ノックノックノック。
夜の九時に鳴ったのは、きっとそんな音だったと思う。
私は浴びていたシャワーをすぐに中断し、タオルを巻いて廊下へ飛び出した。そして濡れた足でその廊下を歩いて、リビングにあるインターホンに向けて歩き出した瞬間。
『いるんでしょう? お姉さん』
私の真後ろにあるドアから、小さな女の子の声がした。
久方ぶりに聞くあの温室の悪いインターホンではなく、確かな肉声で聞いた声に、私は確かに怯えて肩を震わした。でもそれに惑わされず、リビングの入口にある扉の取っ手を握ろうと手を伸ばした。
『まってください。お願いします』
とても幼く、弱弱しい声で、涙声で女の子は懇願してみせる。私は、何故かその声をきいて、とんでもないくらいの罪悪感が、肩にどっと伸し掛かった気がした。
『お姉さんに言いたいことがあるんです。あの日、あの時』
受け答えをしてはならない。そんな直感が囁いてくる。でも思考が、どんどんと、その女の子の記憶を思い出してくる。
『あたしが河川敷で泣いていた時、お姉さんが言ってくれたではありませんか』
そう、あれは数年前、河川敷での事だった。私がまだこの仕事を請け負っていなく、外に自由に出られたあの時、私は河川敷で泣いていた少女に、
『飴ちゃんをくれて』
飴ちゃんをあげて。頭を撫でてあげた。
「……」
口を開いてはならない。
インターホン越しでない今、『彼ら』だと思う人間と話すと、それは『侵食』の始まりであると知っていた。まだ、まだ私は冷静だ。確かに『彼ら』に恐怖病を見透かされたけど、それでも、まだ大丈夫。
『お姉さん、顔を見せてほしいの。あの時のお礼を言いたくて』
「…………」
『お花を持ってきた。飴ちゃんももってきたの。ケーキも、あるの』
「………………」
『お姉さんのお名前を聞かせて、そして、その名前をチョコプレートに書くの。そして一緒に、食べましょう。ケーキ。チョコケーキを』
「……………………」
『お姉さん……?』
何も返してはならない。
でも、心に広がる罪悪感が、ますます暴れ出す。
私はまだ理性では冷静だった。でも、感情では、既に、悪魔に付け込まれたかのように、少女の言葉に反応してあげたくなっていた。いいや、だめだ。やってはいけない。これは、これは……!
私は強く、心の中で叫んで、一歩踏み出した。リビングへの扉を開き、息を吐いて、そしてインターホンまで進んで、言葉を失った。
玄関先に立っていたのは、太った男だった。
「…………」
『お姉さん』
そして思った。
河川敷? って、なんのことかしら。
「……ッ」
記憶がなくなった。
あの過去の出来事が、ついさっきまで鮮明に覚えていて、鮮明に再現できたあの記憶が、ぽつりと忘却された。霧散するように、写真が静かに燃えるように、消えた。消え失せた、そして、河川敷なんてうちの近所に無かった事を思い出す。
「……」
『あら、気が付いたのかしら』
太った男は、無表情であった。でも、聞こえてくる声色はなぜか嬉しそうで、私の耳元を舐めるような不快感が背筋を走って、そして、男は口をぱくぱくとさせながら。
『もし。お忘れになってえ?』
刹那、男の顔が恐怖を醸しだすように歪んだ。
私はついに、それを黙ってみていて、そして次の瞬間。
家の電気が一、二度点滅してから、消えた。
暗闇の中で、その男が私の背後に立っているのを気配で察した。
「…………」
『酷いではありませんの』
声が、背後に、聞こえる。
そして、男の太く、大きく、臭い腕が、私の肩の上に乗せられて、呼吸の音が背後で聞こえて、腕が私の胸に触れたとき。
『ノック、したではありませんか』
戦慄。恐怖。震撼。全ての言葉の意味を骨の髄で理解した。
男の大きな腕を、私の胸まで回したかと思いきや、それは咄嗟に私の首を締めあげてきて、ついに私は身動きが取れなくなって、
『……ドアを、開けて下さる?』
苦しみが視界を覆い尽くし、意識が朦朧としてくる。足が浮いているような浮遊感と、背筋に張り付いた悪寒をやけに覚えていて、頭の中は既にぐちゃぐちゃだった。
何もかも整理ができなくて、慌てふためいていて、でも何としても、この状況から逃げ出したくて、でも捕まえられていて、苦しくて、辛くて、どうすればいいか分からなくなって。ついには、ドアを開ける。と言ってしまえば、楽になるのではと脳裏に浮かんできて、ついに、ついに、口を開きかけた瞬間に。
私ははっと、強い自意識を取り戻して、云った。
「……私はこの後、用事があるので、そろそろ失礼しますね」
言ってから、やっと息を吸う事ができた。
はあはあと呼吸を繰り返して、全身がとにかく汗だくになっているのを服の張り付き具合で何となく理解した。照明はついていて、首も絞められてなくて、後ろには誰も立っていなかった。でも、首を絞められたかのような余韻と、張り付いたような悪寒がまだ続いていて、私は少しの間、地面にへたり込んでいた。
やっとの思いでインターホンをみたとき、玄関先にはもう、誰もいなかった。