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第7話 黒草と消えたロケット

 広い無機質な空間に、流線形が美しい飛行機が一機、静かに佇んでいた。普段乗る旅客機とは全く違う、小さく、塗装も最小限の軍用機。武光邸の地下にこんなものが格納されていたとは知らなかった。

 空対空の戦闘機にあたるのか、空対地の攻撃機にあたるのか、知識がなくてわからない。武光のことだ。偽物ではないだろう。どうやって入手したのか気になる。

「先日はどうも」

 広い空間の向こう、階段を降りて宮本加那が現れた。不愛想な顔で、ぶっきらぼうに歩いてくる。

「無事で何より」

 皮肉を飛ばすと、不愛想な顔から無表情に変わった。

「同士討ちにならなくてよかった。本心だぞ?」

 陰山直人の尾行を妨害した女の特徴を武光に伝えると、その正体はすぐにわかった。同業者も同業者、二人とも武光に雇われていたのだ。俺は探偵ときどき殺し屋として。宮本は殺し専門の業者として。武光が抱えている他のエージェントについては知らなかったし、その必要もないと思っていた。しかし、今回は運悪く宮本のプライベートとバッティングしてしまった。もしも俺が陰山直人の殺しを依頼されていたならば、俺と宮本は殺し合いを演じなければならなかっただろう。だが今回は調査だ。宮本の協力を得られればそれで済む。命を懸ける必要はない。

「武光さんから、陰山直人について調べている理由を聞いたか」

「聞いた」

「何だって言っていた」

「見てはいけないものを見てしまったから、だってさ」

「何だそれ」

「さあ、知らない。でも、彼の身の安全は保障してもらった。私が近くにいるかぎり、調査もしないって約束してくれた」

「そうかい」

 探偵の調査は、親しい人間からの証言が直接得られればそれが最も早い。恋人に証言してもらえたのだから、武光が知りたいことは知れたのだろう。自分が雇っている人間を近くに置いておけるのだから、これ以上ない監視とも言える。

 過程はともかく、結果的に俺の調査は成功したと言えなくもない。ただ、陰山が見てしまったもの。そっちがわからないままだ。武光に聞いたら教えてくれるだろうか。

「なんにせよ、今後よろしくな。間違っても殺さないでくれよ」

「この前はそっちが悪いんだからね。こそこそ尾行しているから」

 俺がおどけると、宮本の無表情も緩んだ。こんな稼業だからこそ、無用な敵はつくりたくない。何なら、協力体制になってもいい。

「若いのに殺し屋とは、事情があるのか」

 実のところ、俺は同業者と話したことがほとんどない。数が少ないのはもちろんだが、遭遇するときは大抵現場がバッティングして獲物を争うか、標的の護衛としてついているところを攻撃するときだからだ。つまりどっちも殺し合い。

 こうして平和に話せる機会は珍しい。俺以外の、今に至る経緯を聞いてみたかった。

 突っぱねられるかとも思ったが、あにはからんや、宮本は抵抗がないようだった。

「人を殺すのって、普通は抵抗があるらしいじゃん。でも、私は殺したかったの。初めて殺したのは中学二年生のとき。近所の高校生を殺した」

「楽しかったか」

「すっきりした」

 そこで宮本は口元を綻ばせた。小さな花が咲いたようで、年甲斐もなく心が動いた。男が標的なら、こんな微笑を浮かべながら近づかれたら大半が油断してしまう。便利な顔をしている。

「黒草さんだっけ。掃除は好き?」

 そう切り出して、宮本は語り出した。


 蚊が腕に止まったときの感覚。そう言えば伝わるかと思う。

 多分、匂いなの。殺すと殺さざるとを分けるもの。

 猫は殺せる? 犬は殺せる?

 最初はね、大きさかな、と思ったの。蚊は小さい。人は大きい。だから人を殺すことは皆嫌がるのかな、て。でも、すぐに違うって気づいた。すぐと言っても、一年くらいはその仮説を信じていたんだけど、とにかく、違った。だって熊や猪を猟銃で打つ人がいるでしょ。あの人に、じゃあ人間をどうぞ、って言ったら嫌がったの。

 だから、大きさではないみたい。次は、分類かなと思った。虫は無脊椎動物。魚は魚類。蛇や蛙は爬虫類。でも、人間は哺乳類だったの。猫や犬や、熊や猪と同じ、哺乳類。教科書を読んでも、彼らと私たちに大きな違いがあるようには思えなかった。知っている? 熊の骨格って、人間によく似ているの。子熊と人間の骨が並んでいたら、一瞬で見分けるのは難しいでしょうね。

 高校生になる頃には、その正体が私にもわかってきた。それが、匂い。虫には虫の匂いがある。犬には犬の。熊には熊の。魚にも、蛇にも、他の動物たちにも、特有の匂いがある。

人間の匂いはね、とても分かりにくいの。薄くて、自分と混ざって、そして憎らしいことになぜか全員違うことが分かってしまう。

 どうしてなの。他人の匂いなんて気にしたくないのに、どうしてあんなに僅かな違いに気づいてしまうんだろ。

 ごめん、話が逸れました。この話をするのは二度目なのに、一度目より下手な気がする。

 皆ね、匂いが嫌なの。蚊の匂いが嫌だし、魚の匂いが嫌だし、熊や猪の匂いが嫌。だから殺す。蚊を叩くのは、血が吸われるからでも、痒くなるからでもない。その匂いが人間の癇に障るからなの。

 人間と同じ匂いを発する蚊が生まれたら、その種は大繁栄すると思うよ。マラリアをばら撒きながら、阿鼻叫喚を招きながら、それでも人は彼らを殺せない。

 まあ、でも、そうね。戦争が起これば人は人を殺すようになるのだから、その気になれば、正気に戻ればという意味だけれど、人の匂いを振り撒く蚊だって殺せるでしょうね。

 正気と狂気の使い方が間違っているって?  残念なことに、それが間違いじゃないの。だって皆が狂っている。素敵な例外はいるけれど、大抵の人間が狂っている。

 だってそうでしょう。これだけ色んな種を殺して回っているくせに、自分達人間だけは特別扱いして、おかしいと思わない? かつては敵国の人間を食べたり、生贄にしたり、まだまともな意識が残っていた。それが今は、人間の命だけが地球上で特別であるかのように世界が回っている。自由と平等と生命の安全が、全員に与えられて然るべきものだと最初から思い込んでいる。この異常な常識に違和感を持つ人がどうしてこんなに少ないのか、私には理解できない。

 貧乏人もお金持ちも、頭と胴体が離れれば死ぬのにね。十分間息を止めれば死ぬのにね。

 例えば、自分の家のリビングを想像して。そこから十メートルベランダの方に歩いてみてよ。止まらない、止まらない、そのまま、そのまま。

 ほら、死なんてすぐそこにあるってわかるでしょ。

 駅のホーム、信号待ちの交差点、窓から見下ろす景色、死は三メートル先で口を広げて待っているの。気づいてみると楽しいでしょ。だから、命は大切にね。うっかりそっち側に行っては駄目。普通の人はすぐに忘れてしまうのだから。

 何の話をしていたんだっけ。そうそう、匂いの話だった。

 先月ね、バーで声を掛けられたの。

 おじさんに声を掛けられて、一緒にホテルに入った。あ、これ、直人君には秘密ね。私、嫌われたくないからさ。それで、体を重ねて、おじさんがシャワーを浴びている間に持っていた水に毒を盛ったの。だって、やった後は、もう、悪臭を振り撒くだけでしょう。悪臭源でしょう。生かしておくと精神衛生的に良くないの。

 死ぬのを見届けたわけではないから、もしかしたら生きているかもね。正直どっちでもいい。悪臭源を一つ断つために行動したことが重要だから。自己満足だから。想像してみてよ。人間が全然いなくなった世界を。世界で、そうね、百人くらいでいいかな。私と気の合う人たちだけが存在して、他は全員消えた世界。捌いて冷凍して、食料にしてあげてもいい。八十億人分の肉があれば、食料には困らないよね。野菜は育てるとする。

 いいなあ。素敵だなあ。うっとりしちゃうなあ。私と、彼と、彼の先輩もいていいかな。あなたはいらない。

 実現できないことはわかっているけど、実現しようと努力することは大切だよね。まずは日本からやってみようと思っているの。いずれは世界進出ね。

 今日? 今日は、そうだなあ、何人殺したと思う?


     ◇


「あの女、使って大丈夫ですか」

 互いに敵ではないと確認し、宮本は帰宅、俺はもう少し武光邸に残ることにした。ホワイトボードが三枚と、大きなディスプレイがある部屋で、嶋田は電話を掛けていて、武光はその様子を見ている。

「どういう意味だ」

「プロじゃないですよ。あれは趣味だ。依頼されたときだけ殺すのがプロってものです。いずれ証拠を残してお縄になりますよ」

「趣味が高じて仕事になり、成功した人間を私は大勢見てきたがな」

 そう言われてしまえば反論できない。普通の業種ならばそうだろうし、好きだから極めているプロフェッショナルは間違いなくいる。音楽家が趣味では演奏しないということもないだろう。

「今のところ問題はない。依頼した仕事を手際よく片付けている優秀な殺し屋だ。汎用性に欠けるのが玉に瑕だな。黒草ほど器用に調査はできない」

 そんな風に思われていたのか。部下も上司もいない自由業なので、仕事ぶりを褒められることはほとんどない。久しぶりに評価されて嬉しくなった。

 俺は思い切って聞いてみることにした。

「そろそろ教えてもらえませんかね。陰山直人は何を見たのか。あなたたちは何をしているのか」

 いつの間にか嶋田の電話は終わっていて、じっと俺を見ていた。武光は椅子に座り込み、時計を見上げた。年月日まで表示されているデジタル時計。

「まずは君の推測を聞こうか。ふふ、探偵には、推理と言った方がいいかな」

「やめてください。俺はそういうタイプの探偵ではありませんよ。というか、現実にはいないと知っているでしょう」

 現実の探偵は、謎深き殺人事件なんて担当しない。それは警察の仕事だ。実際は、浮気調査、身辺調査、ストーカーの撃退、人探しにペット探し。そうした平和で泥臭いことをする。

「最初から信じがたいことではありますが、先日伺った「遣い」というものの存在を前提として考えます。あなたは遣いを探している。おそらくは、それから得られる利益のために。陰山直人は、遣いの手がかりを目撃してしまった。あなたは遣いについての情報が流出しないよう、陰山直人について調べた。憶測に憶測を重ねるようですが、遣い探しにはライバルがいるのではありませんか。陰山とそのライバルに繋がりがあるのかどうか、あなたが気にしたのはそれだと考えました。今はある程度身元も知れ、宮本に監視させることでライバルへと情報が流出することが防げるようになった。とりあえず、こんなところでどうでしょうか」

 武光は面白がるように俺の話を聞く。手で椅子を促され、俺は自分が立ちっぱなしだったと気づいた。

「ライバルか。まあ、そういう言い方もできなくはない。では、肝心の陰山直人が目撃したものを、君はどう考える」

「陰山が目撃したことを、あなたが知る必要があります。となると、わかりやすいのはSNSでしょう。彼は天体観測が趣味です。夜空を撮っている間に、意図せず遣いの手掛かりを撮影し、インターネット上に流してしまった。例えば、極秘の航空機。遣いが乗ったプライベートジェットが写真に写り込んだ、とか」

 当てずっぽうだ。遣いが乗った航空機が割れているなら、そのまま保護か捕獲すればいい。それをしていないということは、直接遣いの居場所に関わる情報ではない。

「いい線を行っている」

 意外にも、武光の反応は良かった。愉快そうに笑みを浮かべている。

「黒草、君は縁を感じたことはあるか」

「縁というなら、俺がここにいることだって縁でしょう」

 話を戻してくれ、と言いたかったが、堪える。遠回りながらも、核心に近づいている感触はあった。

「その通り。出会ったのは安い居酒屋だったが、こうして、君は遣いについて肉迫することになった。さらに、遣いの影響を受けて何らかの記憶を消された。この時期に」

 今日は十二月十八日。時期が関係あるのか。

「嶋田、黒草にも祖父の話をしていいか」

「お望みのままに」

「それでは、君にも話すとしよう。私が遣いについて知ることになった、巡り合わせの話だ。私の祖父は、それをエディックと呼んでいた。まあ、その前に、いつまでも立っていないで座りたまえ。少々話は長くなる」


 私が物心つく頃から彼はエディックの話を繰り返したし、晩年は特に、会うたびに話していた。

 祖父はアメリカの官民を行き来した航空系のエンジニアで、兵器開発にも関わったことがある人だった。その彼が1963年に担当したのが、あるロケットエンジンの制御ソフト開発だった。彼は自分のプログラムにエディックとコードネームを付け、無事に納入した。だが、その成果を確認することはできなかった。打ち上げたロケットはトラブルが発生し、行方不明になったからだ。不具合の原因は不明。打ち上げ失敗後、プロジェクトチームは解散。拭ったようにデータと痕跡は消され、誰もその話題を口にすることはなくなった。

 彼曰く、皆が積極的に忘れようとしているようだった、とのことだ。話題には上げない。だが着実にプロジェクトの証拠とデータは消されていく。見ていて寒気がしたと言っていた。

 黒草、君はわかるだろう。自分の調査したことすらいつの間にか忘れている現象。その痕跡、報告書すら見つからない不可思議で徹底した証拠隠滅。遣いが関係者を操り、記録を消させたんだ。

 祖父だけが覚えている理由は定かではない。彼は独自に調査を始めた。自分の成果物が意味のわからない現象によって無かったことにされたのだし、何より、異常だったからだ。幼心にも呆れたよ。何十年も前の出来事をいつまでも調べる姿、オカルトにまで傾倒し、神や時間旅行者の仕業だと言い始める姿、あんな大人にはなりたくないと思ったものだ。

 私は父親の仕事の都合で日本へと移り住み、アメリカへは年に一回か二回帰る程度だった。そしてその度に、祖父はエディックの話を何度も何度もした。父さんはうんざりした顔をしていたし、私も聞き飽きていた。だが少なくとも、彼は最後までエディックに起きたことを調べ、毎度新しい仮説や調査結果を持ち出した。そのじりじりとした探求の進捗を聞くことが、辛うじて彼の話を耐えられた理由だったと思う。

 驚いたことに、同様の事象は世界のあちこちで確認されていて、調べている人間も少なからずいるのだ。彼らと情報交換し、最終的に、超文明から送り込まれた遣いであると結論づけて彼は亡くなった。

 私の母は日本人で、私も日本人女性と結婚した。そのときにファミリーネームを妻と同じ、武光へと変えた。ファーストネームも漢字を当てた。英語の名前は、日々の暮らしで何かと不便だったのだ。幸い、私たち一家はビジネスの才があったようで、お金に困ることはなかった。日本でアメリカ人が生きることは今ほど簡単ではなくて、財産の量はそのまま生活を守る力でもあったので努力もした。

 一旦財産が振り切れれば、お金というものは自然と増え始める。身を滅ぼすほどの使い方をする趣味もなく、私はビジネスの世界から少し距離を取った。言い方を変えれば、時間を作った。

 子供たちは皆巣立ち、世界のあちこちで活動している。私は日本の屋敷で人生を一息つき、考えた挙句父に連絡を取った。

「父さん、エディックの話を覚えているか」

 父はアメリカに戻り、老年を過ごしていた。今は私の息子と同じ家で暮らしている。私と違って金儲けが生き甲斐らしく、死ぬまで投資と回収で財を増やすつもりのようだ。

「忘れるわけがない。忘れていてほしかったが」

 電話の向こうで苦々しい顔をしているのが目に浮かぶ。祖父はとっくに亡くなったが、エディックへの異常な熱意は記憶に刻みつけられている。それを私よりも間近で、私よりも長く見てきた父には、聞きたくもない言葉かもしれない。

「晩年の楽しみにさ、調べてみようかと思うんだ」

「何が晩年だ。まだ六十歳にもなっていないくせに」

 八十歳を越えてなお現役のビジネスマンたろうとする父は非常に逞しい。だが、私は最期のときまで仕事をするつもりはなかった。

「なあ、父さん。私たちはもう充分社会に貢献したと思わないか。もちろん、父さんがそれを生き甲斐だと思うのなら止めないが、私は金稼ぎに飽きてしまった」

 三十年も続けた。欲しい物は買える。死ぬまで困らない。それどころか、使い切ることすら困難なほどの財産が私の手元にはある。

「もっとね、ロマンが欲しいと思うんだよ」

 この歳になって口にするロマンという言葉は、ティーンエイジャーの頃よりずっと力強く聞こえた。今の私には、夢物語を現実にできる力がある。

「何がロマンだ。お前は退屈しているだけだろう」

 さすがに親はよくわかっている。その通り、私はこの歳になって退屈し始めたのだ。金銭面の不安がなくなり、体も健康で精神力も充実している。文句をつけてくる者もおらず、子育てだって終わった。

 目標を失っている。打ち込むべき目標を。

「父さんは気にならないのか」

「考えるのも御免だ。やるならお前一人でやれ。私は忙しいわけではないが、自ら進んで無駄なことをするほど人生が残ってはいない」

「どうせまだまだ生きるつもりだろうに」

 鼻を鳴らす音が聞こえた。

 仕方ない。母さんのためにも、父さんの老い先短い時間をもらうのは諦めよう。夫婦でのんびりやればいい。

「お前は私と同じだ」

 不意に父さんの声の調子が変わった。

「自分の興味があることにしか打ち込みたくない。打ち込めないわけではなくな」

「そうかもね」

「私たちは何も遺せないんだ」

「遺す?」

「子や孫、そのさらに先の世代のために、何かを遺してやれる人種ではないんだ」

 私は記憶から、かつて開発し、売ってきた商品やサービスの数々を引っ張り出した。

「会社をやってきたよ。色々なものを作って、売った。それは、次の世代への糧にならないのか」

「そんなモチベーションでやったわけではあるまい。後付けだ」

 苦笑した。返す言葉もない。

「だからお前の周りには家族が残らなかったんだ。未来への献身や貢献というものを考えてみろ」

「父さんが今も引退しないのは、そういう理由なのか」

「そうだ。百年後のための支援をしている」

 電話の向こうで息が聞こえた。笑ったらしい。

「と言いたいところだが、結局本心は退屈しのぎさ。言っただろう。私たちは同じだと」

 屋敷の外には、広大な敷地だけが広がっている。社屋を移転してからは子供たちも去った。資産以外のものが残っていないと言われても仕方ない、空しい光景だった。

 これ以上エディックの話はできそうになかったので、祖父が遺した資料を送ってもらうよう頼み、あとは無難に健康を気遣って電話を切った。

 書斎を出て、廊下を歩いてキッチンへ向かう。一人分の足音が響く。妻は病死した。悲しみはあるが、古傷のようなものだ。痕だけしっかり見える。

 さて、エディックについて調べるためには手足が欲しい。父さんには断られたから、私以外に考え、事を動かすことができる者が必要だ。

 私は電話帳から嶋田の連絡先を探し出した。私がかつて、あるスタートアップ企業の社長をしていたときの片腕だった男だ。数年会っていないが、私に対して敬語を頑なに崩さない。気の置けない友人になれないことを残念に思っていたが、こうなるとむしろ好都合だ。義理で付き合うような無粋なことはしないでくれる。

「もしもし」

 聞こえてきた声は、記憶にある嶋田の声そのままだった。

「やあ、久しぶり」

「お久しぶりです、社長」

「社長はよせ。今はもうただの株主だ」

「そういう意味では、私も株主ですが。突然どうされましたか」

 あの頃と同じ、生真面目な口調。歳を重ねても、人には変わらない部分がある。良くも悪くも性格が変わっていく者が多い中、意固地ささえ感じる嶋田の声は安心する。

「嶋田、私とまた組まないか。ちょっと調べたいことがある」

「次は研究ですか? 私を研究職で雇うわけではありませんよね。私はただの総務屋ですよ」

 嶋田は、私がいくつか立ち上げた会社の経理、人事、法務その他総務全般を仕切ってきた。ただの、と自称しているが、知識と経験の広範さはそれほど平凡ではない。

「私の執事兼秘書兼助手ってところだ。嶋田以上の適任はいない。給与は奮発するぞ」

「何をするつもりですか」

 これから実行することは、一言で言えば何だろう。言葉を尽くせば様々な可能性を言い表すことができるが、折角話を聞いてくれた相手に不親切なことはしたくない。ここは一言、抽象的で象徴的な、それでいて興味を惹くものがいい。

「そうだな。この世界に紛れ込んでいる、神の遣いを探すんだ」

 電話の向こうから盛大な溜息が聞こえた。

「キリスト教徒がそんなことを言っていいのですか」

 私は小さく笑った。嶋田が断る気なら、一言目からそうとわかる。

「何ですか、神の遣いって」

 スカウトは成功した。


「その、エディック、ですか。それに起こったことが事実であるならば、非常に不思議ですね」

 ふざけて用意してみた執事服を、嶋田は華麗に着こなした。新米執事のはずだが、何年も着ているかのような風格がある。いかにもな格好なので嫌がるかと思ったが、案外本人も気に入っているようだった。

 持て余すほど大きなリビングにホワイトボードを三枚持ち込んで、作戦本部とした。

「祖母はリアルタイムで祖父の様子を見ていた。いわく、正気だったし、嘘もついていないそうだ」

「社長のおばあ様ですか。しかし、身内の贔屓目という可能性もあります」

「それを疑うなら、祖父の話も同じように疑わなければならなくなる。そうなると話の前提が崩れてしまう。最低限、祖父と祖母の証言は事実であると仮定しないか」

「社長がよければ、反対はしません」

 私は頷いて意思を示した。

 嶋田が言うことは尤もだが、まともでない現象を追うのだ。常識だけをあてにしていては始まらない。

「いいじゃないか、これは仕事じゃない。趣味みたいなものだ」

「社長はいつだってそんな感じでしたけどね。やってみればいいじゃないか、と何度聞いたことやら」

「苦労かけたな」

「そのうちのいくつかは大きく成功したのですから、問題はありません。それこそが社長に求められる素質です」

 照れ臭くなって頬を掻いた。思いついた事業は実行しないと気が済まなくて、いつも社長権限を振りかざして強引に社員を動かした。利益にならないこともあったし、上手くいく見込みが薄いことも多々あったが、これぞ、と思ったことは当ててきた。

 私が最も重要視しているのは、自分の直感だったりする。

「話を戻しましょう。社長のおじい様が立てた仮説とは、どういったものだったのですか」

「不思議なことは、記録が残らなかったことだ。エディックは機密といえど国家プロジェクトだ。どこにも記録が残らないはずがない」

「それが無かった?」

「ああ」

「安直に考えれば、ホワイトハウス並みの上から圧力がかかったと思います」

「ならば祖父にその圧力がかからなかったのは何故だ。機密は全員で守らなければ意味がない。祖父を例外にする理由がない。おそらく、圧力は無かった」

 もしもあれば祖父がそれを知らないはずがないし、同僚たちの間でまで隠す必要はない。

「あくまで祖父の主観だが、起きたことをまとめると、エディックは失敗し、ロケットは宇宙に消えていった。関係者は皆忘れた。証拠隠滅も行った。祖父だけは覚えていた」

 順にホワイトボードに書き込んでいく。

「聞けば聞くほど奇怪です」

「祖父が立てた仮説は、結論から言って人間には無理だから、人外の存在が関わっているというものだった。同じようなことを考えるオカルト屋は世界中にいるからな、彼らと話して、遣いという呼称を採用した」

 嶋田は顔をしかめた。

「最初に言っていた、神の遣いというやつはそれですか」

 私は頷いてホワイトボードに「遣い」と書き込む。

「それにしても、自然現象や人間の脳の知られざる機能という可能性だってあるでしょうに」

「まあな。祖父もあれこれ考えたらしいのだが、事がとても作為的で人間臭いのだそうだ」

 私はホワイトボードに書いた、エディックに起きたことをカツカツとペンのキャップで叩いた。

「自然現象ならば、こんなにも狙ったようなピンポイントで発生しないだろう。それに、人間がどれだけ頑張ったって、ロケットは宇宙の彼方に消えていかない」

「なぜですか」

「祖父の受け売りだが、それほどの燃料を積んでいなかったからだよ。燃料に余分は当然あっただろうが、それでも倍の距離を飛べるわけじゃない。どれだけ頑張っても、見失うはずがないそうだ」

 嶋田も私も経営を勉強してきた文系なので、ロケットについては疎い。祖父から伝え聞いたことがほとんど全ての知識だ。

「よくわかりませんが、計算上は、何者かがロケットを遠くに押し出しでもしないと見失わない、ということですか」

「そういうことだ」

「その、遣いとやらがやったと?」

 私は祖父から引き継いだ資料を嶋田に渡した。そこには、別の可能性を検討した結果も記載されている。

 別のミサイルに撃ち落された可能性。→当時の技術的に不可能。

 自爆した。またはさせられた。→自爆の信号は地上からコントロールする。使ったなら必ず周知される。あり得ない。

 打ち上げ自体が無かった。祖父が知らされていない、フェイクの作戦だった。→動いていた金額から、その可能性は非常に低い。また、その意味がない。

 爆弾に上手く火が入らなかった。→その場合、爆破予定時刻を過ぎてもロケットの信号を受信できるはずだが、実際は爆破時刻前に途絶えている。

 軌道制御に失敗し、海に沈んだ。→計器の情報は、高度が順調に上がっていったことを示しており、追尾している間も計器から送られてくる情報と矛盾はなかった。海に落下した可能性は低い。

「なるほど、一通り現実的な仮説は検証しているわけですね。その上で、遣いの存在を仮定するに至ったと」

「結構理性的に考えているだろう」

「遣いについての考察は、やや行き過ぎている感がありますが」

「ついでに、祖父は遣いの探し方も考えてくれたぞ。記憶を消したり、記録を消したりする作用を遣いは持っているが、その発現には個人差や時間差がある。そうした事象をかき集めて分析すれば、遣いの大まかな位置までわかるだろうと」

「大がかりな仕掛けが必要になりますね」

 嶋田は眼鏡に触れ、ホワイトボードに図を描き始めた。口元は呆れたように笑っている。

「差し当ってこんなところですか」

 嶋田が描いたものは、遣いを見つけるシステムの概要図だった。情報を集め、解析する。細部は異なるが、俺が思い描いていたものとほとんど同じだった。

「人手が必要です。信用できる人手が」

嶋田の事務能力は折り紙付きだが、彼自身がシステムを作ったりハッキングしたりはできない。まず行うべきことは、有能なエンジニアチームを結成することだった。

「面白くなってきましたね。定年退職して、家に居ついて妻に鬱陶しがられるよりも百倍面白い」

 嶋田を選んで正解だった。こいつは仕事大好きな人間で、何より、人がやっていない領域に専門外の位置から足を突っ込むのが好きだった。

「またよろしくな」

 青春、という言葉が頭に浮かんだが、あまりに気恥ずかしくて口にできなかった。


 武光は語り終え、嶋田はその間に淹れた紅茶を配って回った。

「こうして、私と嶋田は遣い探しを始めた」

 出来過ぎた偶然、とは思わなかった。武光の祖父が遣いの影響を目撃し、記憶に残せたこと、それを調べ、後世に伝えたこと。武光本人に財力があり、引き継いだこと。そして今、俺を介して遣いの近くまで迫ったこと。

 一つ一つの出来事は小さな可能性だ。だが、人の出会いや現状は、それまでの小さな可能性の積み重ねで導かれるように決まる。つまり巡り合わせ、縁だ。

「遣いは、ロケットの行方をくらますことができるほど、我々に干渉できるのですか」

「そうなのだろうよ。エディックを搭載したロケットが消えたということは、燃料の限界を超えて地球から押し出したとしか考えられない。それほどの力を持った存在なんだ」

 自分の記憶が消されなければ、失笑して終わらせただろう。そういう意味でも、俺は秘密を明かすことができる貴重な調査員だというわけか。

「動機がわかりませんね」

 武光の眉が動いた。

「ロケットを行方不明にした。俺が調査した報告書と記憶が消えた。遣いは何をしたいのでしょう」

「その二つは別の理由だと我々は考えているが、そうだな、それが重要で肝心な部分だ」

 武光の目が光った。悪戯を思いついたように目が細められる。

「もう一人、いや二人か。宮本加那と陰山直人にもこの話をしよう。これも何かの縁だ。陰山直人には最後のピースになってもらう」




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