」

「お姉様は、わかりませんか? わかりますよね?」

「――――? えっ……、な、なに……」


 姉は赤くなって怯えたように俯き、袖で顔を隠して壁際に後ずさりする。


「今日は叩いたりしませんよ」

「……」

「物を取り上げたりもしませんけど?」

「……」

「お姉様のお考えを聞きたいです。話してくださいよ。別に、お考えを悪いように歪めて広めたり、いいお考えだからと私が思いついたみたいに横取りもしませんよ。気に入らないからと言って否定したりもしません」 

「…………」

「なんですか?」

「……ごめん、なさい。わ、わたくし、何も……か、考え……」

「はあ?」


 返事をせず、苛立ちが湧く。


 姉は臆病だ。弱気だ。縮こまっていて、恥ずかしがっていて、「これをせよ」と言われても俯いて固まってしまう。なによ。いつもいじめているからって、怖い人に怯えるみたいな態度を取らないで。

 鈍いんだから。その態度がいやだって、わかってよ。わからないと、だめなのよ。


「私は友好的に歩み寄ってあげたじゃないですか。あなたよりも価値のあるのですよ。どうして有難く思わないのです? それ、ぜったい、間違ってますよ。私に話しかけてもらえて、嬉しいって思わないとだめですよ」


 私の思い通りに私を敬ってくれないと、だめ。

 私の気持ちが大切なの。あなたの気持ちはどうでもいいの。

 私を喜ばせないといけないの。私の望むあなたでいないといけないの。


 わからないとだめ。わからせないといけない。


「お姉様。すぐに這いつくばって頭を床につけてください。そして、謝ってください」


 ――ああ、従順に、怯え切った様子で、「わたくしは抗うことなんてできません」「わたくしは、弱い女です」という風情で、姉が震えている。

 母に言われて私が演技をするのとは違い、本物のか弱いお姫様だ。


 世の中の人々はこんな姉を見て「女らしい」と呼ぶのだ。

 ……反吐が出るわ。



   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆



 父は、娘への愛情がないのだと思われる。

 野心のため、家のために役に立つか否か――父は、それしか考えていないのだと瑶華は思っていた。


 男とは、そういう生き物だ。だから母は、私は。……お姉様は。


爸爸ぱぱか。その呼び名はいいな。我が子にも呼ばせてみようか」


 孫家に入ってきた皇帝は、夜闇に溶け込むような黒衣装だった。


「ああっ……、主上にお目にかかれて光栄です。孫瑶華でございます。ご挨拶を申し上げます」


 瑶華はか弱い女を演じた。

 涙を浮かべ、ふらふらとよろめき、膝をついた。

 倒れそうな弱々しい風情で、あえかな吐息をつき、楚々として礼の形を取った。


「私についてのよからぬ疑いがありますが、私は陥れられたのです。平凡な人々には見抜けずとも、主上ならばわかってくださる――そう信じて、耐え忍んでおりました……っ」


 泣こう。私は泣ける。

 姉が突然変わったのはまったくもって計算外で、父が心変わりしたのには臍を噛んだ。

 「こんなはずではない」と心の中で地団太を踏んだ。

 その悔しさで、涙を流そう。姉のように、哀れっぽく、痛々しい風情で、同情を誘おう。


 目の前にいるのは、一番の権力を持つ最強の札。

 誰もが従い、物の道理も変えてしまうような男だ。


 天上天下、皇帝と言ってもただの人間。臆するな。

 父や家に自分が利用されるのではない。私が父や家を利用するのだ。

 私は他のすべてを踏み台にして、国で最も高い地位の女になろうぞ。


「主上……」


 ああ、上から見下ろす皇帝の眼差しの、なんて美しいことだろう。

 なんて恐ろしく冷たいことだろう。ぞくぞくする。


 この男が自分を溺愛し、尽くす姿はさぞ快感であろう。

 皆は私にひれ伏すだろう――想像すると、背筋が震える。



 わかったでしょう、と言ってやるのだ。



 わかったでしょう、私はね……


 私は、こんなに醜く育ったの。


 哀れな母と、元凶の父と、嫌な姉と――うるさい、この世のすべてのせいで。

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