ノックノックノック。
昼の十二時に鳴ったのは、きっとそんな音だったと思う。
私は寝不足で重くなった瞼を無理やり起こし、ソファからすぐにそのインターホンへと向かう。全身のダルさがそろそろ限界で、ぐっと起き上がる。最近記憶も曖昧なので、この仕事を受けたときに貰った『説明書』を胸に抱えていることが増えていて、それを捲りながらインターホンの応対をするようになった。
何故いままでこの『説明書』を使用していなかったのか。それは端的に必要がなかったからである。
この分厚い本には色んな『彼らへの応対』が記されており、それもほとんどのページをそれが占めている。
だが、別にそれ通りにする必要は全くなく、その場の対応はこちらが独自に判断してもよいと聞いていたので、たしてこの『説明書』を使用していこなかった。でも最近、自分の精神的余裕がなくなってきて、だから、この『説明書』を頼る事が増えてきた。
この『説明書』はとても使いやすく、クレーマーが来てからの一週間はこの本に助けられた。
ぶっつけ本番の私のアドリブだと悪い結果になった事でも、この『説明書』通りにやれば、まるで容易に実害を回避できた。
もっと早くこれを使っておけばよかったと、今では後悔しているが、ただし、別にこの『説明書』が完璧であるという事はないようで、『説明書』通りに言葉を発しても、『説明書』と違った展開になることも少なくはない。
まあ、って感じだ。で、私は、インターホンのボタンを押した。
どうやら今回はあの『クレーマー』ではないようだった。
「こんにちは、ご用件は、なんですか?」
『おお。こんにちは』
立っていたのは若い男性だった。
きっと、私と同じくらいの年齢であろう。それ以外は、特に特徴がない。気もする。
と、私は『説明書』を開き、準備を終えた。そして彼の、二言目を待機する。
『実は私この部屋の前の住人なんですが、きっとあなた、苦しんでいるかなと思いまして』
「…………」
私は無言でページを捲った。
ありがたい事に、色んなシチュエーションに合わせたページ分けがされているのでそれを頼り、この『前任者を自称する』について調べようとした。
「……ない」
どれだけ捲っても、そんな項目はなかった。
つまりこの手口は、『説明書』にも載っていない新手の手口であると予想される。
ここで一つ、『前任者』という存在を私は疑ってはいない。現にこの私が手にしている『説明書』という物の存在自体が、『前任者』がいたという確固たる証明になっているからだ。
しかし、もう騙されるような事はなかった。このインターホンに写っている時点で、どれだけ希望を持っていても、きっと『助け』であるはずがない。だから、この私の『前任者』を自称する彼は、間違いなく私を追い詰めようとする『彼ら』の一員である。信用してはならない。
「苦しんではいませんよ。ずっと元気、です」
『本当でしょうか? あのクレーマーとかに悩まされていたりは?』
「クレーマーにはそろそろ慣れてきましたとも。騒音を訴える騒音ですからね」
『ほ、本当にですか? 安心してください。私は『彼ら』ではありません。あなたがこの仕事を受けたように、私も同じ手順を終えて同じ仕事をしたのです。給料がいいから、働かなくてもいいから、家から出なくてもいいから。きっとあなたもそういう理由でこの仕事を始めたのでしょう?』
「そうですね。ですが、何にも困っていませんよ。ほら、元気そうでしょ? 受け答えも元気元気」
『……ですが』
『彼ら』は学習する。それは、この数週間この仕事をしてきた気が付いた事だ。
回数を重ねて経験し、『彼ら』も趣向を凝らしてくる。どんどんこの仕事は難しくなっているのだ。『彼ら』のその学習能力は、とても厄介な特性。
どんな事をしてでも、私に、『ドアを開けさせたい』のだろう。
「お気遣い感謝します」
とだけ私は告げた。
胸の奥底にある『解放されたい』『楽になりたい』という本音を『疑心暗鬼』で抑えつけて。
目の前の男性の必死な顔を断固否定して、全てを信じないように自分を言い聞かせて、何も聞かないと自分を落ち着かせて。
……私はいつの間にか、『説明書』を強く握っていた。表紙に跡が付くくらいに、強く握っていた。
彼は静かに去った。
今日も仕事を終えた。これで私の胸のしこりは取れる。思いっきり寝られる。そう、眠れるのだ。
「…………」
すべてが、
ゆめならよかったのに