県道沿い、車通りも少ない道にコンビニが見えて、俺たちは飲み物を買うために寄ることにした。おばさんがスカスカの駐車場に車を停めている最中、コンビニの中が見えてぎょっとする。
「おばさん、何か変だよ」
「ん?」
俺は店内を指さした。レジに女の店員さんと、それに向かって男がカウンターに身を乗り出している。大きく口を開けて何かを言っている。俺は目がいいので、男の表情まで見えた。明らかにトラブルだった。
「本当だ。何か揉めているね」
おばさんは財布をポケットに入れ、コートを自然な様子で着て車を出た。あまりに自然なので、一瞬前に見たもの、言ったことを忘れたのかと疑った。俺も慌てて追いかけるが、正直、店に入りたくない。
俺の心情なんて知ってか知らずか、何気ない足取りでおばさんはコンビニに入っていく。数歩遅れて、俺が自動ドアの前でワンテンポ止まったとき、店内の光景に言葉を失った。
店内にいたのは五人。店員の男女が一人ずつ。見慣れた制服を着て、両手を上げている。そして店員でない、サングラスにニット帽を身につけた男たちが二人。二人目はさっき、駐車場から角度的に見えなかった位置にいた。さらに、その男たちが店員に突き付けていたのは、黒光りする拳銃だった。たしか、オートマチックと呼ばれるタイプ。最後の一人がおばさん。「おやおや」なんてぼやいて、少し入った場所で棒立ちになっている。
俺たちが現れたことで喚いていた男も静かになり、店内放送の音さえ聞こえた。
拳銃、威圧的な態度、隠した顔。
「強盗?」
俺の声が酷く間抜けに響き、時間の流れを思い出したかのように店内が動き出した。
「逃げてください」
店員の、肌が日本人離れして浅黒い男が小さく叫んだ。若いし、外国人留学生かもしれない。
「止まれ、逃げるな」
拳銃を持った男の一人がこちらに銃口を向けた。失敗した。銃を見た時点で身を隠すべきだった。でもコンビニの出入り口付近って大部分がガラス張りだから、やっぱり下手に逃げなくて正解だったかも。
銃口が振られたことで、担任の先生よりも年上そうな女の店員さんは「ひっ」と身を竦めてカウンターの奥に身を引いた。
「動くんじゃねえ」
その動きに反応して、もう一人の強盗が拳銃をカウンター内に向ける。店員さんの金切り声の悲鳴が聞こえてきた。
連鎖的に騒ぎが大きくなっていく様子は、クラスの喧騒を沈めようと先生が声を出すと、その声に負けじと皆が大声で会話して、より騒がしくなるあの現象に似ていた。軽く神経が苛立つ。耳を塞ぎたい。
俺の気持ちは冷めていた。日本で拳銃なんて簡単には手に入らない。コンビニ強盗するほどお金に困っている人が手に入れられるとは思えなかった。その労力を労働に回せば安全にお金を稼げる。それこそコンビニでバイトでもすればいい。コストが見合わない。
つまり、あの銃はハッタリだ。
とはいえ、放置するわけにもいかない。拳銃の入手は困難でも、包丁は簡単に買える。いざというときの為に本物の武器を用意している可能性は充分あるし、何より俺たちがこのまま帰ったら、店員さんたちがあまりに可哀想だ。せめて警察くらいは呼んであげよう。
俺がおばさんに連れられてプラネタリウムを観ていたとき、何を思っていたか。
感動に涙したわけでも、宇宙の広さに呆然と心奪われたわけでもない。ひたすら考えていた。光年という距離についてとか、俺が死ぬまで真っすぐ飛んだら辿り着けるかとか、太陽系の外を目指して飛び続ける孤独な探査機についてとか、そういうことを。
非日常に出会ったとき、人は考える。心拍数の上昇は、脳に酸素を運んで頭を冴えさせるためだとおばさんが言っていた。
考えた結果、俺は携帯電話を持っていないため、通報することもできないことに気付いた。車も運転できないから、こんな見知らぬ場所ではどこにも行けない。
結論、俺にできることは特に無い。
「おいガキ、店の中に入れ」
こちらに拳銃を向けた男が言った。よく見ると、俺は自動ドアのセンサーの真下にいて、店内と店外のちょうど中間にいたのだった。嫌だなあ。近づきたくない。
渋っていると、男が舌打ちした。俺は目の前の光景が不思議になって首を傾げる。
「早く来い、クソガキ」
声を荒らげる強盗の男のすぐそばで、北野のおばさんが肩をぐるぐる回していた。これから何かしますよ、と全身が訴えている。なのに、強盗も店員も、全然反応しない。まるで、おばさんが透明人間になったように。
おばさんは挨拶でもするように俺に手を振ると、俺に向けられていた銃を上から押さえ、空いている手を強盗の後頭部に回した。両手をそのまま引き、投げ飛ばすように頭部を床に叩きつける。
硬い音が響き、足元が揺れたように錯覚した。床と顔面に挟まれたサングラスの破片が飛び散り、俺の足元にまで転がる。銃には特に恐怖を感じなかったが、割れたサングラスには鳥肌が立った。
もう一人の強盗と店員さんたちはおばさんの存在を急に思い出したようで、店内は再びパニックに陥った。最早誰が何語を口にしているかもわからない有様の中、おばさんがゆらりともう一人の強盗に手を伸ばす。その手とすれ違うように伸ばされた強盗の手には拳銃があり、爆発音が狭い店内に響いた。
その瞬間の光景を、俺は写真のように目に収めていた。抱き着くように両手を伸ばすおばさん、上半身を引いて仰け反りながら引き金を握りしめたサングラスとニット帽の男。その奥で慄く店員の男女。本物の銃だったのかと驚く自分の感情すらも止まって感じた。
そして肝心の弾丸は、おばさんの鼻先3センチで静止していた。おばさんが前に出ると、同じだけ弾丸も押し返される。空中で弾丸が奇妙に移動しながら、おばさんは強盗の側頭部に手を添え、床に叩きつけた。
「大樹少年、怪我はないかい」
あるわけがない。放たれた弾丸は、今、ようやく落下した。
「何したの」
おばさんは答えなかった。
「店員さん、縛る物、ありますか。ガムテープでもいいんですが」
外国人の店員さんはガクガクと頷いて店の奥に駆け込んでいき、すぐに茶色の養生テープを持ってきた。
「とにかくぐるぐる巻きにしましょう。動けないように。大樹少年、手伝ってくれ」
「あ、うん」
それから言われるがまま、気絶している強盗の拘束を手伝った。足を持ち上げたり、テープで指を包んで使えなくしたりということをだ。
「今日の晩御飯、サバの味噌煮にしようか」
「今する話じゃ、絶対ない」
「そうね」
普段通りに笑うおばさんに対し、俺は笑えている自信がない。
「じゃあ、私らは帰るので、あとは警察を呼んでください」
おばさんが笑顔で会釈し、俺たちはコンビニを後にした。お礼の一つも言われなかったことには気づいていたし、店員がおばさんに向けている視線の種類もわかっていたけど、俺は何も言えなかった。
「おばさん、さっきの何」
「私が怖い?」
俺は頷いた。店員も強盗も俺も、同じ気持ちだったんじゃないかと思う。
「知らないものは怖いよ。だから、教えてほしい」
「そうだね」
時刻は夜が近づいて、まばらなすれ違う車のヘッドライトが点き始めた。
「君がもう少し大きくなったら言うつもりだった。私は人間じゃない。簡単に言うと、宇宙人によって造られた生命体だ」
俺は考える。妥当性を、先ほど見た光景との整合性を。
「地球人からしたら、神様みたいに桁外れの存在が宇宙にはいてね。大昔に、地球に送り込まれたんだよ。そういうのが、地球上に何体かいる。私はその内の一体なんだ」
考えろ。相手の言うことに向き合って。それが敬意だと、俺は教わっただろう。
「そういえば、飲み物を買おうとしたんだったね」
服の下の鳥肌と震える膝を隠すのが、俺にできる精一杯だった。
◇
神の遣いと、北野のおばさんは自称した。
「正式名称はあるけど、地球の言語にふさわしい訳の言葉がまだないんだよね。私たちはある程度記憶や感覚を共有していて、とりあえず「遣い」と名乗ることで合意したの」
コンビニ強盗を撃退した後、おばさんはそれだけ説明した。俺にしてはかなりしつこくそれ以上の説明をせがんだが、おばさんは微笑んで首を振るだけだった。
「大樹少年が、まずはこのことを落ち着いて考えられるようになったら続きを話そう」
それから三日間、俺は遣いについて繰り返し考えた。おばさんは宇宙人だと言っていた。正確には、宇宙人に造られた生命体だと。言葉通りに考えると、宇宙人は物凄いテクノロジーを持っていることになる。
さらに、俺はおばさんが銃弾を空中で止める場面も目撃している。銃弾が潰れることも回転することもなく、空中でピタリと静止していた。軽く調べてみたが、拳銃弾の初速は音速を超えることもあるという。それが止まった。
そんな化け物じみた存在が何人もいて、おばさんのように地球人に紛れて生活しているという。
何のために。
三日もすると、おばさんが時間を空けた意味がわかった。あのまま質問攻めにしていても、要領を得た問いをぶつけられなかっただろう。実際、その後食べたサバの味噌煮の味だって忘れている。
時間が空けば、自分なりの仮説が浮かび、それを自己検証することもできる。最初は侵略目的かと思ったが、それならばわざわざコンビニ強盗に介入し、正体を明かす必要はない。駐車場から警察に電話し、あとは野次馬を決め込んでいればよかったし、放置して逃げてもよかった。店の外からだって、中がただならぬ雰囲気であることくらいはわかっていたはずだ。何よりおばさんから侵略なんて気配を感じたことがない。
危なかった。思いつくままおばさんに食って掛かり、無駄に険悪なやり取りをするところだった。
他にも、地球を救いにきた救世主説や、宇宙人の先遣調査隊説など、思いつく限りの仮説を立ててみた。決定的な仮説は浮かばなかったが、少なくとも落ち着いてあれこれ質問できると思えた。
だから俺は、説明の続きをせがんだ。
今日の晩御飯はアジフライ。
「そうだね。大樹少年も落ち着いたみたいだし、私についての話をしよう」
地球のSF小説的に言えば銀河連盟とでも呼ぶべき、知的生命体の連合組織が宇宙にはある。約二十万年前、私の母星は地球に監視員を送り込むことを決定した。銀河の覇権を巡った戦争が終結してから約百万年後のことだった。
戦争に伴って、周辺の知的生命体が住む星は侵略され、搾取された。文化や技術形態も強制的に塗り替えられてしまった。
その歴史を恥じ、現在は、新しく発見した知的生命体には接触しないのが通例となっている。だが、未知のものを知りたい気持ち、つまり好奇心は、高度な技術を持つ生命体と切っても切り離せない。彼らは調査という名目で私たちを造り、地球に送り込んだ。実際、地球でいずれ発展するであろう文明が宇宙侵略を企てるかどうか、監視する名目もあった。
だから最初は、私たちは原人たちと同じ姿をして世界中に散っていた。今でいうヨーロッパやアジア、大西洋の離島なんかで暮らしていたんだよ。
そして約十万年前、とうとう運命の種であるホモ・サピエンスが誕生する。大樹少年や、今の人類全ての祖先だ。彼らは凄まじかった。身体能力は低いが、コミュニティーのサイズや道具の発展速度は他の人類と一線を画していた。他の人類が駆逐されるまで、あっという間だったよ。原人たちの血はホモ・サピエンスに取り込まれ、混ざり合い、そして薄まっていった。
世界各地にいた遣いたちは、早々に悟った。この種が星を支配することを。どの星でも辿って来た道のりなんだ。多種多様な種がひしめき合っている世界に、一つの飛びぬけた知性が出現すると、他の種を蹂躙し始める。地球では、それがホモ・サピエンスだったんだ。
私たちは姿を変え、ホモ・サピエンスとして監視を継続した。私たちが見たり聞いたりした情報は母星でモニターできる。彼らはほぼ全員が肉体を捨てて人格をデータに写し込んだ存在だけれど、その長い生の娯楽にされているんだ。
目的が娯楽でも監視でも、私たちがすることは変わらないけどね。
全てを覚えているわけではないけど、私は人類の進化をだいたい見てきた。その過程で、命の危険に遭ったことも一度や二度じゃない。戦争に徴兵されたこともある。
そういうときのため、私たちの体は非常に治りやすく造られている。さらに、身を守るための機能も肉体に仕込まれている。銃弾を防げたのも、それを使ったからだ。最大出力で使えば、とんでもない魔法でも使ったように見えると思う。発達した科学は魔法と区別ができない、という有名な言葉があるよね。まさにあれ。
そしてもう一つ、私たちは記録消去をすることができる。自分の正体がバレそうになったとき、地球の生物、非生物全てからその記憶と記録を消し去る機能だ。生物の記憶から消し、生物の脳を操作して無意識に該当の情報を抹消させる。具体的な原理は知らないけれど、一応、地球上ほぼ全ての生物に、後遺症なく使えるらしい。
こうして、何十万年も地上で監視することができたってわけ。
「俺の記憶も消すの?」
目的は監視だったのか。ならば、おばさんから侵略の気配が無くて当たり前だった。傍観こそが任務なのだから。
その任務を継続するためには、目撃者から記憶を奪い、存在を隠さなければならない。そして俺はおばさんの正体を知ってしまった。
「消さないよ。少年一人が知ったところで、監視任務には痛くも痒くもない」
「いいの?」
「これくらいはね。大樹少年が言いふらすなら別だけど」
「そんなことしないよ」
頭がおかしくなったと思われるのは御免だ。良くて、子供の戯言だと冷笑されるだけだろう。俺は学校ではそこそこクールなキャラクターを通している。ギャグでも、宇宙人が監視員を地球に送り込んでいるなどという発言は痛々しすぎる。
「私は長いこと日本で、いろいろな人と暮らしてきた。中には、私の正体を教えた人もいたよ。その中の一人、大樹少年の曽祖父が、子々孫々、私をずっと見ていることに決めたんだ。一人で悠久の時間を生きるのは寂しいだろうからってね」
「俺の先祖」
「そう。だから、少年のお母さんも、そういう意味でずっと私の傍にいてくれた。旧友と言ったけど、君のお母さんが赤ん坊のときから私は知っているよ。長い付き合いだし、離婚してシングルマザーになったと聞いて、私も手を貸すことにした。気づいたかな。私はずっと外見年齢が変わっていないことに」
「わかんないよ。大人の歳なんて」
「そりゃそうか」
おばさんは柔らかく笑い、アジフライに箸を入れた。俺は豪快にかぶりつく。
俺の先祖が、遣いの傍にい続けることを決めた。俺は保護者になられたわけだから、自動的にその役を引き継ぐ形になっている。
幸い、悪い気はしなかった。
「黙っていて、ごめんね」
「いや、突然言われても絶対信じられなかった。いいタイミングだったと思うよ」
もう五年遅ければ、家族に嘘をついていたのか、と憤ったかもしれない。でも、俺たちは家族になっていく過程にいて、俺はまだ子供だ。おばさんなりに、話すタイミングを窺っていたのだと思う。
「俺にこのことを話すために、コンビニ強盗を止めたの?」
「うん? どういう意味?」
「銃弾を止めるシーンを見たから、俺はすんなり、と言っても何日かかかったけど、おばさんがその遣いってやつだと言われて納得したんだよ。そういう常識外のできごとを見せるのが、わざわざコンビニ強盗に割って入るリスクを負った理由じゃないの?」
少しの間、おばさんは黙って目を瞬いた。俺はずっと、コンビニ強盗なんかにおばさんが関わった理由を考えていた。俺に正体を信じさせるためだとしたら、腑に落ちる。
しかし、おばさんは顎を指で擦り悩んでしまった。俺が言ったことがわかっていないようで箸を置いて唸り始める。
「違うの?」
「違うよ。けどまあ、そうか。大樹少年はそう考えたか。実際は逆だね。強盗を取り押さえるときに銃弾を止めたから、君に話すいい機会だと思ったんだ」
「じゃあ、俺がいなくても強盗を止めたの?」
「そりゃ当然」
「当然じゃないよ」
「どうして」
「危ないじゃん」
「私はそれくらいじゃ死なない。傷を負ってもすぐ治るし」
「でも、正体がばれかけた」
おばさんは店員と強盗が見ている前で銃弾を止めて見せた。それは自分の正体を晒す行為でもあったはずだ。
「あ、さっき言っていた、記録消去を使うのか」
「いや、それをすると、大樹少年の記憶も消えてしまうから、今回は使わないよ。あの場にいた人たちは何かを見間違えたことにでもなるんじゃないかな」
あっけらかんと言うが、俺は流れが理解できなかった。行動の流れではない。おばさんの感情の流れがだ。
「待って、待ってよ。じゃあ、おばさんは何のメリットもないのに、あの現場に割って入ったの」
「そうだよ。だって店員さんたち、困っていたじゃない」
困っていたじゃない、だと。駅の階段で、乳児連れの親の代わりにベビーカーを運んであげるのとは訳が違う。たしかに、おばさんにとっては死ぬ可能性なんて限りなく0に近かったのだろうけれど、怪我をする恐れは充分にあったはずだ。
俺はおばさんも怪我をすることを知っている。タンスに足の指をぶつけて悶絶していたことがあるし、カッターナイフで指を切ったこともある。遣いだからって完全に身を守れるわけではない。
それに、おばさんが助けた店員たちは、礼の一つも言わなかった。
俺はあの店員たちの気持ちもわかる。銃を前に平然とし、大の男二人を意味不明な力で叩き伏せたおばさん。俺は怖かった。店員たちもまた、感謝ではなく畏怖でおばさんを見ていた。
それでも、あの店員たちは情けなかったと思う。おばさんに助けられたことは事実なのだから、絞り出してでも感謝を伝えるべきだった。
「あんな奴ら、放っておけばよかったじゃないか。ありがとうの一言も言えない奴らに、そいつらを食い物にする強盗だよ。どっちもどっちだ。警察を呼んで、あとは成り行きに任せてもよかったんじゃないの」
おばさんは、ううんと半笑いで頭を掻いた。
「まあね。でも、私はお礼や見返りを求めてやったわけじゃないからなあ」
「じゃあ、何のためなの」
「何だろう。あの人たち、皆不幸になると思ったから、かな。店員さんたちはもちろん、あの強盗たちだって、特別な信念や正義があってやったわけではないと思う。何かに追い詰められてやったのか、お金に困って、深く考えることなくやったのか、それはわからないけど。そんなどうでもいいことで誰か死ぬのは、不幸だろう。私は人間じゃないけど、人間に思い入れがないわけでもない。
愛と憎しみは表裏だから、誰かを愛するなら、誰かを殺したいほど憎むこともあると思う。誰かを殺せば、別の誰かに復讐されることもある。それも人間の美しさだし、それくらいドラマチックなら私のような通りすがりが関わるべきではないだろうね。けど、思いつきで決行された、誰も幸せにならない人死にくらいは止めてあげたいの」
おばさんはそう言って箸を動かし、アジフライの尻尾を残して食べ終わった。
魚は食べる。人間は助ける。おばさんの生命観は、ずいぶん人間を重視している。
「言いたいことは、多分わかるよ。でも、不公平じゃないかな」
おばさんの表情は穏やかで、俺の、聞きようによっては突っかかるような言葉を柔らかく受け止める。
「人間だけを特別視している気がする。命を助けたいのなら、魚や、牛や、その辺の虫も同じように助けるべきじゃないかな。おばさんは地球の監視員なんでしょ。どうして人間だけをそんなに助けるの。人間に滅ぼされた野生動物は、どうして放っておいたの」
学校やテレビ番組で、絶滅の危機に瀕している動物がたくさんいることを俺は知った。日本にも、昔は今よりたくさんの種類の動物たちがいたと聞く。滅んでしまったニホンオオカミは二度とこの世に戻ってこない。
「おばさんは何十万年も人類を見てきたんでしょ。その中で滅んだ種だってたくさんいたでしょ。どうして彼らは助けずに、その辺のどうでもいい人間を助けるの」
「どうでもいい、か」
苦笑するおばさんを見て、言いすぎたと思った。少なくともおばさんにとっては、命を懸けて助けた人に対して、あまりに酷い言い方だった。
「ごめん。言い方が良くなかった」
「私に謝らなくてもいいよ。大樹少年がそう思ったなら、それも真実だから。私の価値観を押し付けるつもりはない」
おばさんはいつもこうして、俺を導かない。自分と同じように考えろとは、決して言わない。実の親ではないからなのか、それとも心に決めたことがあるのか。
「大樹少年は頭がいいね。前から思っていたけど、君は、人の悪意に気付いてしまう人なんだ」
「悪意?」
「他人の上に立ちたい、尊敬されたい、貶めたい、野生動物なんかどうでもいい、コンビニ強盗をして楽にお金を得たい、助けてくれた暴力的な人に関わりたくない。
人は善意だけで構成されていない。種類も大きさもそれぞれだけれど、黒くてドロドロしたものを背中に隠して、綺麗な顔をして生きている。上手く隠す人もいるし、悪意が薄い人もいる。緊急時にはみ出てしまうこともある。
それらは当たり前に持っている感情だけれど、他人の悪意に気付くのは適性がある。大樹少年は、人間が隠している悪意に気付いてしまう性質なんだね」
俺はおばさんが初めて来た授業参観のことを思い出していた。先生と生徒、与えられた上下関係。生徒だからプライバシーを晒してもよいという、子供を見下す微かな悪意。
先生はそれを悪意だと呼ばないだろう。多分本当に、悪意だけでもない。人前で話す練習をさせようとか、将来に希望を持って生きて欲しいとか、善の気持ちだってたくさん含まれていた。
でも俺は、そこに隠されている教師としての優越感、子供を動かせる優位性を振るう愉悦を見て取ってしまった。
「俺、性格悪いのかな」
「違う。絶対に」
思いがけず強い口調が返ってきて、おばさんの顔を見た。
「君はいろいろな人に共感できる個性なんだ。自分と似た性格の相手のことは、誰でも理解できる。長く一緒にいれば、考えていることがなんとなくわかるようにもなる。でも、自分と異なる目線や考えを想像し、その人の気持ちになって、隠されている悪意まで察することができる人は多くない。そしてそれができる人は、隠れた善意だって察することができる。それはきっと、思いやりと呼ばれるものなんだ」
思いやり。小学校の学級会で話題になるような言葉だが、おばさんが使うその言葉はまるで、たまたま同じ発音だった別の単語のように聞こえた。
「人は感情を隠す。そうやって社会生活を営んでいく。君は、隠された悲しみに気付いてあげられる、優しい心を持って生まれたんだ。絶対に、性格が悪いってことじゃない」
「そんな優しさがあるんだね」
怒らない、人を傷つけない、失敗した人を許して助ける、俺の辞書の「優しさ」の欄に項目が加えられた。隠された悲しみに気付ける。
どうやら褒められているらしいとわかり、俺は背中がむず痒くなり始めた。
「それで、おばさんは悪意を向けられても人間を助けるんだね。それは、どんな人間にも善意があるから?」
「そこまで悟ってはいないけど」
おばさんは腕を組んで唸った。
「どう言えばいいかな。例えば、本当に仮に、大樹少年がお母さんから理不尽に怒られたとする。日曜日に寝坊を注意され、しかも自分の非を認めない、みたいな」
「おばさん、母さんにそういうことをされたの?」
「まあ」
おばさんは緩く笑った。大切な思い出なのだろう。
「そんなとき、君はお母さんに対してどう思う」
「いつも通りだなって思う」
「うん、あの子はたまにうっかりする。でもそういうことではなくて、それでお母さんを嫌うかい」
「嫌わない」
「それはどうして」
咄嗟に頭に浮かんだのは、俺が子供で、母さんに嫌われると生きていけないから、だった。でも、想像するのが難しいけど、自分でお金を稼いで暮らしていたとして、母さんが同じことをしても許す気がした。
「家族だから、かな。友達が同じようなことをしたらムカつくけど、それでも最終的には、謝られたら許すよ。でも母さんだったら、しょうがない人だな、で済ませると思う」
そして、きっと朝ごはんを一緒に食べているうちにどうでもよくなるのだ。
もういない、俺のたった一人の肉親。
「君はそのとき、自分の利害や、損得で計っていないだろう」
「そうだね。余程のことじゃなければ」
「場合によっては、自分の不利益だって許容する」
「まあ……余程じゃなければ」
「それが愛だよ」
「愛?」
「愛は見返りを求めない。我が身より優先できること、それが愛でなくて何を愛と呼べるのかって私は思う」
俺は数秒、間抜けな顔をしていたと思う。おばさんと目を合わせた状態で、何を恥ずかしいことを言っているのか、と呆れていた。
口が開いていることに気付き、慌てて閉じる。
俺の顔が面白かったのか、おばさんはニヤニヤと笑っていた。
「それで、愛がどうしたんだよ」
「コンビニ強盗を止めた理由だよ。私は人間を愛しているのさ。公平じゃなくていいだろう。全てに平等に振りまかれる愛なんて、あっという間に品切れするよ」
人類八十億を愛するなんて、それでも充分品切れしそうなものだが、おばさんは思ったより大きい人だった。