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第十三話 覚

「…君、椎名君!!」


体が激しく揺さぶられる感覚を感じながら、智也はゆっくりと目を開ける。

ぼやける視界をじっと見つめると、自分の両足が見えた。


「椎名君!大丈夫かい?!」


声のする方へ顔を向けると、矢森の顔があった。

眉を顰め、こちらの様子を伺うように見つめている。


「…先生?」


体から出そうとした音は声のつもりだったが、ほとんど息と混じってしまい、自分でも何を言っているのかが分からないくらいだった。


「ああ、よかった!急にしゃがみ込むから心配したよ。」


矢森は智也の前に膝をつき、肩に手を置いた。


「立ち眩みか?さっきから調子悪そうだったからな。」

「ええ…だ」


大丈夫です。

そう言いかけた時、強烈な吐き気が胃の底から押し寄せてくる。

抑え込もうと、下を向き、口に手を当てたその時


―ゴボッ!!


智也の口から吐しゃ物が噴出した。

かなりの量が出たため、自分の服や足元、床に広がってしまった。

矢森の声も聞こえたため、驚いたのだろう。

だが、次々にこみあげてくるため、智也もコントロールが出来ない。

地面に自身の吐き出したものが広がって行くのを見つめるしかなかった。


「おいおい!え~っ…と、拭くものを持ってくるから待っててくれ!」


矢森は智也を置いて、駆けだした。

廊下を走る乾いた音があたりに響く。


「ハァ…クソッ」

よろめきながら立ち上がり、近くの水道に向かう。

蛇口をひねり、冷たい水で手を洗い、口周りを洗い流した後、水を飲む。

かなりのどは乾いており、しばらく水を飲み続けた。

ある程度潤ったところで、自身の身体を確認する。


「帰る前にクリーニングだな…。」


ハンドソープを手に取り、服の汚れを落としていく。

自分がいた所を見ると、床にもかなりの量が飛び散っている。


「やっちまったな…。ここまでは久しぶりだ。」


ズボンは脱ぐわけにもいかないため、足を水道に入れ、水を掛けながら落としていく。


体に着いた汚れを一通り落とした時、矢森が走って戻ってきた。


「ハァ…ハァ…。大丈夫かね?」


矢森は肩で息をしていた。

両手を見ると、汚物処理の道具が全て揃っている。


「すみません。俺、やります。」

「いい、いい。少し休め。」

「いえ、今は大丈夫なので…。」

「…わかった。無理するなよ。」

「すいません。」


手拭き用のペーパーで汚れた床を掃除する。

周りに飛び散らなかったのは幸いであった。


「全く。また何かため込んでいるのか?」

「はい…?」


ペーパーをバケツに入れながら矢森がそっと問いかけた。


「君はいつもそうだ。一人で抱えて無理をして、最後に潰れているだろう?」

「はは、返す言葉もないですね。」


智也は力なく笑う。

翌々考えたら、突然母校にやってきた元生徒が、現場を見て嘔吐したなんて、

この大変な時になんてことをしてくれたんだと、普通に怒っていい状況だ。


だが、矢森は文句も言わず、それどころか心配もしてくれる。

過去と全く変わらない矢森を見て、智也も気持ちもかなり落ち着いてきていた。


「よし、消毒も済んだし、問題ないだろ」

「ありがとうございます。」

「気にするな。私は片付けてくるから少し待っててくれ。」


手早くゴミをまとめ、階段の方へ降りて行った。

この高校には焼却炉が裏庭にある。

おそらく、直接捨てに行くのだろう。


矢森の足音が聞こえなくなり、あたりは静寂に包まれる。

だが、先ほどのようなおぞましい気配は消え去っていた。


「…疲れた。」


そう言いながら床に座り込む。

急な出来事があまりにも押し寄せたせいで、感情の波が追いついていなかった。


「参ったな。わからない事が増えた…。」


もともと学校には生きている人間ではない何者かが潜んでいる。

それは、時に体に纏わりつき、時に脅かし、時に襲い掛かって来る。

だが、先ほどの『何者』に関しては、前にいた奴らとは違う。

明らかな攻撃性しかないものであった。

正体もよく分からない。

もしや、あれは警戒しすぎた自分が見た幻覚であったのではないか?

そう思いたいくらい、智也が経験したことが無いものであった。


しかし、階段を昇る時にあった気配は消え、矢森も人間のままだ。


(いくら体格が良い矢森とは言え、いきなり元教え子の首を掴み、訳の分からない言葉を羅列したりはしない。

しかも、先ほどの反応を見る限り、俺がいきなりしゃがみ込んだか、倒れたから心配している。

と言った様子だ。と、すると)


先ほどの首の感覚を思い出し、首元を触る。

首を一周触ると後ろの方に少し、窪みのような凹んだ箇所がある事が分かった。


「まさか…!」


智也は勢いよく立ち上がり、左側にある窓に反射した自分の姿を見た。


「これは…!」


首にはくっきりと首を絞めた手形がついていた。

手形に沿って紫色に変色している。

手の形とはっきりわかるほど、色にむらが無い。

指の位置も気味が悪く、一番長い指は智也の首の真後ろまで届いていた。

場所からして親指と中指が届いている。

成人男性の首に手を当てたとして、どれだけ手が大きいとしても親指が首の真後ろに届くことはあり得ない。

余りの得体のしれなさに全身がこわばった。


もう一度触ると、更なる違和感を見つける。

指の終点部分に丸い痕が感触で分かった。


「マジかよ…。」


智也は近くにある男子トイレに駆け込み、鏡を見た。

窓の時よりもはっきり首に痕があるのが見える。

そして、智也はとある痕を見つけて、それがこの世のものでない事を確信する。


「これは…爪か…!」


その丸い傷跡の位置は指の先端部分にあった。

通常の人間が首を絞めたのなら爪の先の後が残る。


だが、智也の首には『爪の形』が出ていた。

つまり、爪自体が智也の首にめり込んでいたのだ。


「逆手…。」


我々が住んでいる世界には、霊界、あの世、この世、現世など

様々な呼び名が存在している。


あの世とこの世は生と死が入れ替わるため、すべての事象があべこべになると言われてる。

この現象は実際に目の当たりにしたことがある。

だが、それが自分自身に起こるのは初めてであった。


(生者の身体に痕を残すほど強い力。それでいて、あんなに鮮明な幻覚を見せることができるのは、相当なものだ。霊と言うより、魔の物…、あるいは神の類か…?)



痕跡を追ってみようかとも考えたが、一切の気配が消えている他、智也の力では追う事は難しい。


「調査する項目が増えたな。」


智也は首元のボタンを締め、トイレから出た。

そのタイミングで矢森も戻ってきた。


「椎名君!また吐いたのか…?!」


矢森は慌てて智也に駆け寄った。


「いえ、鏡で汚れを確認しただけです。」

「そうか…それなら良かった。」

「すみません。ご迷惑をおかけして。」

「いや、それは構わない。もう、大丈夫か?」

「ええ、もう平気です。あー…、先生から見て、俺どうなってました?」

「どう、って、喋っていたら急にしゃがみ込んだ、だな。」

「長かったです?」

「長い…?しゃがんでいた時間かい?」

「ええ。」

「いや、すぐに声を掛けたら答えたから、そこまでじゃないな。むしろ、片付けの方に時間がかかったよ。」

「…!」


智也の出来事は矢森の体感で20秒程度の事だったのだ。

あれだけの事がそんな短い時間なはずがない。

首にははっきりと痕が残り、呼吸が出来ない感覚も体が覚えてしまった。

完全な死が頭を埋め尽くしたのだ。

だが、矢森はそんな智也の様子は見ていない。

急にしゃがみ込んだから心配して声を掛けた。

それだけなのだ。

つまり、智也が体験した出来事は現実世界で行われたものではない。


一瞬で現実世界を切り離し、感覚も時間も全てが狂った場所に意識だけが行ってしまった。

だが、意識だけで終らず、体に証拠もつけられてしまったのだ。

狐がいなければ…、今頃自分はどうなっていた。

想像しただけで全身が震えた。


「どうする?体調が悪いならまた後日、連絡をくれればどうにかするが。」

「いえ、大丈夫です。大体の事は分かりましたから。」

「そうか…。」


そう言いながらも矢森の表情が晴れない。

それどころか、今まで見たことが無い苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。


「どうしました…?」

「…椎名君、くれぐれも無茶はしないでくれよ。」

「え…?」


矢森が顔を上げて、まっすぐ智也の顔を見た。


「君が自分の能力で苦労しているのは知っている。私には想像もつかないものだ。経験も体験もできないからね。それでも、君の元担任として、心配くらいはさせてくれ。」


矢森は智也の肩に手を置き、寂しそうに微笑んだ。


「…先生には、感謝してますよ。」


矢森の記憶を1つずつ頭に並べる。

記憶を見るたびに、この先生に会えてよかったと、全ての出来事は輝いていた。


「まあ、嫌だったことも全部覚えてますけど。」

「ハハハッ、そうだな。」



お互い少し笑い合う。

静かな廊下に2人の温かい声が響き渡っていた。


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