英語の授業をもっと真面目に受けておくんだったと後悔したのは、何回聞いてもシェフとアシェフを区別することができないと気づいた時だった。
そしてその後悔は、現在進行形で僕を悩ませている。
ああ、なんで英語の発音についてもっと学んでおかなかったのか!
そう、過去の自分にやつあたりした時だった。
「I am a chef」
目の前に立つ、金髪の男が再びそう言った。
いや、もしかしたら「I am Asyehu」 と言ったのかもしれない。
だが、実際のところどっちが正しいのかはこれっぽっちも分からなかった。
◯
それは遡ること数十分前。
僕は友人の長田を連れて、昼飯を食べに学校の食堂へやってきた。
お目当ては、トンカツ定食。大変人気のメニューなので、僕たちは授業が終わると同時に教室からダッシュした。途中、「廊下を走るな!」と生活指導の永山先生に叱られたれた気がするが、「今叱られたか?」と隣を走る男に聞いたら「幻聴だ」と言われたので、僕たちは構わず走り続けた。
カツだけにトンカツ争奪戦に勝つ!
そんな強い気持ちを持って、僕らはひたすら走ったのである。
そうして食堂にたどり着いたわけだが、どうやら他のクラスの方が授業が終わるのは早かったらしい。僕らが着いた時には、トンカツ定食は後1つしか残っていなかった。
「長田、僕は君を親友だと思っている」
「奇遇だな。俺もそう思っている」
食券機の前で、僕たちは互いへ語りかけた。
「なあ、長田。トンカツ、譲ってくれるよな?」
「なにを言う。島田はアクアパッツァでも頼んでいろ」
「あんなパッツァかピッツァかわからないやつ誰か頼むか」
「どっちかというと俺はパッツァ顔じゃない」
「それを言うなら僕はソース顔で、君は醤油顔だ」
「なっ、それは卑怯だぞ」
そんな重大な取引きを、醤油顔の友人と交わしていた時だった。
いっきに食堂が騒がしくなった。何事かと声がした方を見れば、学校のマドンナこと川下さんが、なんとこちらに向かってきているではないか。
ごくっと横から唾を飲み込む音がする。どうやら、長田もマドンナを見てひどく緊張しているようだった。もしや、こいつも厄介なライバルだというのか、と頭を抱えた時。マドンナが連れの友人に「アクアパッツァっておいしいよね」と言っているのが聞こえてきた。
瞬間、僕の指は食券機のアクアパッツァと書かれたところへ迷いなく向かってゆく。
すると、ごつごつとした焼けた指が、僕の指にピタッとくっついてきた。胸キュンならぬ、胸ズンだ。
「……何の真似だ? 長田」
「それはこちらのセリフだ」
「僕はアクアパッツァを食べる。君はトンカツを食べるといい」
「いいや、俺がアクアパッツァを食べる。ソース顔の君はトンカツを買いたまえ」
「なっ、それは卑怯だぞ」
僕の指と長田の指が互いに押し合いを始める。
意外と強い長田の力に驚いていると、ぽんぽんと後ろから肩を叩かれた。
「あの、早くしてもらっていい? アクアパッツァならまだ個数があるだろうからさ」
いかにもパッツァ顔のそいつが、眉をしかめてそう言ってくる。はっとして辺りを見渡たすと、僕たちの後ろには行列ができていた。そして、行列の後ろの方では、マドンナが不思議そうにじっとこちらを見つめている!
結局、僕と長田は顔を真っ赤にして、大人しくパッツァを購入した。
その後の事はもはや覚えていない。というのも、頭の中は羞恥心でいっぱいだったからだ。
どう考えても、醤油顔とソース顔がパッツァ顔の前でアクアパッツァを奪いあっていた、というのは変だ。もしかしたら、あらぬ誤解をマドンナにされたかもしれない。
そんな恐怖心が膨らんで、パッツァの味も周りで何が起こっているのかも、なにもかもがわからなくなったのだ。
ただ、耳が断片的に拾った情報として、職員にアシェフという名前の新人がいることと、カッコいい大人は気に入った料理があればシェフを呼びつけるということが、近くで話す生徒の会話で話題になっていたことは覚えている。そして、たまたまマドンナが真後ろの席に座り、それに慌てた長田が「ああ、あ、シェフを呼んでくれ!」と叫んだことも。
気づいたときには、金髪の男が僕たちの目の前に立っていた。そして、僕と長田を食堂中の生徒が見守る中、男はニッと笑って「I am a chef」と宣言したのだ。あるいは、ただ名前を述べたに過ぎないのかもしれないが……。
◯
そして冒頭に戻るのだが、僕は未だに返事に迷っている。というのも、答えを間違えれば、僕がアホウであることがマドンナだけでなく学校の生徒中に広まるからだ。
それに、最悪なことに男はワイシャツに黒いズボンを履いている。つまりは、一般職員にも休憩中の料理人にも見えるわけで、もはや男がアシェフかシェフかを知るには微妙なaの音を耳で判別するしかないのだ。
僕と長田は顔を見合わせた。
((どっちだ!?))
迷っていると、再び男が言う。
「I am Asyehu」
これで、三度目だ。二度目くらいなら、「ああ、聞き取れなかったのかな」と周りがいい風に解釈してくれる希望がある。だが、三度目はだめだ。これじゃあ、僕たちが英語を聞き取れていないのだと、周りが真実に気づいてしまう。
もう、迷っている暇はなかった。
「I am Shimada」
I am ほにゃららと言われたんだから、こちらも同じような返しをしておけばいいのではないか作戦、名付けて「I am 返し」だ。
機転を利かせて僕がそう言うと、長田もはっとしたように後に続いた。
「I am Nagata」
Ok、と金髪の男が頷く。すると、長田も最もらしい顔を作って、Ok、と頷いた。
ふざけるな。これのどこがOkだというのか。むしろ、全然Okじゃない。
シェフかアシェフかわからない相手に挨拶をしたはいいものの、なにせん相手がシェフかアシェフかわからないので、料理を褒めればいいのか友好を求めればいいのか、正直さっぱりなのである。
「What is your call regarding?」
男が言った。なにを言っているのかわからないが、おそらく「なんですか?」とかそんなあたりのことを言ったのだろう。それならば、日本語五文字に習って、もう少し短い言葉を言ってほしかった。なんなら、「what?」でよくないか。
空になった皿を眺めながらそんなことを考えていれば、急に全てのことが馬鹿らしく思えてくる。
もはやーー。
僕と長田のバカが露呈したのはもう隠しようがない。きっと、マドンナも薄々僕らの失態に気づいているはずだ。
そう悟った瞬間、僕はふっと笑っていた。
もうやけくそだ。
「You are ア シェフ!」
どちらにも取れるよう、アとシェフの間を極力短くして叫ぶ。気持ち的には、「アッシェフ」くらいだ。いわば「なッがた」とか「しッまだ」と言っているようなものだが、ちょっとラップをかじっているのだと思えば、そんなにおかしくはない。だから、僕は左右に両手を揺らしながら、まるでラップのごとく、「You are アッ シェフ!」と言ってみせたのだ。
案の定、男は僕のエンターテイメントな側面を理解したようで、屈託のない笑顔を見せると、ノリノリでラップで返してきた。
「Yeah, 僕はアシェフ~、ここのシェフをしている~、よろしくです~フゥー!」
男がそう言って両手を天に掲げた瞬間、あたりからパチパチと拍手が鳴る。
盛り上がる周りの歓声をぼおっと遠くに聞きながら、僕と長田は呆けた顔でお互いの顔を眺めていた。
ああ、やはり長田は醤油顔だなあ。
そんな場違いな感想が浮かんだ数秒後ーー。
僕と長田は同時に叫んでいた。
「いや、アシェフ兼シェフなんかい!」
「いや、日本語話せるんかい!」
瞬間、再び長田とお互いに顔を見合わせる。
そして、「「いや、ツッコミそこ!?」」と、微妙に気の合わない僕たちの声が重った。