「これが俺の子か。初めて見るが、小さいな。弱々しい。簡単に死んでしまいそうだ。ふむ……俺は警戒されている?」
父親である皇帝、
「俺は父親だが、わかるだろうか。息子よ、父のもとに来なさい。俺が父である。俺が」
明るい時間帯に見る青年皇帝の顔立ちは輝くように美しいが、整っている顔が無表情だと冷たく感じられるものだ。親しみやすさには欠けている。
幼い皇子が怯えたように母の袖に縋るのを見て、宦官であり教育係の瑞軒が助言している。
「主上、表情が堅いようです。もっと表情筋を活かしましょう」
「
「私はいつも柔和な表情ですが?」
「どこがだ……?」
滄月は妃と皇子をじろりと眺め、かすかに眉を寄せた。
「
声に滲む感情を敏感に感じ取り、
『四年前の初夜は儀礼的で淡泊だったのに、昨夜の激しさは何に由来したのだろう』 ――答えは、『不機嫌』ではないか。
ろくに会話もなかったが、「報告を受けている」「子を乳母に任せよ」という発言があったことから推測すると、華凛が我が子に対して行動を起こした件に不満があるのではないだろうか?
(きっと……あれは……懲罰)
夏国には、「思い上がった妻を寝所で懲らしめる」という言葉がある。
昨夜、夫は「留守中に思い上がった妻を懲らしめた」のではないだろうか――
そして、翌日の現在、自分は何をしているか? ――「そなたは乳母に任せるように」の言いつけを破り、侍女に「わたくしは、愛されているのです」と夫の威を借りている。
妃が懲らしめても言うことを聞かず、その皇子は父皇帝の気に入る態度を取れていない様子である。
(まさかご自分の子に酷いことはなさらないと思いたいけど、だ、大丈夫かしら)
夫、滄月は、北方への遠征でも前線に積極的に立ち、冴える剣裁きで敵方の死体の山を築いたという。
城の内にあっても、人民の生死を左右する重大な政治案を御璽ひとつで採決したり、罪人を定めて処する公務を日常的に執行する最高権力者ではないか。
華凛がはらはらしていると、隣にいた
「よ、陽奏?」
「おかあさまは、ぼくがまもる。おれおれは、あっちいけー!」
――なんということを!
華凛は真っ青になった。
(いけません、あなたの目の前にいる方は、とっても偉くて怖い御方なのよ)
陽奏は母の前で仁王立ちになっていて、愛らしい目は、威嚇するように皇帝を睨んでいる。
「瑞軒。今あの皇子は俺に立ち去れと言ったのか?」
「はっ。恐らく主上がおれおれと連呼なさっておられたので、主上のお名前をおれと認識あそばれたのかと推察いたします」
「それは賢いのだろうか。それとも阿呆なのだろうか。悩ましいな」
大人たちが真っ青になる中、皇帝は珍獣でも見るように自分の子を見下ろした。
華凛は慌てて我が子を抱きしめ、弁解した。
「ぶ、無礼をお許しください。まだ幼く……おれおれとは、……わ、わたくしが教えました、西王母様へのお祈りの言葉の中にある『
「ほう。この威嚇して舌を出している子が感謝とな」
「えーい!」
「ああっ、陽奏。泥団子を投げてはいけません!」
「やーなの」
夫と我が子が険悪です、西王母様、どうしてこうなってしまったのでしょうか?
悩める華凛が我が子から泥団子を取り上げていると、滄月が小さく顎を引く。
わかってもらえたのだろうか――華凛が様子を窺っていると、滄月は淡々とした所作で妻と子に背を向けた。
「まあ、泣くよりはいいか。壮健でなによりだ」
許してもらえたようだ。よかった、と一同が安堵の吐息を噛み殺す――何がきっかけで気が変わるかわからないので、近くにいる間は油断ができないのだ。
教育係の
陽奏は皇帝が見えなくなるまで警戒心をむき出しにして、あどけない声でぽつりとつぶやく。
「なんだあれ」
「あ、あれは……あなたのお父様ですよ……!」
思わず「あれ」呼ばわりしてしまった華凛であった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――珍妙な生き物を見た。
「なんだあれは」
皇帝、
「あなた様のお子でございます」
「俺の子だけあって、あまり可愛くないな。俺の妃をわが物顔で独占しようとして敵意を向けてきたぞ」
「幼子が母君に懐かれるのは自然なことです。そして、愛想の欠片もないご父君を警戒なさるのも当然といえましょう」
昨夜は無理をさせたと思っていたが、華凛は元気そうだった。
無事を確認できたのと、怪しい侍女を捕らえられたのは良かった。
心のうちで思考をまとめながら、滄月は指示を加えた。
「捕らえた侍女は一度逃がしてやるといい。巣に戻るだろうから」
「承知いたしました」
ところで、瑞軒は妻と親しそうにしていたが、浮気の報告は真実であろうか。
この仏頂面が女人に愛を囁く姿など想像もつかないが。
ひとつの疑惑を胸に押しとどめ、滄月は瑞軒から視線を逸らした。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
夏国で有名な人物として、
字は
孫家は歴史ある名家である。
名門名家の正統なる当主にして、この国の唯一の皇帝妃の父親という肩書を誇る彼は、当主の肩書きを重く感じていた。
孫家の家訓は「現状維持は最低と知れ。常に上を望め」となる。
現状、すでに皇室以外に頭を下げる必要がないほどの権勢を誇る名家であるが、そのさらに上をとは――困った家訓である。
そんな彼は、戦場で一度死にかけたことがある。
生死の境を彷徨った記憶は心的な内傷となり、記憶の一部が朧げだ。それなのに不定期に悪夢を見て、うなされる。
悪夢はいつも落鳳崖と言われる崖に誘い込まれる場面から始まる。
雨あられと矢が降る。自分は必死に騎馬を駆り、逃げる。
しかし、追い詰められ――敵兵の槍に騎馬が倒れる。傾いた馬の背中から転がり落ちて、そのまま崖へ。
敵にも味方にも死んだと思われていたが、彼は生還した。
ただ、自分がどうやって生還したのかは、あまり記憶にないのである。
「富める孫家の栄光や陽射しのごとし。光が強く地上を照らす時、影もまた強し! 酒は美味しい! いやぁ、生き返りますねぇっ」
静風の前には、密偵の女がいた。仕事を果たして帰ってきたのだ。
美味そうに酒杯を傾ける姿は雇い主への敬意に欠けているが、女が所属する
丐幇は大陸中に根差していて、数も多い。
ちょっとしたことで目くじらを立てて関係を悪くするべきではない。
「華凛の様子はどうだった? 私は元々、理由は忘れたがあの娘に期待をしていた気がする。あれが思っていたよりも役に立たないようなので切り捨てようかと思っていたが……」
しかし、華凛が変わったという噂が舞い込んできたのだ。
密偵は噂を肯定した。
「いかにも。噂通り、華凛様はやはりただものではなく、能力を隠しておられたのかと思われます。ゆえに大変危険な任務でしたが、隙もありましたのでこうして任務を成し遂げることができたわけですよ。いやー、私が優秀なんです、私が」
「ふむ。ならば、
自画自賛する密偵は微妙にうざいが、齎した情報は有益だ。静風は満足して今後の方針を練り直そうと考えた。
「待ってくださいお父様、お姉様を退けて私を側妃にしてくださるお話はどうなったの?」
「
手を打たねば、下手すれば家門の危機に繋がる失態を犯した娘の自覚のなさに落胆していた。
役人に金を握らせ、人の口に蓋をして、事件をもみ消すのも大変なのだ。
娘は反省する様子もなく、幼稚に唇を尖らせた。せめて扇子でその顔を隠せと言いたくなったところに、家令が報せを持ってきた。
「しゅ、主上がお越しです……!」
「は?」
耳を疑う報せだった。
夜間にふらりと馬に乗り、先触れもなく皇帝が孫家を訪ねていらした?
「護衛の兵士をずらりと引き連れて……そ、外に――」
――いや、その兵士は果たして単なる護衛だろうか?
静風は肝を冷やした。