……ノックノックノック。
夜の二十一時に鳴ったのは、きっとそんな音だったと思う。
私は驚きを隠せなかった。今日、何度目の訪問であろうか?
既に今日、二度も『彼ら』はやってきているというのに。もしかすると、本当にスパンが変わってしまったのかもしれない。
現状、精神が擦り切れている私にとって、それは間違いなく悪い知らせである。
はっきり言おう。今日の夕方の『ピエロ』から、もう私は何にも出来なくなってしまった。
この通り理性は働いているし、言葉も出そうと思えば出せる。しかし体と、精神が、もう限界だった。目も虚ろだし、体はだるいし、頭もぼうっとしている。息も浅い。
ただ暗い部屋の天井を見上げて、とにかく全身を脱力させている。
もうソファに登る元気もなく、絨毯すらない廊下の隅で、体を寄せている。たまに片腕をあげて、朦朧としながら意味もなく腕で遊ぶ。さながら、猫の様な感覚であるとつくづく思うが、それほど、私は気力を奪われていた。
何かをしたくない。何かを選びたくない。もうただ、息をするだけでいい。
そう思っていた矢先に、その音がまた鳴った。
『クレーマー』かと思ったが、何となく玄関先の雰囲気から違うと感じていた。
重い体はあれがくると、案外無意識に動かすことが出来た。久しぶりに立ち上がると、体は思っているようには動かなくて、ぐらぐらと揺れながらも、そのインターホンの画面を、重い瞼をこじ開けてみた。
そしてインターホンの真下に放置されていた『説明書』を持ち、おもむろに、意味もなく、百ページぴったしを捲って、インターホンのボタンを押した。
「……」
そこに居たのは、今日の初めにやってきた、あの『前任者』の男だった。
「こんばんは」
『あ、こんにちは。えっと、ここであの仕事が、またやっているって聞いたのですが……』
「……ん?」
『そうですよね? あなた、サクラさんですよね。実は私も、この仕事をしたことがありまして。いわゆる『前任者』っていうのですが。そう! 『説明書』とか、分かりますよ? 掟とかもわかります!』
「…………」
『し、信じられないですよね? ええっと、掟その一、『ドアを開けてはならない。家から出てはならない』。その二、『彼らの要求を断り続けなければならない』。その三、『彼らと長く話してはならない』』
「……………………………………」
『その四、『彼らに怖がっていると気づかれてはならない』』
「……………………………………………………」
『ですよね? サクラさん』
私は戦慄していた。
それは、おもむろに、意味もなく、ただ機械的に、『説明書』を捲って気が付いたのだ。
私はとんでもないミスを犯していた。私は、とんでもない過ちを、犯していた。
………………。
『説明書』には『前任者』の記述が新しく追加されていた。
それはそうだ。確か『ピエロ』の時からするに、この『説明書』はその時起こった事をリアルタイムに更新してくれる。どんな技術を使っているのか、全く想像も出来ないが。でも、どうやらその記述は、もうされているようだった。
それを見て、私は全ての事象に納得してしまった。
そして、正しく絶望した。
『前任者を装う』
・項目 こちらしか知り得ない情報を語ってくる事例あり。
・対処 安全かつ実害のない返答『不明』 一回出現。
出現が、一回?
思い出してみよう。ピエロの後にも『説明書』をしっかり読んだ。その時、こんな記述はあっただろうか? 嗚呼。うん。ええ。うん。なるほど。つまり…………。
この項目は、今追加されたのだ。
それが何を意味するか、私はもう、理解してしまった。
私はもう、取り返しのつかないことをしてしまった。
『説明書』から視線を外すと、画面に写っていた『前任者』は、顔が歪んでいた。赤い瞳に、見覚えしかない顔にどんどん変貌していき、歪な笑顔を浮かべた。
眼 眼
・
眼 眼
・
眼 眼
・
眼 眼
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世界が静寂だった。
その時、耳の奥で鳴っていた『ノック音』が。ふっと止んだ気がした。