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9 マドもあぜる



 ……ノックノックノック。

 夕方の十七時に鳴ったのは、きっとそんな音だったと思う。

 私はソファで項垂れ、最初はあの『クレーマー』であると判断しインターホンまで進むと、そこに立っていたのは、あの『クレーマー』ではなかった。


 おかしい。と即座に気が付いた。今日は既に一度来ている。なのになぜ、同じ日に二度目が来るのだろうか? 今までのスパンを考えるとそんな事はあり得なかった。何かが違う? まさか、『彼ら』がついに、そのスパンを崩して来ているのだろうか?


 いいや考えている暇はない。早く『説明書』をもって、インターホンのボタンを押さなければ……。


「……こ、こんにちは」

『おお、おおお! こんにちはマドモアゼルっ』

「あ、ええ……?」


 初めての切り口で少しおどける。画面に写っていた男は黒いフードを被っていたのだが、言葉を発すると共に、唐突にそのフードをとっぱらい。その笑顔が刻まれ、赤い鼻をし、白く化粧した顔を見せた。そう、彼は『ピエロ』だった。


 私はすぐに『説明書』を捲る。『ピエロ』の項目を探したのだ。


 すると百二十三ページに、『ピエロ』という項目が、たった一行だけ見つかった。そこに書かれていたのは、驚くべき事だった。


 ・安全かつ実害のない返答『不明』 十三回出現。十三回失敗。


「…………」


 この『説明書』における『失敗』とは、読み進める度に意味を理解していった。その『失敗』とは。『この手口でドアを・・・・・・・・開けてしまった・・・・・・・回数・・』であるのだ。

 つまり私は今、この仕事における『最難関』と出会ってしまったのであろう。


 しかし十三回全て失敗に終わっているというのは興味深くはあった。

 つまり、十三回も挑戦する機会があったのに、その突破方法を見つけられなかったということだ。

 こういう前人未踏の事をするのは、なんだか自分の中にある冒険心がくすぶられる気がしたが、その興奮はすぐに冷めた。


『いやはや、そんな本を読んでもどうにかなるものかえ? 私としてはその本に頼ることこそナンセンスっ、それは魔導書よりも使えない粗悪品でありましょうよ、やつれたマドモアゼル!』

「…………」


 ピエロの口ぶりから察するに、どうやらピエロは私の状況を把握できるようであった。


 見えているような物言い。

 そうした対応をまじまじと見せつけてくるのは、前例のない事だった。私は見られている。あの、『オネえさん』の時と似た感覚がある。



 まるで、『侵食』されているような。



「――――っ」


 いけない。

 記憶が、おかしくなる。



 狂気の渦に、狂乱の世界に、物も言語も世界もコーヒーも踏切もないあの地球に。道路が躍るあの景色が浮かぶ。空が笑らって微笑んでその言葉を告げてくる。愛して、愛して、そして、殺して、矢継ぎ早に踏切が鳴る。トンネルの瓦解。建物の融合。物語の輪郭。地平線。地平線。地平線の先にある強欲。支配の師範の獅子のしこりの死が今目の前。何かが笑いかける。


『そうっ、今君は一体となる。世界とニッポンとイカになるのだ。称えろっ、生まれよっ、そうして考えを放棄し同化を目指せ、待ちゆく未来は希望一色のサーカスさ』


『波打ちの音が君を包み、家の兵器が音を鳴らし、電波が空を埋め尽くし、人がどんどん死んでいく。破壊と再生の狭間に生き、空をみるは美しや。空が地面となったとき、地球が丸でないとしり、本が破れる音がする。地面が溶けて色が無くなり、全てが黒く濁ったとき、それは光を伴うのか。パソコンと一体化した人類は、はたして夢をみれるのか。空をみなくなった人類は、はたして飛ぶことを望むのか。愛を信じられなくなった人類は、はたして破滅を選ぶのか。全ては全てはエアコンによって定められ破壊を知る』


『ゲームとなった世界こそ、希望にみちたリアルである』


『破壊を愛せば愛すほど、人は人を愛せるか』


『花瓶を食べる少年は、はたして良識を読めるのか』


『まあ、せいぜい、ドラマでも楽しんでね、ファンガール』


『生かすも殺すもどちらも変わらぬ。あるのはただの終幕じゃ』


『人は、踏切である』


『思考しない人間は人間とな?』


『赤と青は黄色になり、黒と紫は虹色となり、空と天は黒になる』


『瞼を閉じて息を吐く、そして景色は移りゆく。先に見据えた自分が霧散して、これが大人ということを思い知る』


『ぱぷりかあ!』


『苦し紛れの言い訳を、苦し紛れの言い訳と断ずるのは罪?』


『ああああああああああああああああああ』


『自分の無知をアイデンティティにしてしまうと、自分が無知である事を忘れてしまう』


『開けろ、開けろ。空けろ、亜けロ。阿家露?』


『コンビニ建て並ぶ高層マンション、住むのは果たして人間か』


『ノックノックノックノックノックノックノックノックノック』


『無能がある意味「自己責任」であるのは、社会が無能であるのを罰しようと躍起になっているからだ。そして人は優劣が存在する限り、必ずただの人間に「無能」というレッテルを貼る』


 脳裏に響く織田信長。聞こえてうるさい迷信の数。竹藪に潜む私の投身。光る画面を食べる寄生獣。いや、嫌々。いやいあいや。これは幻覚いや汚染。『親書』、『申告』『新兵衛』いあ、『侵食』。世界が虹色になっていき、視界が歪み体が消える。雷帝が云う。

 空高き門をくぐり、屍を喰らい、そして塩を盛れ。万物を触り、時間を刻み、そしてスイカを齧る。雪を触り、雨を飲み、空気を破壊する。夏を感じ、空を見上げ、青を抜く。桜吹雪、邪魔、毛根死滅――。

 ああ、ああ、いやだ。こんな空気、世界、均衡はいやだ。さっさと終わらせて、自由になりたい。なりたい。なりたい。なりたい。そして。



「……ドアをあけてしまいたい」



 帰りたい。

 逃げたい。

 話したい。

 愛されたい。

 歩きたい。

 寝たい。

 食べたい。


 死にたい。




 もういいよ。

 自由になろう。

 なってしまおう。


 こんな苦しみは、もうやめてしまおう。

 解放されよう。

 助かろう。

 なあ? 老剣士。


 時給、102円。




















 だめだ……!

 私は無意識にそう思い、最後の一歩で踏みとどまった。目の前にはあのドアがあって、その奥には人のものではない気配を漂わせていた。


 私は踏みとどまった。

 その強い潜在意識が、その強い『生きたい』という欲望が。狂った悪夢をかき消すほどの、力を有していたのだ。


 私はへたり込んだ。何か、嵐が過ぎ去ったような感覚で、頭が痛かったのだが、だんだんと痛みも引いて行った。いつになっても玄関を開けないからか、どうやらあの『ピエロ』は諦めたようで、ため息をついてからドアの前から去った。

 生き残った。私は、勝ったのだ。



 でも、もう私は。

 その場から動けなくなっていた。



 震えが止まらなくなって。

 足が使い物にならなくて。

 やっと嘔吐したと思ったら、出てきたのは血だった。






 全てが落ち着いた時、もう一度『説明書」をみると。

 『ピエロ』の項目が変わっていた。


 ・安全かつ実害のない返答『不明』 十四回出現。十三回失敗。一回生還。

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