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5、おかあさま、おひとち、おどーじょ

 木を隠すなら森の中。

 密偵が隠れるのは、侍女の中。


 庭を仲良く散策する華凛かりん妃と陽奏ようそう皇子を見守る侍女団の中に、密偵がいた。

 華凛妃の養父が後宮の様子を探らせるために潜入させた密偵は、読書と剣術を好む酒豪お姉さんである。


(仕事を終えたら酒を飲もう)


 そう思いながら働く密偵お姉さんの視線の先で、母子は庭園の散策をしていた。


(ところで、どう見ても皇帝と思われる貴人が一定の距離を保って尾行しているのだが)



   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


「ずいけん。おやち」

「お食事の後でしょう。もう少しお時間を空けられては、いかが」

「やぁだ」


 幼い皇子、陽奏ようそうが顎をあげると、痩身の宦官が膝を折り、蒸篭せいろを差し出す。


 教育係の宦官、瑞軒ずいけんは、いかなる時も表情が変わらない。

 だが、皇子にとっては気安い相手らしい。

 蒸篭からひょいと饅頭を取り、頬にふにふにと押し付けて笑う姿は無邪気そのもの。楽しそうだ。


「よ……陽奏ようそう。食べ物で遊んではいけませんわ。……瑞軒にも、失礼でしょう……」


 瑞軒は無表情だが、華凛は慌てて饅頭を彼の頬から離させた。

 すると、陽奏はその饅頭を「あげゆ」と彼に押し付け、蒸篭から新しい饅頭を取り出して半分に割る。


「おかあさま、おひとち、おどーじょ」


 瑞軒は饅頭を手に、生真面目な調子で解説した。


「殿下は語頭におをつけると上品になると思われておいでなのです」

「……おしゃべりがとても、上手ですわね、陽奏」


 喋るのが苦手な母も、励まされるというものである。


「ありがとう、陽奏。お母様、おひとち、いただきますわ」

「おやちはね、食べしゅぎたら、いきないんだよ」


 素朴な甘い味を味わいながら、母子は庭園を散策した。


 後ろを侍女たちが微笑ましそうについてくる。

 宦官の瑞軒は毽子じぇんずという羽付きの蹴鞠や蒸篭を抱えて「つられて幼児語を話してしまうお気持ちは理解いたしますが、お手本を見せるために正しい言葉でお話ください」と小言を差し込んできた。

 相変わらず表情が変わらないが、陽奏は慣れている様子で彼の袖を引き、かがむようにと合図して、周り中に聞こえる声で秘密の相談を始めた。


「ねえー! ぼくのこい、みしてあげたら、どうかしら」


 華凛も侍女団もみんなして、聞こえないふりをして花に視線を向けている。そんな大人たちの好意に囲まれて、陽奏は目をきらきらと輝かせていたが、教育係の返事は素っ気なかった。


「必要ありません」

「みしてあげるね!」


 意見を聞いた割りに、聞いてもらえていない。

「ぼくのこい」とはなんだろう――華凛はすぐに想い至った。「鯉」ではないだろうか。


 陽奏は母の帔帛ひはくの端をつまみ、「こっちだよ」と引っ張って池の方向へと連れていく。


 侍女たちがくすくすと笑って「可愛らしい」と皇子に蕩けそうな目をしている――華凛は「そうでしょう、わたくしの子は可愛いでしょう」と高揚しつつ、そっと瑞軒の顔色を窺った。機嫌を悪くしている様子はなく、饅頭を食べている。


(甘いものを好まれるなら、日頃の感謝とお詫びの気持ちをこめて、あとで差し入れを贈ろうかしら?) 


「きょうは、おてんき、いいね」

「太陽が地上を余すところなく照らしており、ひいては天上の畏れ多き神々が万民の正しく健やかな日常を見守っているということなのです」


 無垢な皇子に、教育係は隙あれば世を説こうとしている様子だ。


「かげ、ありゅよ。上からみえないよ、おかあさま?」

「……そのため、地上で……我らが皇帝陛下が、統治を任せられているのですよ」

「だぁれ?」

「よ……陽奏の、お父様よ」


 この子は父という概念を理解しているのだろうか――華凛は疑念を覚えつつ、ゆっくりと庭園を歩んだ。


 梅の花笠の下を歩む時間は、平穏そのもの。

 優しい風に枝と花が揺れて、微かな音を立てている。熟れた花の匂いが、実にかぐわしい。

 頭上では、彩雲を背景に友無し千鳥がひらりするりと飛んでいく。


 陽奏はお日様のように笑顔を浮かべた。


「とり」


 短い言葉に、華凛は空を仰ぎ見た。


「一羽だけ群れからはぐれてしまったようね? どこへ行くのかしら」

「こいも、いりゅよ!」


 陽奏が春風めいた声をあげ、庭園の池に視線を誘う。


 上を見たり下を見たり、忙しい。

 華凛は息子の隣に立ち、池を覗き込んだ。


 池の中では、白と紅の色彩を見せる鯉が泳いでいる。

 しなやかに、のびのびと全身をくねらせて泳ぐ姿は、和ましい。

 陽奏は得意げに鯉を指さした。


「ぼく、こいの名前ぜんぶ言えるよ」

「鯉に……名前?」


 首をかしげると、瑞軒が生真面目な声で説明してくれる。


「殿下が名付けられました。お止めしたのですが」

「と……止める必要は……ないと、思いますわ」


 生き物を愛でる心が育まれているのは、よいことだ。しかし。


「あ……」


 泳ぐ様子なく、ぷかりと浮かぶ1匹がいる。……死んでいる。

 その現実に気付いて、華凛はどきりとした。


 しかも、陽奏ようそうはその1匹がどのような状態なのかを理解している様子で哀し気に顔を曇らせる。


「しんでう」


 ――死と言う概念をわかっているのだ、この子は。


 鯉の死をはっきりと認識し、悲しむ表情を見せる陽奏に、華凛は胸を突かれた。

 風が頬を、髪を撫でていく感触にひととき瞳を閉じて、幼子の指先を掬いあげるように包みこんだ。


「あの鯉は、なんという名でしたの?」

「ずいけん」


 よりによって教育係の名をつけていたとは。


「ごほん、ごほん」


 後ろで瑞軒が咳こんでいる。いつも無表情で落ち着き払っている宦官だが、さすがに動揺したらしい。

 華凛は眉尻を下げた。

 とても鯉の名前を呼んで「そう、ずいけんが死んでしまったの」なんて相槌を打つ気にはなれなかった――本人に悪い。


「え、ええと……ま、埋葬をしましょう、か……」

「そ、そうですわね。華凛様!」


 侍女たちが優しく同意してくれて、皇子を中心として鯉が埋葬される中、教育係はぶつぶつと詩作して小声で詠んでいた。


 ――いわく。


『主君が鯉を愛で、一匹一匹に名前をつけている。


 教育係は「そんなことをするな」と言いたい。


 天下の万民の生き死にを左右する重責を担う君主は、些末なことに心を砕いているとすぐに疲弊してしまう。

 小さな足元の命などに気を散らさずに、広く遠く全体を見ているべきだ。

 何事にも感情を左右されるな、情をもつなら全てに公平に情を捧げないといけない。

 弱い生き物に情をもつな、と教えたい。


 しかしこの幼い主君をいかんせん。私の話など聞く耳がない。

 そして本日、私の名をつけた鯉が死んだのだ……』


 恨みがましいような、嘆くような気配が濃厚だ。

 間違いなくこの教育係、自分の名をつけられたことも、その鯉が死んだことも不快な体験だと思っているに違いない。


「ず……瑞軒。いつも、陽奏がお世話になって――――あの、ご、ごめんなさい」

「貴き方は軽率に謝られてはなりませぬ」

「ああ……あとで、差し入れを贈ります……」

「賄賂は不要でございます」

「わ、わ、賄賂だなんて」


 謝罪をするなと言われてしまった。

 贈り物もいらぬと言われてしまった。


 この臣下をいかんせん?

 ――思わず一緒になって詩作してしまいそうになる華凛であった。



   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


(なんて恐ろしい!)


 その時、密偵は震えていた。


 一羽の鳥とは、自分という異分子を見抜いているぞという示唆。


 そしてあの鯉は――「次はお前だ」と言われたのだ! 

 後宮は伏魔殿とはよく言ったもの。

 雅に風流に、正体を見抜かれて断罪宣言をされている! 

 ここは恐ろしい場所である……!


 密偵は慌てて逃げ出そうとして、皇帝に呼び止められた。


「そこの侍女は様子がおかしい。拘束して調べるように」


「――主上!」


 皇帝の出現に、皆が一斉に傅く。大人数の一斉礼に伴う衣擦れの音に、皇子は目を丸くして「どうちたの」と呟いた。

 母妃と皇子を順に見て、皇帝滄月そうげつは大きく一歩、前に出た。


 これが、父子の初対面である。


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