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眼鏡転生
谷口
文芸・その他ショートショート
2024年09月30日
公開日
2,964文字
連載中
 我輩はメガネである。

 むろん、あの偉大な作品に泥を塗ろうなんて魂胆は、一切ない。そんなたいそれたことをやってのけるような度胸もウイットもあいにく持ち合わせてはいないからだ。
 しかし、私は思うのだ。
 たいていの人間が、今の私と同じ状況におかれたならば、十中八九、先ほどの私の失礼と随分似たパロディを嗜むだろう、と。
 それほど私の置かれた状況は異常だった。かの、偉大なる夏目漱石先生の世界を借りずには精神を正常に保てないほどにーー


 ※このお話は、眼鏡になったということをごく真面目に語るものとなっています。

第1話

 朝目覚めたら見知らぬ男の眼鏡になっていましたと聞いて、あ、そうなのね、と受け流せる者はいったいどれだけいるだろうか。

 とあるデータでは、年齢と純白の交際歴をイコールで結ぶというなんとも光栄な方程式を有する者は、全体の二割前後だと言われている。おそらく、その数値より私の提示した問題を満たす者の割合は格段に低いのではなかろうか。つまるところ、皺一つない真っ白な恋愛の履歴書を嘆く必要も恥ずかしがる必要も、全くないのである。

 違う。私は別に、甘酸っぱい経験を持たぬ者たちを慰めたいわけではない。

 私が言いたいのは、このイレギュラーな状況についてである。

 いったい全体、なにをどうとちくるったら、いかようなヘンテコな転生を経験せねばならぬというのか。

 確かに昨夜、いつもと変わらず私はさらさらな布地に包まれて眠ったはずだ。うつ伏せで脚を交差させて寝るのが拘りなので、それもしっかり実戦した。この世に美しき寝相コンテクストなるものがあればおそらく優勝間違いなしのうっとりするほどの体勢で、確かに睡眠を謳歌していたはずなのである。 

 それが起きたら見知らぬ人間の眼鏡になっていた。

 つまりーー

 どういうことであろうか。

 さっぱりわからない。



  ○


 しかしながら、慣れというのはなんとも恐ろしいものだ。時間が経つにつれ、次第に私は眼鏡生活を満喫するようになっていた。

 少し、ここで弁明させてほしい。

 なにも私は進んで眼鏡生活を推奨したいわけではない。思ったよりも眼鏡であることは大変で、なにより人の顔にずっと引っ付いているというのはそれなりに苦行である。それこそ、鼻が低い主だと何回も滑り落ちる羽目になるし、口臭がある主だと臭いは常に近くにある。さらに、主が眼鏡を外すのを忘れて寝ると、主の顔と布団に挟まれることになるのだ。

 主次第で暮らしが苦にも楽にもなる。それが眼鏡なのである。

 そう考えれば、私はむしろ当たりを引いたようだ。

 私の主は、とある地方の大学に勤める五十代半ばの男で、物腰の柔らかい、紳士風の男だった。これはだじゃれではないが、男は櫛程度には屈しないくせっ毛を四方八方に散らし、対照的に身につけるものはピシッと整えている。妻から寄越される弁当を片手に八時過ぎに大学へ向かうのが男の日課で、学生たちの間でも愛妻家として有名なようだった。

 さらに、無愛想な見た目とは違って、男は常に学生のことを案じていた。学生から一を求められたら十を返し、欠席の続く者には率先して連絡を寄越し、学生たちの悩みには常に寄り添ってあげる。そんな男が好かれないわけがない。

 当然、学生はそんな男を慕い、それに引っ張られるかのように私も男のことを好むようになっていった。

 もちろん、なぜ眼鏡になってしまったのかだとか、その他諸々のモヤモヤがなくなったわけではない。だが、どうせ誰かの眼鏡になる運命なら、私を大事に扱ってくれる人物がいいに決まっている。

 心根の優しい男は無機物にも優しいからーー。

 ある意味、この男の眼鏡というのは快適な転生先なのかもしれない。

 そんな意味不明なことを意味ありげに考えるくらいには、私はすっかり男に絆されていた。



  ○



 それは、いつものごとく男の講義に付いていった時のことである。想定外というか、私に血が通っていたならばおそらく血の気が引くであろう、そんな場面に出くわした。

 というのも、前方の席に座る学生の一人が、男の似顔絵をノートの端に落書きしていたのである。 

 まだ、美男に描かれていたならばよかった。だが、そこにある姿は、控え目に申しても不細工としか言いようのないものだった。ちなみに、控え目に言わなかったら、エイリアンである。

 そんなもの、私の主に見せられるわけがない。彼が見たら最後、ひどく傷つくに違いないからだ。

 なんとか阻止せねばーー。

 そうは思うが、所詮私は眼鏡である。眼鏡が人間の意思をコントロールできると思ったら大間違いである。あろうことか、男は出席を取るためにより学生たちに近づいていく。そして、それに慌てた学生は、うっかり例の落書きが載ったノートを落としてしまった。

 優しい男は、当然落ちたノートを拾おうと動く。だが、それよりも早く、私は己のレンズを白く染めあげた。

「あれ、眼鏡が急に曇って……」

 男が不思議そうに眼鏡を外して、ハンカチで私を拭き始める。その間に学生がノートを拾い、明らかにほっとした様子でそれを机に置いた。それに私もほっとする。

 だが、安心したのもつかの間。例の学生の両隣を見た瞬間、私は思わずない声を張り上げそうになった。なぜなら、両隣の学生たちも男の似顔絵を書いていたからである。

 両隣、おまえたたちもか!!

 まだ、左の学生はうまいからよい。だが、右の学生はやばい。あれは、エイリアンを通りこして、もはや眼鏡をはめたじゃがいもである。

 きゅッきゅッ。

 その間も、眼鏡を拭く音が静かな教室に響き渡る。男は懸命に私の曇りを拭おうとしているようだ。だが、男のためにも私のレンズを透明にされるわけにはいかない。頑固として、私はきれいにされることを拒んだ。

 きゅッきゅッきゅッーー

 いまだに眼鏡はしっかり曇っている。そんな頑固なくもりを見て、男は諦めたようにふぅーっと溜め息を吐いた。

 ふう。これで窮地は免れたようだ。

 そう思った矢先だった。

「なかなかとれませんね。しかたない。洗ってきますか」

 男がそういって、私を片手に歩み出した。

 ああ、なんてことだ!

 このままあの不真面目な学生の横を通過しようものなら、彼の目に写ってはならぬものが写ってしまう!

 こうなったらーー。

 私は我が身を犠牲にすることにした。

 ゆっくりと男の手から地面へとダイブする。

「私の眼鏡エエ!」

 主が慌てて私に手を伸ばす。だが、その手は空中をむなしく空振るだけだった。




  ◯



 眼鏡の役割は主に二つある。

 一つが、主の視覚情報の入手をサポートすること。

 二つ目が、主の視覚をあらゆる悲劇から守ること。

 確かに私は、その二つを遂行したのである。



  ◯



 目覚めると、ベッドの上だった。

「夢……?」

 思わず呟く。

 だが、確かに眼鏡としての記憶が鮮明に頭に残っている。それに、ベッドに寝ていたにも関わらず背中がズキズキと痛むのだ。まるで、ある程度の高さから床に落下した後かのように。

「いや、あれは夢ではないはず……」

 だとしたら、一体なんなのか。

 もはや真相は迷宮入りすると思われたのだがーー。

 意外にも早く、私はその答えを見つけることになった。

 それは、私が地方の大学に入学して2年がたった頃のことだ。2年生は、一学科約50名の学生が8つのゼミに振り分けられる。各ゼミには5名から8名の学生が在籍し、ゼミの専門性に応じて担当の先生が決まることになっている。そして、何を隠そう、私のゼミの先生があの眼鏡の主だったのである。

 なんとなく、私は悟った。

 おそらく、先生と学生というのは、主と眼鏡のようなものなのだ。学生は基本先生に引っ付く形で物事を学ぶし、先生も先生で学生の斬新な考え方を知ることで視野を広げていくことになる。むろん、先生と相性が悪ければ学生の生活は苦になるし、その逆もまた然りである。

 つまりは、前もってそれを知る機会が、あの妙な体験だったのだろう。



 うん……なるほど……

 よろしければ、一つツッコませてほしい。



 にしても、学び方が斬新すぎるだろぉぉ!

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