「よーっす、智也ー、暇?」
事務所の扉が勢いよく開かれ、リュックとパソコンを持った女性が入って来た。
上下オレンジのスエットにメガネをかけて、髪はヘアバンドで固定と、オシャレとは程遠い恰好をしている。
突然の訪問に驚きを隠せなかった智也は、勢いよくコーヒーをズボンにこぼしてしまった。
「…あちっ!涼音…、脅かすなよ。」
「いいじゃん、どーせ誰も来ないでしょー。てか、この扉開きにく!直しなよ~」
「…金があればな。」
「今日も相変わらず、食うべからずの智也さんですか。」
「うっせぇ。」
軽口をたたきながらも急いでコーヒーを拭く。
紺色のスーツであったのがせめてもの幸いであったが、今から客が来たらどうするんだと智也は落胆した。
一方、涼音と呼ばれた女は、智也の様子を気にすることもなく
ずかずかと部屋の中に入り、いつもの定位置であるソファーに座った。
リュックを机に置くと、パソコンを取り出し電源を付ける。
そして、ポケットに入ってたロリポップを口にいれ、味を楽しみ始めた。
「んー!いつものさいこー!」
イチゴ味は彼女のお気にいりの為、1日2本は最低でも食べている。
舐めるではなく、少しずつ噛んで食べるのが涼音のスタイルだ。
「…仕事は?」
「爆速で終わらせて有休。」
「ああ、そう。」
「依頼は?」
「ゼロ。」
「知ってた。」
「…ハァ。」
余りにも淡々とした会話のため、周囲から見たら喧嘩でもしているように見えてしまう。
互いに欲しい情報の要点のみの会話で進めるため、無機質な会話に思えるが、
これが彼らの日常会話である。
彼女の名前は花崎涼音。
普段は都内の会社でOLをしており、女性向けの日用品開発を行っている。
社内では上司からも部下からも信頼されており、現在は課長に就任することが出来た。
3日前、居酒屋で飲みに行った際は、
大きいプロジェクトのリーダーを任され、無事に終わらせることが出来たと、嬉しそうに話しており、やりがいを持って取り組んでいる様子が見えた。
いつもは仕事が忙しいため、2週間に1度飲みに行く程度だが、
たまにふらっと猫のようにやってくるのだ。
「さて、今日もやりますか」
パソコンの電源を入れると画面にアイコンが表示される。
アイコンは赤と黒を使ったスタイリッシュな物で、中央に鳥が羽ばたく形となっている。
そのアイコンが画面の上に飛び立った後、「Hello.Owl」と音声が流れた。
この瞬間、優秀なOL花崎涼音の表情から、人間味のある温かさや優しさが抜け落ちる。
ラフな格好からは想像がつかないくらい、纏う雰囲気も、冷徹な物に変わるのが分かった。
画面を見つけるその視線は、獲物を淡々と狙う梟(ハンター)のように。
「天才ハッカー様のお出ましか?」
「やっだぁ~褒めても何も出ないわよ~?」
「よく言う…。この間のサイバーテロでは随分ご活躍なさったようで。」
「ふふっ、仕事だったからね~。まさか、警察(くに)から直々に来るとは思わなかったわよ。」
「全員、こんな素朴な容姿とは誰も思わねぇんだろうな。」
「何か言った?」
「いんや、なんも。」
ハッカー
コンピューターに精通する高度な技術や知識を有する者としての用語だが、
巷のイメージでは、あらゆるコンピューターシステムの乗っ取りや破壊攻撃を行う事を示す。
その行為をする奴らの事はクラッカーと呼ばれるが、近年ではハッカーもクラッカーも語彙の差はなくなっている。
差を分かりやすくつけるためにホワイトハッカーと言う用語が生まれた。
そして、そのホワイトハッカーの中でも世界トップ5の技術を誇る者たちがいる
その頂点に君臨するのが
ジェニーホワイトハッカー【オウル】
花崎涼音のもう1つの顔だ。
彼女の功績は多岐に渡り、世界中で活躍をしている。
一部を挙げると、首都圏の銀行のデーター情報が盗まれ、不正利用される事件があった時、
盗まれた顧客情報と個人情報や機密書類全てを10分で取り返す事に成功した。
更に、その10分の間で犯人たちの情報を逆探知し正確に捉えることが出来、これを警察に届けたのだ。
しかし、無名でのハッキングだったため警察に疑われてしまい、一度はクラッカーとみなされて事情聴取を受けた。
だが、当時の警察の力ではできなかったサイバー犯罪を未然に防いだことが捜査で分かり、
釈放された後はその高い技術力と能力を買われ、様々な大手企業や警察のハッカーとしても活躍しているのだ。
そのため、涼音を狙う輩が居ることも事実あり、涼音の素顔を知る人物は限られている。
限られた人選の1人が智也というわけだ。
「今日は依頼でやるのか?」
「んーん、何か面白そーなのあったから潜ってみる。」
胡座をかき、膝の上にパソコンを乗せる。
「相変わらずすごい体勢でやるな。」
「この方が深くいけるのよ。」
会社の人が見たら余りの違いに目を疑うであろう。
普段はシワ1つないスーツでバリバリ仕事をこなす、花崎涼音が、
ここまで緩み切った姿で、猫のように丸まったし姿勢でパソコンを持つ姿を。
智也にとってはこの姿の方が慣れているため、
スーツ姿の方が違和感でしかないが…。
「そっちはなんか仕事無いの?」
「ネットで見つけた記事作成の仕事をしてるよ」
「ええ~?まだあの胡散臭い記事のライターやってんの?」
探偵業を行っている事もあり、依頼者の話は中々に趣深いものが多い為、様々な情報が集まる。
そのため、依頼が無い時は雑誌やニュースのライターも行っていた。
ここまでは普通にある職業なので疑う要素も無いが、
涼音の言う胡散臭いとは、発信元の会社の情報が涼音でも洗う事が出来なかったのだ。
創業者、本社の場所があるところまではすぐにつかむ事が出来たが、
それ以外の情報が全く出てこない。
涼音からすれば、安全となしえる材料があまりにも少ない為、智也には注意しろと釘を刺しているが
当の本人は報酬をきちんともらっているため、気にもしていない様子だ。
「この方がマシなんだよ。」
「いや、お金貰ってればいいじゃないのよ?時間と対価が釣り合ってない上に、内部はガッチガチ。
私が破れないのはおかしいことなの!こんな小規模の会社なのに意味わかんないわよ。」
その言葉は智也を心配しているものという事は分かる。
だが、智也の今の状態に置いては、この仕事は都合が非常に良かった。
「なんか依頼が来ればいいんだがな。」
これ以上勘ぐられると、厄介な事になりそうなため、話題を切り替える。
涼音もその一言でこれ以上の追及は無意味と判断し、話を合わせることにした。
「外で宣伝とかすればいいのに。」
「こっちから動いて来るもんでも無いだろ。」
「それはあんたのプロモーションが足りないからじゃないの?」
「…。」
かなり痛いところをつかれる。
現在智也の収入源は記事作成が9割を占めている。
以前は依頼もちらほらあったが、ここ最近はからっきし無くなっているのだ。
と、言うのもこれは智也自身に問題があるのだが、まだ向き合えていない。
とつらつら考えるが、要は逃げているだけなのである。
こんな状態で探偵を名乗るのもどうかと、少し頭によぎる。
「その顔は図星ね…。分かってるなら何とかしなよ。家賃払えるの?」
「それは、ギリギリ何とかしてる。」
「はぁ…。仕事頑張るって言うから応援はしてるけど…。安定している所のほうで生活費は何とかしたほうがいいんじゃないの?」
言い分はごもっともである。
だが、智也はこの仕事を手放せない。
【あるもの】を見つけるまで、やめるわけにはいかないのだ。
「…それだと、自由に時間と、調べ物はでてこねぇからな…。」
「それは…そうだけどさ。でも、それはアンタが安定の上で、でしょうが…。」
「だから、働いてるだろ。一応だが…。」
「もう…。わかったわよ。」
そう答えると涼音もパソコンに目を移す。
エンターキーを2回軽快に鳴らすと、画面の黒い鳥のアイコンが揺らめき、画面が変わる。
変わった先はとある企業のホームページだ。
管理者専用のパスワードを突破し侵入を開始した。
「今日は何か収穫があるといいんだけどね…。」
タンッ——
キーボードの音と同時にいくつものページが開き始め、画面を覆いつくす。
その中から需要な情報のみを瞬時に把握し、データーコードに入力していく。
瞬きもせず、手元だけが動いていた。
「シンキング・ダイブに入ったか…。いつ見ても凄い集中力だ。」
シンキング・ダイブ
涼音があらゆる情報を処理するため、パソコンの音以外を全て遮断し、画面の中にある情報以外見えなくする状態だ。
この時は話しかけても一切の反応は無い。
最長で、太陽が2回沈んだ事もある。
この集中力こそが、涼音が世界一となった大きな要因だ。
「俺も、さっさと仕上げるか。」
涼音のダイブに触発されて、智也も目の前の仕事の仕上げにかかる。
しばらくの間目も合わせず、互いのパソコンに集中しており、タイピング音のみが静かに響いていた。
1時間ほど行っていただろうか、涼音の顔に表情が戻り、体を起き上がらせ、
「お、来た来た来た~♪晴部工業の機密データー、ゲットー!」
と、立ち上がり拳を上にあげた。
よほどうれしかったのか、片足でくるくると回っている。
「またどこかに売るのか?」
「そんなことしないわよ。ただ、最近この会社のニュースが気になったから、調べただけ~。」
「「企業のパソコンのセキュリティーを勝手に解読して勝手に侵入してデーターを確認した」じゃねーか。お前の調べるは色々飛び越えてんだよ。」
「見れるようにしてあるのが悪い!」
「…とんでもねぇ屁理屈だ。」
「しょうがないじゃん。この涼音様に破れないセキュリティは無いんだから!」
舌を出してウィンクする顔にうっすらと怪しい影が纏う。
ああ、この顔はダメだ。
全部わかってて悪い顔をしている。
これは何を言った所で、引き返すことはしない。
だが、全て終わった後、元居る場所に戻ってこれるかどうか、
たった一つの些細な行動で、結果の全てが変わる危うさを放っていた。
涼音は【この世界】に入った以上、最初から戻る気はないのかもしれない。
「…めぼしい情報は見つかったのか?」
涼音の目を見て尋ねると、手を下ろし
「だったら、私はこれを辞めてる。」
怒りのこもった視線を向け、答えた。
その目には怒りだけでなく、悲しみや悔しさも見て取れる。
しくじった。
まだ聞くべきではない情報であった。
と、同時にまだラインを踏み越えていない事に安堵した。
少しの沈黙が二人の間を通る。
「…そうか。」
先にいたたまれなくなり、席を立ったのは智也だった。
歩く途中で、涼音の肩に手を置き、キッチンの方へ向かった。
後姿を見ながら
「…なんであんたの方が悲しそうな顔をしてるのよ。」
と、ポツリとつぶやいたが
それが智也には聞こえる事は無かった。