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第8話 直人の同心円

 醤油ダレとごま油の匂いがする厨房を後にし、僕は家路についた。

 時刻は午後九時半。バイトのシフトを終え、ラーメンの匂いがついた髪を手櫛で整えながら夜道を歩く。

 今日は昼から立ちっぱなしだったので足が疲れて痛い。しかし、学費を稼がないことには大学にもいられないので、これも必要なことだ。

 僕は奨学金と学費免除を受けているが、家賃や日々の生活費にはとても足りない。そして、もうすぐクリスマスがやってくる。加那へのプレゼントは少々値が張ったので、必然、家計が圧迫されているのだ。

 信号待ちでスマートフォンを見ると、加那からメッセージが届いていた。

『バイト終わった?』

 僕が不審者に声を掛けられて以降、加那は過保護気味だ。僕としても不安なところではある。相手の正体や目的がわからない上、探られている内容がベテルギウスの増光現象の写真なのだから。僕が忘れた、忘れるはずがないほどの大事件。灰山さんや村上先輩とも話すが、進展はない。

 宙ぶらりんで収まりが悪い。何かが人類規模で起こっているし、気付いている人もいる。それがわかっていながら、僕ができることは大学の課題をこなして、ラーメンを作ってレジを打つことくらいなのだから、無力感たるや甚だしい。

 世界の大きさと自分の小ささを感じるとき、僕は無性に焦る。無意味にじたばたしたくなる。大学ですれ違う人のほとんどは、これから誰にも知られない人生を必死に生きて、自分の居場所を守っていくのだろう。夢を見て、世界に打って出ようと思った入学時の気持ちは、今となっては僕の心をざわつかせる。変わり映えしない、ただの大学生に収まっている自分に、ほんの少し、情けなさが付きまとう。

 そんなとき思い浮かべるのは、村上先輩の部屋だった。外界の情報が入らず、静かで、焦燥感がなだめられる。

 先輩の部屋に行こうかと頭によぎったが、加那が心配するといけないので真っすぐ帰ることにした。僕と加那の仲は進み、先月の終わりから一緒に暮らし始めた。

 少し古いが、広いマンションだ。二人で暮らしても全然窮屈ではない。家賃の方も、一人当たりの負担は一人暮らしのときより減っている。引っ越し代と敷金礼金で僕の懐は軽くなったが、加那は結構余裕そうだった。

 少し気がかりなこともある。同棲するにあたって加那の両親に挨拶させてほしいと言うと、加那から断固拒否されたのだ。なんと大学生にして勘当されているらしい。

 まあ、ナイフを持ち歩くような子なので、小さい頃にもいろいろとあったのだろうと想像はできる。加那は派手な服をあまり着ないが、実は倹約も兼ねて衣類代はケチっていると言っていた。

 加那は学業の傍ら、知り合いの伝手で農園を手伝っているらしい。様々なものを作っていて、時折人手が足りなくなって呼ばれるのだとか。月一くらいの頻度で一週間ほど忙しそうにしている時期がある。

 住宅街の道に入り、足を止めた。スマートフォンの星座図アプリを起動して空を見上げる。ベテルギウス。オリオン座の一角を為すその星は簡単に見つかった。

「なんだったんだろうな、結局」

「なんだったんだろうね」

 背後から言葉が返ってきて、ギョッとして振り向いた。そこにはウールのコートを着てマフラーに顔をうずめるようにした男が、上目使いで夜空を見上げていた。

「あれ、あの……ペテン師みたいな名前の星ね」

「ベテルギウス」

「そうそう、それ。君、よく噛まないで言えるな」

「はあ」

 相手の意図が読めなくて困惑してしまう。

「それじゃあ、僕はこれで」

「待て待て、君に用があって来たんだから」

「僕は無いです」

 足を動かすと、その男はついてきた。

「俺にはあるんだよ」

 溜息が出る。このまま家までついてこられたら面倒だ。ここで撒くか、お引き取り頂きたい。

 またぞろ、ツイッターの画面でも突き付けられるのだろうか。そんなもの、イエス、と言うだけなのだが。

 僕が足を止めたのを見て、その男は満足そうに笑みを深めた。

「そういえば、まずは確認だ。君、陰山直人君だよね」

「違います」

「こら、平然と嘘をつくな」

 わかっているなら聞くなよ。

「どちら様ですか」

「俺のことは黒草と呼んでくれ」

「名前を呼び合う間柄になるつもりはないのですが」

「棘があるなあ、最近の若者は」

「あんたが不審だからですよ」

 僕が悪いみたいに言わないでほしい。

 黒草と名乗った男は可笑しそうに笑い、スマートフォンを操作した。

「このアカウント、君だろ?」

 予想通りの展開で、僕はうんざりした気持ちで画面を見る。そこに表示されたアイコンはたしかに僕のアカウントのものだった。

「イエス」

「どうして英語なんだ」

 表示されているのは、加那と付き合う一週間前に見つけた、カタログ外の天体の写真だった。撮影した時刻、方角も付記している。懐かしいものを持ち出されたものだ。

「それがどうしたんですか」

「英語でもいいけどさ」

「そっちじゃなくて、そのアカウントが僕ならどうなんですかって意味ですよ」

「あ、そっちね」

 この人、ふざけているのか。どうして僕がフォローしなくちゃいけないんだ。

「どうって、俺の調べが間違っていなかったことになる」

「何を調べていたんですか」

「さあねえ。冗談でも挑発でもなく、俺もよく知らない」

「はあ?」

「俺は探偵だ。依頼主に頼まれて君を探していた。そして、その依頼主が君を招いている。俺は君を迎えに来たんだ。今から一緒に来てくれ。君も、自分がなぜ調べられているのか気になるだろう」

 一緒にその理由を聞きに行こうじゃないか、と黒草は笑った。

 余裕のある笑みを見ていると、この状況はもう充分に作られたものだと感じる。会話の主導権は握られているし、僕についての情報も揃っていることが窺える。逃げられないというわけだ。ここで逃げても追いかけられる。

 だが、撃退や抵抗することはできる。ポケットの中のスマートフォンに触れた。駆け出して、家にいるであろう加那を呼んで、二人で捕える。加那を危険に近づけることに思う点が無いわけでもないが、そういう気遣いを嫌う子だ。

「宮本加那は来ないよ」

 思考が白くなった。加那のことまで調べている。それよりも、加那に何をした。

「だって彼女は今、雇用主に呼ばれて、家にはいないから」

「どういう意味ですか」

「俺、あの子の同僚だから。世間は案外狭いよね」

 加那の同僚だと。探偵が?

「あれ、知らなかった? なら丁度いい。それも一緒に教えてあげるよ」

 来な。

 僕は奥歯を噛みしめながら、ついて行くしかなかった。


     ◇


 黒草の車は、僕の家のすぐそばのコインパーキングに停まっていた。やはり、僕のことは調べられている。

「そうでもない。君の彼女のおかげでほとんど調べられなかった。今も、君に手を出したらあの子が烈火のごとく怒り狂って俺を殺しにくるだろうからね」

 車は北へ進んでいく。繁華街はとっくに背後の彼方だ。

「まあ、代わりに君を味方に巻き込もうというのが、依頼主の考えだと思う。味方なら、調査しなくても堂々と素性を聞けるからね。とはいえ、俺が知る限り、調査対象を招くなんて今までにないことだ」

「依頼主のことを部外者に話すのは、探偵としていかがなものですか」

「君はもう部外者じゃないよ」

 黒草の余裕は崩れない。

「でも、君の言う通り饒舌が過ぎたかな。いやあ、俺も楽しみなんだよ。依頼主が何を考えているのか、ずっと不思議だったんだ。聞いても小出しにされるばかりでね。今夜その全貌が暴かれるらしいから、子供みたいに胸が躍っているんだよ」

 知ったことか。

 黒草の興奮はどうでもいいが、わかっていることもある。この男はベテルギウスの増光現象を覚えていた。僕は完全に記憶にないが、この男はそうでもなさそうだ。名前だってわかっていなかったのに。

 覚えていられる人間は苦も無く覚えていられて、僕はあっさり忘れた。この差は何だろう。

 車はどんどん山に入っていく。走り始めて三十分は経った。車を持っていない僕には、この辺りの道路について土地勘が無く、どこに向かっているのか見当もつかない。スマートフォンをいじって暇を潰すふりをして、地図アプリに現在地をチェックしていった。

 普通、こういう状況であれば通信端末は取り上げるものだと思うのだが、黒草にそんな様子はない。受け入れられているというのか、放っておかれている。まさか本当に何かの仲間にするつもりなのか。

 不意に、道が下り坂に入った。谷に向かって降りていく。窓の上のアシストグリップを掴んでいないとシートからずり落ちそうな傾斜を進んだ先に、突然巨大な門が現れた。

「何ですか、あれ」

「目的地。依頼主が住んでいる屋敷だ」

 周囲の山とは不釣り合いに、洋風の塀と、その上の柵で囲まれた豪邸だった。門といっても和風の門ではなく、凱旋門のような石造りのアーチに両開きのドアがついている。

「馬鹿じゃないですか。どんなお金の使い方ですか」

「お金が余って仕方ないんだろうな」

 黒草の車が門の前で停まり、インターホンを押しに降りていった。この門だって、二トントラックがすれ違えるくらいに大きい。左右にのびる塀で中は見えないが、その塀だって四メートルを超えている。その上にはさらに金属製の柵まで付いているのだから、外から来る者を拒絶しているように思える。

 黒草が戻って来た。門が音を立てて開く。

「バブル期の道楽ですか」

「そうなんじゃねえの。今でもとんでもない金持ちなのはたしかだけどな」

 黒草は勝手知ったる様子で車を中に進めていく。塀の内側は真っ平に整地されていて、中央に大きな建物があった。洒落たオフィスと言われても納得できる、一階の壁の半分がガラス張りになっている直方体型ビルだった。塀の反対側は夜の闇もあって見えないが、とにかくかなり広いことは間違いない。屋敷の他にもいくつかの建物が点在していた。

「昔は、ここに会社のビルもあったらしい。今はその会社も街中に移転したが、土地だけはオーナーの手に残ったってわけだ」

「はあん」

「気の無い返事だな」

「僕みたいな貧乏学生には縁が無い話だと思っただけですよ」

「ちょっと分けて欲しいよな」

「土地を貰っても困るので、現金がいいです」

「こんな豪邸を貰っても管理に困るもんな」

 平たい道を黒草の乗用車が走っていく。だだっ広いわりに、やけに整地が行き届いている。会社が移転したのは最近なのだろうか。

 到着した屋敷は地上二階建てで、その一階部分には大きなディスプレイとホワイトボードが三枚も並んでいる部屋が見えた。何やら写真や紙が貼ってあり、テレビドラマで観る刑事ものの捜査本部を連想させる。

「さて、行くぞ」

 車が一台も停まっていない駐車スペースに停め、僕たちは屋敷へ踏み入った。振り向くと、門が思ったより遠い。走って行ったらそれだけでバテそうな距離だ。

「陰山君、落ち着いているな」

「こんな所まで連れて来られたら逃げられませんし、逆に腹が決まりました」

「大したもんだ」

 お世辞でなく、黒草が本当に感心したように言うので気持ちの持って行き場に困った。仲良くなりたくないが、徐々に打ち解けてしまっている。相手の正体も目的もわかっていないのに、なし崩し的に引き入れられるのはごめんだ。玄関ホールに入ると、階段の前に初老の痩せた男性が姿勢よく立っていた。眼鏡を掛け、にこやかにこっちを見ている。

「嶋田さん、こちらが陰山直人君です」

「いらっしゃいませ。社長はすぐに来ますので、こちらへどうぞ」

 いくつかのドアを抜けて案内された場所は、外から見えたガラス張りの部屋だった。ホワイトボードに書かれていることを読もうと思ったが、それより早く、もう一人の男性が現れた。

「ようこそ、陰山君。武光圭だ。黒草もご苦労だったな」

「お安い御用です」

 武光と名乗った男性は、黒地にレモンイエローの線が入った洒落たトレーニングウェアを着ていた。タオルで汗を拭いている。筋肉質な体がウェア越しにでもわかるが、実年齢は若くないように見える。おそらく、六十歳くらいか。真っ白の短い髪が少し濡れている。

 僕と黒草は二人掛けのソファを勧められ、武光は向かいに座った。嶋田は立ったまま。

「急に来てもらって済まない。一応、バイトが終わった後を見計らったつもりなんだがね」

 言葉遣いは丁寧で表情も穏やかなのに、武光の声に衝撃波でも乗っているように、僕の腹が震えた。迫力が違う。黒草の余裕ある態度とも、加那が時折見せる凄みとも違う。一番似ているのは村上先輩だけど、あの人の声はこんなに真っすぐ向かってこない。

 海千山千。人生の厚みが自信となって岩石のような重みを出している。

 伊達にこんな屋敷を所有しているわけではないってことか。

「いえ。黒草さんも紳士的でしたし、不満はありませんよ」

 真っ赤な嘘だが、虚勢でも張っておかないとあっという間に圧倒されそうだった。

「夜も遅い。世間話よりも、我々のことを話そう。私はいわゆる大富豪だ。いくつも会社を経営し、利益を上げてきた。今は経営からは引退しているが、資産は見ての通り。我々はこの資金を使って、少し、いや、かなり大きなことを実行しようとしている。人類の進歩と独立のため、必要なことだ」

「独立?」

 思わず話に割って入ってしまった。武光は気を悪くした素振りもなく、鷹揚に頷く。

「その通り。独立だ。陰山君は、遣いの存在を知っているかな」

「何の遣いですか」

 神は遣いを地上に派遣する、と言っていた村上先輩の顔が浮かんだ。奇妙な符合が気持ち悪い。

「ううむ、何の、と改めて言われると、一言では難しいな。だがあえて一言で言うなら、宇宙人だ」

 耳を疑った。

「宇宙人の遣い?」

 声が上ずってしまった。それを見て武光は満足そうに続ける。

「ほとんど誰にも語って来なかった我々の仮説であり、現在進行形で証拠が集まっていることだ。この世界、つまり地球上には、既に宇宙人の遣いが紛れ込んでいて、我々人類を管理している」

 武光の声が、少しずつ大きくなっているのがわかった。これほどの人が興奮している。それだけの、大きな発表。

「地球人の技術発展を妨げ、宇宙進出を陰から咎めている存在だ」

「技術発展を咎める?」

 黒草が身を乗り出した。

「いかにも。彼らがいる限り、地球人はその檻から抜け出すことができない。陰山君、君もSNSに投稿していたベテルギウスの爆発的な増光現象、あれは不思議ではなかったか」

 これには即答できなかった。覚えていないが、実在した事象。代わりにカマをかけてみる。

「武光さんと仰いましたね。あの事象の記憶が人々から消えていっていることを、あなたもご存知なのですか」

「当然知っている。なぜならそれこそが、我々が探している遣いの特性だからだ。彼らは人々の記憶を操作できる。記憶に干渉できるだけじゃない。物理的に、我々人類とは比較にならないことができる。電子データを消去したり、紙に書かれた情報すらも書き換えたりできる。ベテルギウスの増光現象それ自体、何かの理由で遣いが引き起こしたことだ。その事実を隠蔽するために、今も地球人の記憶からゆっくりと消し去っている。今はなんとか思い出せるが、あと半年もすれば、誰一人覚えていない、思い出せない出来事となるだろう」

 地球人の記憶を操作する。そんなことができれば、今まで消えていったものが他にもあるかもしれない。例えば、画期的な宇宙船のアイデアなんかも。

 宇宙の既得権益を守るために、地球人を地球から出さないように、重要な研究開発をなかったことにしているというのか。

「遣いを出し抜き、白日の下に晒す。地球の未来は我々地球人のもので、外部にとやかく操作されるのは不当だ」

「待ってください。その遣いというものが存在する前提で話が進んでいますが、それはあなた方の想像でしょう。宇宙人は見つかっていない。これは学界の常識です。存在する根拠はあるんですか」

 増光現象を僕が忘れて、今も思い出せないことはたしかに意味がわからない。増光のメカニズムもわからない。だがそれを、人智を超えたもののせいにしてしまっては、それ以上の進歩はない。

 ここは簡単に認められない。老人の戯言を真に受けて、何かの犯罪行為の片棒を担ぐのは御免だ。

 武光はにやりと笑って立ち上がった。

「よくぞ聞いてくれた。苦労して集めた調査結果をようやく発表できる」

 ホワイトボードの前に移動し、キャップが付いたままのペンでカツンと叩く。

「遣いの特性は大きく分けて二つある。記録消去と超常物理現象だ。記録は、人の記憶も含む。便宜的に超常と呼ぶが、正確には地球人の科学レベルから見て超常という意味だ。奴らからすれば、単なる物理現象にすぎない」

 武光がペンで叩いた場所には、記録消去と書かれている。

「超常物理現象の記録は集めるのが難しいので一旦置いておき、まずは記録消去について話そう。実は私の祖父の代から調査は始まっており、記録消去は日常的に使用されていることがわかっている」

「どうしてそんなに使用する必要があるのですか」

 普通に生きていて、他人の記憶を消したいことなんてほとんどない。

「正確な理由は遣いに聞いてみないとわからないが推測はできる。記録消去は一度使うと、連鎖的に他のものを消す必要がある。たとえば、コカ・コーラバナナフレーバーの存在記録を消去したとしよう」

「そんなものがあるのですか」

「無い。例えだ。コカ・コーラは知名度が大きすぎる」

 あまりに有名なものの記録は消せないということを、仄めかしているようにも聞こえる。

 武光は続ける。

「人々からコカ・コーラバナナの記憶を消すだけでは不十分だ。工場には在庫が山ほどある。従業員の無意識に働きかけ、処分させ、伝票を改ざんし、工場を別の目的で稼働させる。ここまでやって初めて生産元の記録は消える。さらには、既に世に出回った製品を消費者に処分させ、レシートを捨てさせ、別のものを買った記憶に差し替えて消去完了だ。このように、一つの記録を消すことは、何段階もかけて達成される。時間もかかる。だから、遣いは記録消去のための能力を日常的に使用することになる」

 言い分は理解できる。どれだけ強力な洗脳をできても、一つのものの痕跡を世界から完全に違和感なく消す行程がシンプルであるはずがない。

「また、記録消去は伝播速度がある。世界中に一瞬で広がるようなものではない。遣いの近くにあるもの、近くにいる人間ほど、その影響を早く受ける」

 さらに、と武光の声に熱がこもる。

「記録消去の影響を受けやすい媒体と、そうでない媒体がある。具体的には、電子データは簡単に書き換わり、手書きの情報はゆっくりと変化する」

 嫌な予感がした。これは老人の妄想ではないのではないか。武光の声は整っている。そして、まるで見てきたかのような自信が漲っている。

「整理すると、最も近くの電子データが書き換わり、次いで、遠くの電子データへ変化が伝播する。やや遅れて近くの手書き情報、つまり紙の書籍に影響が出始め、地球の裏側に広がっていく。とまあ、これは後付けの性質というか、調査しているうちに見つけた性質なのだがな。嶋田、伝播の円を映してくれ」

「承知しました」

 嶋田が部屋を出て、ノートパソコンを持って戻って来た。ディスプレイに繋いで操作し始める。

「記録消去は多段階に渡るため、一瞬では終わらないというのが、当初我々が立てた仮説だった。ならば、記録消去の過渡期を見つければ、逆探知して遣いの居場所を特定できるかもしれない。目をつけたのは電子書籍だ。紙の書籍と同じ情報を扱う、別の媒体。紙と比較し、内容が異なっていれば、遣いによる記録消去の結果である可能性が高い。我々は、書籍を全国から自動で購入し、捲り、撮影する機械とシステムを作った。同時に、電子書籍と内容を比較するAIも開発した。目視でこの量は無理だが、コンピュータならば可能だ。こうして、記録消去の過渡期を探し、全国に影響が伝播していく様子を自動検出できるようにした」

 ディスプレイに明かりが点いた。嶋田が表示したものは、日本地図上に描かれた同心円だった。

「これが、遣いの記録消去が広がっていく様子を可視化した図だ」

「待ってください。書籍には誤植や、増刷時の修正もあるはずです。電子版との差異だって全くないわけじゃありません。そういった解析のミスが見えているだけではないですか」

 実験には失敗や誤差がつきものだ。自分にとって有利になるよう解釈すれば、簡単に間違った結論へ辿り着いてしまう。上手くいった実験結果だけを抽出すれば、さも大発見をしたかのような結果が得られることだってある。他にも、機器の癖、人間の目の曖昧さ、回路が生む微小なノイズなど、誤った結論へ導く要因は無数にある。

 物理学実験の講義がこんな形で役立つとは。

「なるほど。まあ、そうした要因を排除するための努力もしたが、逐一説明するよりも拡大した方が早い。嶋田、中心を拡大してくれ」

「承知しました」

 嶋田が慣れた手つきで同心円の中央を拡大していく。県の形が見えてもなお、どんどん拡大する。

「おい、マジかよ」

 隣の黒草が口に手を当てて目を見開いていた。その気持ちは痛いほどわかった。

「円の中心は、陰山君、君が住んでいる街だ。大学がある以外、取り立てて変わったところのない、普通の地方都市だね。改稿、修正、たしかに書籍にそうした変化はつきものだが、そのせいならば、なぜこの街が中心に来るというのだろうね。普通は東京だろう」

 声が出せなかった。

 遣いは、僕の近くにいる。

 常識が崩れ始める音が聞こえそうだった。

「武光さん」

 黒草が手を挙げた。

「遣いって奴がいるのかどうかはさておいて、陰山君を連れてきた理由は何ですか」

 まさか、と黒草は声を潜めた。

「彼がその、遣いなんですか」

 三人の目が、示し合わせたように僕に向いた。

「違います」

「わからない」

 ユニゾンした。武光がにっと、僕を安心させるように笑う。

「遣いの所在地はある程度特定できても、陰山君がそうとは限らない。あの街の人口は数十万人いるしな。一番重要な目的は遣いを特定することではなく、遣いがいることに確信を持つことだ。陰山君を連れてきてもらった理由は、そうだな、縁を感じたから、とでも言うかな」

「縁って、僕とあなたに?」

 僕はこのご老人に何の面識もないのだが。

「君が撮ったこの写真、カタログに該当する物がなかった天体」

 ディスプレイが切り替わり、僕のSNSアカウントになった。パソコンの画面を直接画像として保存したスクリーンショットが表示されている。

 それがどうしたというのだ。

「君はもう削除しているが、気づいた人間は気づいた。これは、私の祖父が生きていた頃の物体だ。遣いの存在に気付いた全ての始まり。遣いが存在する物証そのもの」

 僕は自分が撮った写真から目が離せなかった。露光時間を長くすることで、微小な光を捉えられるようになる。近い天体は、背景の星よりも視界中を早く横切るため、一つだけ大きな弧を描いて写真に写る。

「これは、何なんですか」

 僕は何を撮って、何を世界に発信してしまったんだ。

 武光はペンを放り出すように置き、僕が座っているソファの背もたれに手を着いた。

「黒草には話したな。祖父はこれをエディックと呼んでいた。だがそれは正式名称ではなくてね。本当の名前はスターフィッシュ・セカンダリー」

 低い声で、耳元で囁くように口にされた。

「核兵器実験、スターフィッシュ・プライムの忘れられた後継プロジェクトさ」

 僕の脳裏に、巨大な火球が空を埋め尽くすイメージが浮かんだ。

 写真を削除した記憶は、無い。


     ◇


「スターフィッシュ?」

 黒草が怪訝な声を出す一方、僕は鼓動が早くなっていた。

「核兵器実験です」

 灰山に聞いた知識が自然に口を衝いた。

「冷戦時代、ソ連とアメリカが核兵器実験を繰り返していました。そのうちの一つ、大気圏上層で核爆弾を使うと何が起こるのか調べた実験です。当時は地球磁気圏の理解も浅く、結果として地上に被害が出ました」

「地上に? そんなに大きな爆発だったのか」

 僕は首を振る。

「いえ、熱線や衝撃波は地上まで届きません。しかし、核爆発で副次的に強力な電磁波が生まれます。それは地上まで余裕で届き、金属中に電流を生むんです」

 黒草は腕を組んで聞いていたが、腕を解いて肩を竦めた。

「それでどんな不都合が起こるのかだけ教えてくれ」

「簡単に言うと、通信障害が発生したり、変電設備が壊れたり、電子機器が軒並み死んだりします。つまり、都市機能が麻痺する。冷戦の時代だったから有名でない事件で済んでいますが、今なら被害は比べ物にならないでしょう。もちろん、爆弾を強化すればするほど被害は増します」

 頭痛がする。スマートフォンや企業が管理するサーバー、そして情報ネットワークに送電システム、これらが一気に破損すれば、歴史に残る人災となりえる。まだそれほど研究が進んでいなかった時代とはいえ、あまりにも迂闊な実験だ。

「その通りだ、陰山君。さすが物理学科の学生といったところかな」

 小さく拍手しながら、武光は向かいの椅子に戻った。

「たまたま知っていただけです」

「素晴らしい。それこそ縁だ」

 ぐっと言葉に詰まった。縁という言葉が気味悪く聞こえてきた。僕がスターフィッシュ計画を知っていたことは偶然。遣いが身近にいる可能性が高いことも偶然。そして武光の言葉を信じるならば、スターフィッシュ・セカンダリーを撮影したことも偶然。

 偶然が重なれば、それは運命になる。

「まあ、俺に理屈はよくわかりませんが、とんでもない事態になることはわかりました。でも、何十年も前に打ち上げたロケットなんでしょう。とっくに、遥か遠くに飛んでいったんじゃないんですか」

「いえ、ロケットに積まれた燃料はそれほど多くなかったはずです。地球大気の上層まで運ぶのが目的だったなら、せいぜい低軌道止まりかと。武光さんのおじいさんの話によると、打ち上げた後、地球の重力に捕えられたまま地球の周りを周回していると思います」

 黒草は首を捻ったが、武光が鷹揚に頷いたので首を戻した。

「そういうことだと思っておきます」

「ただ、急激な加速でもしない限りは地上から捕捉できるはずなんですよね。素人の僕が撮影できるくらいですから、そこまで遠くに行ったわけではない。当時のアメリカにだって見失うとは思えません」

 惑星探査機を見失う事態は、宇宙開発の歴史上よくあることだ。だがそれは、望遠鏡で見えないほど遠いから起こる。地上から見える程度の距離で見失うのはおかしい。

 武光はホワイトボードにロケットの絵と、それを押す手のひらを描いた。

「おそらく、遣いは物理的に介入した。スターフィッシュ・セカンダリーを載せたロケットを押し出したんだ」

「宇宙にあるものをですか」

「超新星爆発を模倣できるような奴だ。それくらいできてもおかしくあるまい」

 どんどん僕の常識が通用しなくなっていく。

「君の言う通りなのさ。予想を超える急激な加速をして地上局の追尾を振り切らないと、ロケットを見失いはしない。ならば、それをやったのだろう。加速させられたロケットは軌道が大きく逸れ、宇宙に向かって飛んで行く。ある程度離れれば、地上から見えなくなる。完全にロストだ」

「でも、僕は見えましたよ」

 僕は普通の衛星のように撮影できた。地球から遠ざかった天体とは感じていない。

「我々の仮説を含むが、説明はつく。スターフィッシュ・セカンダリーはおそらく地球の近くを掠める楕円軌道だ。離れても、地球の重力に引っ張られて、ゆっくりと減速し、やがて戻ってくる」

 僕の脳内には、地球の周りを、円を描いてくるくる回るロケットの絵が浮かんでいる。その円を潰して長細くしていくと楕円形だ。

 万有引力の法則に従って天体の軌道を描けば、楕円軌道になることが多い。

「陰山君、静止衛星を軌道投入するために要する時間を知っているか」

「いえ、知りません」

「約三か月だ」

「長いですね」

「それだけ宇宙での軌道制御は難しい。だがこれは、同時に遣いの性質について大きな手掛かりとなる。彼らは長期間にわたって、継続的に力を使えない可能性が高い。

 スターフィッシュ・セカンダリーを地球から一時的に遠ざけたものの、それを完全に隠蔽することはできなかったんだ。理想的には、地球から完全に押し出して、太陽にでも突っ込ませればよかった。それをしていない、というより、できなかったに違いない。できるならやらない理由がないし、現に陰山君に見つかっている」

 武光は立ち上がり、僕が撮影した写真を指さした。

「こうして物証が残った。人類にとって逆転のカードだ」

 遣いの物証。それがあればたしかに歴史的な発見を報告できるかもしれないが、どこまでこの男を信じるべきなのか、そんな話はあり得ないと笑い飛ばすべきなのか、僕は悩み続けていた。武光の話は仮説と傍証の連続で、確固たる証拠は無い。電子書籍と印刷物の差異だって、後から確認することはできない。リアルタイムで、自動的に、機械的に数字にしただけのデータだ。

 武光の仮説によれば、記録消去される前に何が書いてあったのか、それを知ることは既にできなくなっている。

 僕が悩む間にも話は進んでいく。

「俺に調べさせていた人間は、遣いの候補だったんですか」

 黒草が尋ねた。武光は僕たちの向かいのソファに戻って腰掛ける。

「それもある。遣いの、記録消去の痕跡を探すうちに浮かび上がった人間を片っ端から調べた。また、陰山君のようにスターフィッシュ・セカンダリーに近づいている人間も調査対象とした。ほとんどが杞憂だったがね」

 言い方に引っ掛かりを覚えた。

「杞憂ではないケースもあったということですか」

 僕が言い終わると同時に、武光の目が鋭くなった。明らかに空気が変わる。

「口が滑ったかな。だが、君に協力者となってもらう以上、隠し事はしたくない。いずれ言わねばならないことでもある」

 そこで武光は鼻から息を吐いてゆったりとソファに身を沈めた。

「警察や軍関係者、その他知られたくない人物だった場合、殺した」

 この家は静かだった。暖房機器の駆動音が小さく聞こえるばかりで、誰も口を開かない。左右に目を遣ると、誰も戸惑っていなかった。黒草の横目が瞬間、向けられた。

 黒草も嶋田も知っている。この場で知らなかったのは僕だけだ。僕が騒がないように、孤立無援にするために、ここに招いたのか。

「スターフィッシュ・セカンダリーは、それほどまで、人を殺してまで守るべき秘密なのですか」

 話はまだ終わっていない。僕が聞いていない情報がある。

「先ほど、遣いを白日の下に晒すと言いましたね。一体どうやって。それに、加那のこともまだ聞いていません。黒草さんと同僚だと聞きましたが、それってどういうことですか」

 武光はそこで大きく呼吸した。心なしか顔が綻んでいる。

「我々の計画を話そう。ここまではただの前提条件だ」

 いやあ、長かった、と武光はぼやいて笑う。暗殺を命じたことまで告白した人間とは思えない落ち着きぶり。

「今年のクリスマス、我々はスターフィッシュ・セカンダリーを改めて、今度こそ起爆させる。遣いの存在を、世界中に否応なく知らしめるんだ。遣いに一泡吹かせてやる。いつまでも人類が掌の上で転がされていると思うなと、教えてやるんだよ」

 武光の目にぎらついた光が生まれ、この人が億万長者である理由が分かった気がした。軽く唇を舐める舌がやけに赤い。

 思わず椅子の背もたれに強く体を押し付けた。

 この人は、やると決めたら迷いなくやる。

 これは狂気だ。

 クリスマスまで、あと一週間しかない。

「ちょっと待ってください。さっき言いましたよね。地球の大気圏上層で核爆発を起こせば大変なことになるって」

 僕は徐々に武光の計画の全貌に迫っていた。禄でもないことになる予感と共に。

「大変なことにするんだよ。大都市の上空で起爆する。そうすれば、世界各国は原因究明に乗り出す。多大な被害も出るから、遣いの記録消去は間に合わない。奴らは実際に出た被害を無かったことにできるわけではないからだ。遣いが存在することがわかれば、遣いは身を潜めるだろう。その間に、邪魔がなくなった人類の技術は次のステージに進む。遣いが姿を現したならば、捕まえられる。どちらにせよ奴らは詰む。今までと同じように歴史の陰で人類を都合よく調整することはできない」

 武光のトーンが下がった。

「そのために邪魔になりそうな者、スターフィッシュ・セカンダリーの秘密に近づいた者は、殺してきた」

 武光の目は猛禽のように尖っている。

「君の彼女、宮本加那にさせていた」

「加那に?」

「彼女は我々が雇っている殺し屋だ」

 高い天井を見上げた。シンプルな照明だけが清潔な天井に張り付いていた。シャンデリアでもあるかと思っていたので、拍子抜けで少し心が軽くなる。

「それは、大して意外でもありませんでしたね」

 ここに来て初めて、予想通りの話が聞けた。

「黒草さんに拉致されたときから想像できていました」

「人聞きが悪いな」

「事実でしょう。力づくじゃなかっただけで、家の前まで張られていたらついていかざるを得ませんよ」

 黒草はなおも不満そうだが、気に掛ける義理はない。僕はどちらかと言わなくても被害者だ。

 今、加害者にされようとしているが。

「明らかに堅気じゃない人から同僚だなんて言われたら、まあ、裏稼業の可能性くらいは考えます」

「それは問題だな。一般人に見えないと仕事に支障が出る」

 黒草が武光の計画を聞いたときよりも深刻そうな顔をした。この人、事の重大さがわかっていないのではないか。

「私からは普通の人間に見えるのだが、若者にはそう見えないのかもしれないな」

「俺も歳を取りましたかね。感覚が現代についていかないんですよ」

「あの」

 話が逸れ始めたので、僕は堪りかねて声を出した。

 肝心の、本当に大事なことをまだ聞いていない。

「どうして僕をここに呼んだのですか。先ほど縁だなんだと仰いましたが、そもそも僕を仲間に引き入れようとする理由を聞いていません。僕に何をさせるつもりですか」

「ああ、すまない。ついつい、研究発表の方に熱くなって忘れていた」

 忘れていたのか。僕の中で「仲間にならない」側に天秤が大きく傾く。

「君には目撃者になってほしい。どんな偉業も、見届け、後世に語り継ぐ人物が必要だ。現代では、物語やエピソードがネットの海で生まれては消えていく。だが、それが真実かどうかわからない。ただの作り話や、民衆を煽る愉快犯の可能性もある。君には、一般人の目線から真実を目撃し、遺す役割を負ってもらいたい。天に浮かぶ火球を撮影し、その後始まる混乱と、遣いについて各国が明らかにする事実、そして我々が目指した思想を伝えてくれ」

「それは……」

 誰でもいいのではないか、と口を衝きかけて止めた。僕である理由はもう聞いている。縁だと言った。彼らの虎の子、スターフィッシュ・セカンダリーを目撃してしまった者。僕を殺すか、スターフィッシュ・セカンダリーの存在が明るみになるリスクを無視するか、共犯にするか。彼らは三択を迫られた。

 計画実行まであと少しという時期に現れた邪魔者を、武光は意図された目撃者というポジションに嵌め込んだ。

 そして何より、僕の近くには加那がいる。

「君に渡すものがある。嶋田、チケットを」

「承知しました」

 嶋田が差し出したものは、二枚のチケットだった。十二月二十五日、羽田を発つ夜の国際便。

「宮本加那と共にそれで飛べ。到着したら空港から出ず、撮影の準備をしろ。空港からでも、スターフィッシュ・セカンダリーの火球やその後のオーロラは見える計算だ。デジタルカメラは使うなよ。電磁パルスで電子機器が壊れる前提で準備するのだ」

 歯噛みした。僕が断れないことをわかっている。

「実行犯ではなくとも、こんな、人が沢山死ぬような事態に協力しろと言うのですか」

 もしも武光が言うことが本当で、遣いはいて、スターフィッシュ・セカンダリーは地球を周回していて、低軌道で核爆発が起きたなら、尋常でなく悪い未来は想像できる。

 僕は信じるのか。武光の推測と並べられた傍証を。それとも、あり得ないと笑って放置するのか。

 僕が何を考えても、彼らは自らの調査結果を信じ、実行するだろう。僕は決めなければならない。何を信じ、何を行うのか。

 疑うのは簡単だ。物証が無い、常識的にあり得ない、嘘をついているかもしれない。だが、それを信じて実行する人間の前に、疑義など何の力もない。

「そうだ。協力しろと言っている。そうでなくとも、これを知った君は、もう無関係者ぶって眺めていられないだろうね」

 君はもう当事者になった。

 武光に睨まれ、僕は言い返せなかった。ここに来た時点で、こうなることは決まっていた。武光は僕の同意を得るつもりなどなく、自分が引いた既定路線にただ、僕を乗せただけだ。

 いつの間にか決まっているもの。国家や資本主義のように、どうしようもない大きなものが、僕を掴んでいた。

「嶋田、陰山君の案内と見送りを」

「承知しました。陰山様、こちらへ」

 僕は武光を睨んだが、彼は社交辞令の笑みを浮かべて僕を見送った。座す巨岩がこちらを向いているようで、動かせる気はしなかった。

 嶋田に黙ってついていくと、玄関ホールに加那がいた。

「迎えに来たよ。帰ろう」

「どうやって」

 ここから僕たちの家まではかなり距離がある。

「車を貰ったから。武光さんに」

「ああ、そう」

 玄関を出ると、白いツーボックスカーが停まっていた。汚れ一つない。

「仕事がひと段落ついたから、ボーナスだって。昼のうちにマンションの駐車場も契約したよ」

「そっか」

 ドアを開け、まだ何も置かれていない車内に乗り込んだ。

 加那は、慎重にエンジンをかけて、武光邸を後にした。

「バイトのこと、隠していてごめんね」

 車を入手したにしては表情が暗いのは、それを気にしていたからか。

 違うな。僕が暗いからだ。

「それはいいよ。多分、前から気づいていた」

「気づいていたの?」

「なんとなく、ね。知っていたような気がする」

「さすがだね」

「そんなんじゃないよ」

「私のこと、嫌いになった?」

 山道は曲がりくねっていて、スピードを出そうと思っても出せない。加那も慣れないハンドル捌きでコーナーを曲がっていく。

 あまり焦らして運転に支障が出ても可哀想なので、すぐに答えることにした。

「なっていないよ。でも、僕の大切な人は殺さないでくれ」

「うん。もちろん」

 今、僕は僕のために、人命に優先順位を付けた。きっと武光もそうなのだろう。嶋田も黒草も、そうやって自分の正義による犠牲を選別してきた。僕に彼らを責める資格は無い。全く無い。

「どうしてそんなに落ち込んでいるの」

 加那が言う。

 僕は、そうだな、と時間を稼ぎ、感情に名前を付けた。

「負けたから。僕はもう成人していて、大人のつもりだった。でも、格が違ったよ。武光さんは、全然違った」

 この世には不合理も不条理もたくさんあって、過去の人間たちの失敗や様々なしがらみが今の世界の歪みを生んできた。過去は変えられない、でも未来は違う。せめて僕の目の前くらいは、論理と倫理で、間違った道に進もうとする人間を止めて見せる。間違ったことを考える人間を、論破して動けなくさせてやる。

 そう考えていた数時間前までの自分を殴りたい。

 僕たちが相手にしているのは論理ではなく人なのだ。ここは学会でも、大学の講義室でもない。僕が否定したって武光さんは止まらない。不確実、不正確、様々な不確定要素やリスクを承知の上で、彼は自分の正義と道理を通そうとしている。

人を動かし、歴史を動かす。そこに確実な真実や未来予測、ましてや理屈や詭弁なんてお呼びじゃない。

 必要なのは、人と物を動かす力。それを実現させる財力と、カリスマ性。世の中に風穴を開けられるほどの、現実世界での実行力。僕の青臭い理想など、武光の強行の前に無力だった。

 思い知った。現実をわかっていなかった。僕には、強者を止める力はない。

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