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第5話 直人のモテ期

 あいつとあいつ、付き合っているらしいぞ。

 そんな噂を立てられたことがあるだろうか。

 噂を立てられると面倒臭いだのと言って恋人との関係を隠す奴はいるが、それは贅沢な悩みだと断言させてもらおう。世の中の男女の大半は、そんなことで悩むチャンスすら無い。

 そもそも、その程度のことで噂になるのは、基本的に高校までだ。世界が狭いし閉じているから。大学生になれば、もう好きにやれよ、という雰囲気になる。この一年と少しで付き合った奴らも、もう高校のときほど騒がれなかった。

 だから、僕は予想だにしていなかった。加那との付き合いが噂になるなんて。

 加那は化粧気が薄く、着ているものも基本的にベーシックというか、派手さがない。取り立てて可愛いものを着ていることは少なくて、これから居酒屋でバイトでもしそうな、動きやすさ重視の服装を好む。

 それでも、というかそれゆえになおさら、素材の良さがわかってしまう。そういう子が好きな男は、それはもう多い。

 加那は入学当初から数多の男に言い寄られ、それら全てを袖にしてきた。冗談半分で『宮本加那に振られた男の会』が開催された際、居酒屋一軒が貸し切られたという伝説がある。真偽は知らない。知りたくない。

 そんな孤高の女王に彼氏ができたという噂は、僕が全く気付かないうちに大学の裏ネットワークを駆け巡っていた。大学構内を一緒に歩いているとき、何となく目線を集めているなあ、とは思っていたが、まさか話題の中心が僕だったとは。

 僕たちが付き合い始めたとき、友人たちは祝福してくれた。加那の氷解ぶり(デレとも言う)が衝撃的で気絶した奴が現れたなどという流言が届いたりもした。そんな彼女がいる僕の心境はどうかって? 控えめに言って最高の気分だった。謙虚に謙虚にと自分に言い聞かせても、ついつい顔がにやけてしまうくらいには、天にも昇る心持ちと言っておこう。

 副産物として、女子と話すときに緊張しなくなった。これも経験というのか、相手が女子だからといって、僕は構え過ぎていたらしい。自然体で会話できるようになり、日常生活が少しだけ楽になった。

 加那と付き合い始めて一か月半が経った頃、何がどう関わっているのかわからないが、「直人を紹介してくれっていう女の子がいて……」という連絡が、大して親しくもない人から何件も来るようになってしまった。加那の彼氏というラベルによって、周囲から見た僕の価値は大きく変動したらしい。それとも、懲りずに加那を狙っている男が、僕らの仲を裂こうとしているのかもしれない。

 絶対に裂かれてあげないけどね。

 僕を見つけてくれたのは加那で、僕を求めてくれたのは加那で、他の誰も見向きしなかった僕を最速で抱え込んだのは加那だ。

 今さら僕の魅力に気づいたって遅い。僕の魅力が何なのかって? 自分でもわからない。

「見つけてもらえたって思ったよ」

 そんな話をすると、加那が言った。僕たちが初めて会った食堂の順番待ちの列で、目が合った瞬間のことをだ。

「加那が僕を見つけた、じゃなくて?」

 その後の加那の積極性を思えば、その方が自然な気がする。

「もちろん、私が直人君を見つけたよ。客観的には、それはそう。でも、私はそのとき、直人君に見つけてもらった気がしたんだよ。傲慢な言い方かもしれないけど、私のための男の子だって思った。私にはこの人しかいないし、この人は私に会うために生まれてきたんだって」

「加那に会うために、僕は生まれてきたのか」

 それはさすがに大袈裟だろうと思ったが、とても幸せな拡大解釈だった。

「そうかもしれないね」

「だから他の女のところに行ったら駄目だよ。最悪、殺すから。最善でも多分殺すから」

 最悪と最善が同じだ。数学的に予測が簡単で素敵。

 胸の中央から少し左を、右手のひとさし指で軽く触れられた。口元だけの笑顔で肋骨の隙間、心臓に至る経路をなぞられ、鳩尾が締め付けられるように痛んだ。

「心しておきます」

 加那の目は笑っていないが、その表情も魅力的。ああ、これが虜ってやつか。

「わかってくれたようでよかった」

 加那は笑顔で指を離した。僕がほっと息を吐くと、くすりと笑って万歳をするように両手を上げて一歩下がる。

 ぎょっとした。その左手に、刃渡り二十センチほどの刃が黒いナイフが握られていたから。

「何、それ」

 背筋を冷たいものが流れる。

「私にこれを使わせないでね」

 ナイフを持った左手が僕の背に周り、空いた右手は僕の唇をなぞった。

 頭がくらくらした。恐怖と幸福で。

 加那になら刺されてもいい。今この瞬間に心臓を貫かれても抱きしめられる自信がある。


     ◇


 僕は誠実だし命が惜しいので、加那以外の女性からのアプローチはどんな形であっても丁重にお断りしている。さすがに全員と会話しないほど撥ね退けるわけではないが、明らかに不純な意図で近づいてくる女子からは迷わず距離を取る。どこから漏れたのか、SNS経由で届くメッセージも多く、通知を切ったりブロックしたりと忙しかった。モテる男を妬んで生きてきたけれど、彼らはこれがずっと続く人生を歩んでいるのだと思うと同情した。

 そんなスタンスで一か月も過ごすと、急激に身の回りが大人しくなった。しん……とオノマトペをくっつけたくなるような鎮静化である。

 一時は絶えず通知を告げていたスマートフォンが久しぶりに静かになったときは故障を疑ったほどだ。

「加那、何かした?」

 さすがに違和感があったので、堪らず尋ねた。

「何かしたかもね」

 余裕の笑みで返された。僕の脳裏には、黒塗りの刃が浮かんでいる。

 最近会った、周りの女子を数えてみた。誰も欠けていない。この想像自体、空恐ろしいものではあるけれど、そういうことも考えなければならない。

 悩んだ僕は、いつもの相談相手である村上先輩の元へ向かった。

 先輩が住んでいるアパートは、大学から僕の家に至る途中にある。二階建ての二階部分、一番奥の二〇五号室。

 コンビニの袋を手にその下の道を歩いていると、ベランダで電子煙草を吹かしている先輩を見つけた。手を振ると、向こうもこちらに気付いたようで手を振り返してくれる。

 錆びついた階段を上がり、部屋の前に立つ。コンコンコンとノックし、返事も待たずにドアを開けた。この人は滅多に鍵をかけない。そして、大学以外、滅多に外出しない。

「こんにちは」

「おう」

 先輩はベランダの柵にもたれた状態から、窓枠の半歩内側に座った。煙を部屋の外に吐き出せる、ギリギリ室内。その動作の最小限具合が村上先輩らしい。

 僕は勝手知ったる冷蔵庫に、コンビニで買った物を入れていく。先輩も何も言わない。和室とキッチン、風呂とトイレがあるだけの簡素な部屋。和室にはノートパソコンが乗ったローテーブル。部屋の隅には畳まれた布団。そして最も目を惹くのが、一畳分のスペースに押し込められた本の山。この家には本棚がないくせに先輩は読書家なので、蔵書が増えて積まれ、溢れている。どうしようもないので一畳分は本に捧げたらしい。

 最初の頃はインターホンを鳴らしていたのだが、すぐにやめるように言われた。曰く、ノックをするのは馴染みの人間、インターホンを鳴らすのは営業や宗教勧誘と分けておけば、余計な応対をしなくて済むから、だそうだ。効率的なのではない。面倒くさがりなのである。鍵を開けているのも、自分が開けに行かなくて済むようにだ。実際、僕が来て数分経つが、先輩の移動距離は一メートルにも満たない。

 先輩は不思議な人で、大学に入って勝手がわからずうろうろしていた僕を部屋に招き、履修だのサークルの噂だのを色々と教えてくれた。「多分、お前を待っていたんだ」と言われたとき、ああ、そうなんだな、と妙に納得してしまった。加那との出会いも然り、僕は縁に恵まれている。

 この部屋には、僕みたいに拾われた人たちが時折やってくる。中には、大学に馴染めなかった人や、頑張りすぎて疲れてしまった人、彼氏や彼女、家族の元に帰りたくない人などもいる。シェルターほど強固ではなく、吹きさらしほど不愛想でもない場所。屋根があって、寝る場所があって、話を聞いてくれる人がいる。

 彼らが土産に持ち込む食べ物と飲み物が冷蔵庫とキッチンには常に補充され、それで食生活の半分くらいが賄えているらしい。個人的には栄養面が心配である。本を贈る人も結構いて、蔵書がさらに混沌としていく。

 かように、事情があったりなかったりする人たちから奇妙な人気を博しているのだが、不思議と村上先輩に依存する人はいない。依存しようにも、寄りかかったら通り抜ける幽霊のような希薄な関係に落ち着いてしまう。

 それは村上先輩なりの愛なのだと僕は解釈しているが、本当は先輩の孤独なのかもしれない。誰にも依存されることができないから、何にも囚われない場所を作ってせめて人と繋がろうとしているような。この部屋に来ると、僕はどこか優しさと寂しさを同時に感じる。

「加那がナイフを持っていたんですよ。人も殺せそうな」

 僕はインスタントコーヒーを淹れながら先輩を一瞥し、また目線をコーヒーカップに落とした。砂糖をかき混ぜる。

「ああ、そう。切られたのか」

「いえ、僕は無傷です。誰かが切られたということも聞きません」

「良かったな」

 村上先輩はいつも通りの調子で受け答えしてくれる。浮世離れしているというのか、先輩が狼狽えるところを見たことがない。だから、先輩と話しているだけで悩みが解決したり、考えが纏まったりすることも多い。

 先輩のそばにコーヒーを置いて、僕はローテーブル傍に座った。「サンキュー」と小さく聞こえた。

「例えば」

 村上先輩はベランダに向かって電子タバコの煙を吐いた。

「お前にちょっかいを出す女を黙らせるために、宮本がナイフで脅した。お前はそういうことを考えている」

「脅したというか、消したというか」

「なかなかに思い切ったことを言っている自覚はあるか」

「まあ、はい。加那ならそういうこともあるかな、と」

 僕は苦笑混じりに頷いた。村上先輩は呆れたように首を傾げている。

「正直、同意見だ。同意見だが、お前はもう少しだけ取り乱すと思っていた」

「もう少しだけなんですね」

「もう少しだけな」

 村上先輩が薄く笑った。何を考えているのかわからないとか、感情があるのかわからないとか評されることが多い人だが、親しい人は知っている。この人は結構笑う。

「以前、ここに宮本が一人で来たことがある」

「らしいですね。聞いていますよ」

 加那と付き合ってすぐ、僕は先輩を紹介した。その後ある日、たまたま講義終わりで一緒になったので部屋に寄ったのだと嬉しそうに言っていた。仙人みたいな人だね、とも。

「その際、人を殺すことも厭わないようなことを言っていた。というか、積極的に殺すようなニュアンスだった。あれは……直人の彼女に言うのは気が引けるが、一種の殺人鬼に近い性質なんじゃないか」

 先輩は電子煙草を消し、這うように移動して本の山から数冊を抜き取った。軽く雪崩が起きて、眉をひそめている。

「本で読んだ知識だが、快楽殺人者の多くは行動がエスカレートしていき、自滅する。……ああ、この本じゃなかった」

 お目当ての本ではなかったらしい。この部屋で目的の本を見つけ出すのは至難だろう。

「宮本は理性的に行動している点で一般的な快楽殺人者とは違う。だが、あれは普通じゃないな。もっと漠然と、人間全体を憎んでいる。そういう趣旨のことを言っていなかったか」

 僕はそれに答えず、コーヒーを啜った。

 人並みに恋をできるなんて思わなかったと加那は言った。これまでどれだけ男に言い寄られても拒絶し続けてきたその理由は、人間そのものを嫌っていたからなのだろうか。

 何も言わない僕の答えを待たず、先輩は独白のように続けていく。

「宮本は、人間である自覚がないのかもしれない」

「人間である自覚?」

「自分を他者と同じ人間だと思えないから、他人の命に価値を見出せない。ネズミに恋して結婚しろと言われたってどうしようもないようなもので、だから今まで彼氏がいなかったんじゃないか」

 僕が考えていることがわかるように、先輩は言う。

「でも、加那は僕と付き合いましたよ」

「そうだな。実は直人が人間じゃないのか、それとも、人間でない自分を諦めて受け入れたのか」

「やめてくださいよ」

 妥協で付き合われたなんて、思いたくない。

 先輩は意地の悪い笑みを浮かべた。

「直人は人間だし、後者なんじゃないかと……」

「やめてくださいってば。話を戻しましょうよ」

 先輩は笑みを引っ込めて壁にもたれた。コーヒーを一気飲みに近いペースで吸い込む。

「さすがに殺したわけではないだろう。彼氏に言い寄る女を全員殺していたら、あっという間に警察のお世話だ。そんな動機で人は殺さないさ。せいぜい、強く言ったらそれが横のネットワークで伝わって、調子に乗っていた奴らがビビって自粛したとか、そのくらいが真実じゃないか」

「ですよね」

 そういうことで、僕は納得することにした。追及しても、面白い事実が出てくるわけではなさそうだし。

「直人」

 村上先輩はコーヒーカップを畳に置き、電子煙草の加熱器を弄んだ。

「もしも宮本が本当に人を殺していたら、どうする」

「どう、とは」

「縁を切るか。通報するか。それとも更生を促すか」

 想像してみた。加那が路地裏で人を刺し殺している。血で濡れたナイフを持って、ビクビクと痙攣する相手を見下ろし、とどめの一撃を構える。

 本音で言うと、格好いい。

「村上先輩が殺されたら、縁を切るかもしれません。僕にとって大切な人、大切なものを理解してくれていないということですから」

 村上先輩は頭を掻いて窓の外に目を向けた。

「それ、宮本に言うなよ。いらん嫉妬で殺されたくない」

「大丈夫ですよ。先輩のこと、とても気に入っていました。僕と先輩の関係については理解してくれていますよ」

「お前との関係ね。宮本は本当にわかっているのか」

「そんなに裏がある関係ですか、僕ら」

 先輩は自嘲的に笑い、肩を竦めた。

「神は宮本を許すのか」

 先輩は畳に積まれた本の一冊を手に取ってパラパラと捲った。脈絡が変わって戸惑う。

「神って、何ですか急に」

「何ってこともない。漠然とした、人智を超越したものだよ。その存在は、宮本が人を殺しても許すと思うか」

 僕は物理学科の学生で、立場的には神の存在を否定するべきだと思う。だが、先輩が言う「神」を理解しなければ、的外れな返答になってしまう。先輩が持っている本のタイトルに目を凝らした。『十角館の殺人』。どう考えても神について論じた本ではない。

「ミステリー小説の作者を神とすれば、神は登場人物が殺人を犯しても許しますよ。だって、自分が創造したものですから」

「この世はミステリー小説ではない」

 思い出したように、手にしていた『十角館の殺人』の表紙を見て、軽く振った。

「この本は今の話題と無関係だ」

 先輩が意味ありげに捲っているから絡ませたのに、考えすぎだった。

「神は許しますよ。同じ種族の個体を殺すのは、人間だけに限った話ではありません。類人猿に限った話ですらありません。世界のあらゆる種に溢れている事象です。神が許さないのなら、これほど広く同胞殺しの習性が存在することは変だと思います。殺すと言うと聞こえが悪いですが、例えば食糧難に陥ったとき、群れの中から弱い個体や病気の個体を切り捨てることは、群れ全体で見れば利益です。もしも見捨てることができない場合、最も弱い個体のために群れ全体が危険に晒されることになります。生存戦略として、同胞殺しは遺伝子に刻まれているのだと思いますね」

 猿はときに、いじめで同胞を殺す。野良猫同士が深手を負うまで争うのはよくある光景だし、鳥だって雛のうちから食べ物の争奪戦を繰り広げる。おそらく知られていないだけで、どの種族にも同様の淘汰と種族内生存競争はあるはずだ。人間だけが特別であるわけがない。

「その知識は、どこから得た」

「えっと、何かの本で読んだのだと思います。忘れましたが。間違った知識でしたか」

「いや、そういうわけじゃない。多分、正しいだろう」

「先輩はどう思いますか。神は殺人を許しますか」

 先輩の目が遠くを見た。視線が本を通り抜け、手は止まり、思考に潜っていく。

 空気が静かになったように錯覚する。この人の周囲には、いつも不思議な雰囲気がゆらめく。黙って待ちたくなるような、時間の流れを遅くする感覚。雑踏の中に姿を見つけると、先輩の周囲だけ静かな、そこだけ浮いた空間かのように見える。

 僕はそれを感じるのが好きで、よくこうして考えている姿を拝ませてもらっている。

 すう、と先輩の目線が戻ってきた。目が合う。

「許すだろうな。仮に直人と隣に住んでいる奴が殺し合い始めたとしても、神は干渉せず、心も痛めず、日常の風景として、今日も平和だな、なんて言うだろう」

 そんなことが始まったら全然平和ではないと思うが、たしかに神ならそんな細かいことを気にしない気がする。

「ただ、それが国家間ならばまた違うと思う。極端に言えば、地球上の生物が大量死するような戦争をする場合は、さすがに神も許さないんじゃないか」

「許さないと、どうなりますか」

「止めるか、人間だけ滅ぼすか。どちらかだろう」

「止めてほしいところですね、人間としては」

 神が人間贔屓ならば、それほどの大ごとになる前に止めてもらいたい。

「いっそ滅ぼしてもらいたいよ、個人的には」

 自分の口元が緩むのがわかった。先輩は人間嫌いなわけではないけれど、他の生物や、海や空気や太陽の方がより好きだ。だからそう言う気がしていた。愛が深くて、広くて、そして少しだけ人間を蔑む。

 ただ真っすぐに人を愛するよりも、複雑で、矛盾していて、海中の岩場に小魚が隠れるように他者を受け入れる余地がある。

「見方によっては、人類は他の生物を既に大量絶滅させているわけですが、神は何をしているのでしょうね。人間同士の戦争にしか興味が無いのでしょうか」

 ホモ・サピエンスが誕生してから約十万年。地球上の生物多様性は急激に減少している。

「そろそろ罰されるんじゃないかと期待している」

「危惧ではなくてですか」

「ああ。期待している」

 僕も考えたことはある。ある日人間だけが一瞬で死んだ世界。死体の肉は他生物たちの糧となり、飛行機が飛ばなくなった空は鳥やコウモリの独壇場に戻る。車が走らなくなれば、鹿が闊歩するだろう。野犬たちが群れを作って、かつての狼のように捕食者としての力を取り戻す。割れたアスファルトからは木が生え、都市だった場所は森に戻る。

 掘り出した石油も、放射性物質も、化学反応で作った薬品も、元は自然界にあったものだ。漏出したところで、太陽光と酸素で化学変化し、限りなく無毒化されていく。

「そうなったら、寂しい世界ですね」

「お前はそう言うだろうな」

「先輩は、僕も死んだ方がいいと思っているんですか」

「お前よりも先に、俺が死ぬよ」

 先輩の優しさはひねくれている。自分を下げて相手を上げたり、人類を下げて他を上げたり、たまに自分ごと相手を上げてみたり。

「で、どうしていきなり神の話になったんですか」

 元々は加那の話をしていたはずだ。

「宮本が人を殺していたらどうするのか、という話だ」

「加那は人を殺したわけではありませんよ。ナイフを持っていただけです」

「だけ、で済むことではないと思うが」

「まあ、僕は神ではありませんから」

 人間で、男で、惚れた方が負けだ。

「生きているんです。人を殺すこともあるでしょうし、生かすこともあるでしょう。そんなに珍しいことでもないと、僕は思います」

 先輩は『十角館の殺人』を閉じた。物語の世界には何十人も殺すような殺人鬼だって登場するし、歴史上には何百人も殺した兵士だっていると聞く。

 殺した人数なんて、大した問題ではない。重要なことは、殺したり殺されたりした人と、自分がどんな関係であったかだ。肉親が一人殺されれば憎み、地球の裏側で百人が殺されれば一時間後には忘れる。

「お前はそう言うだろうな」

 先輩の目には、世界がどう映っているのだろう。希望が見えていてほしいと願うばかりだ。


    ◇


「師走っていうけどさ、むしろ師はこの時期座っているんだよね」

「はあ、そうですか」

 いつもの喫煙所で座り込んでいたら、灰山さんがやって来て話し出した。煙草に火を点け、嗅ぎなれた匂いが満ちる。

「年末の、税金関係の事務手続きが忙しいらしくてさ。大学って、三月と四月が一番忙しいんだけど、十二月もやっぱり忙しいわけよ」

「灰山さんも忙しいんですか」

「私は別に。特任助教授、つまり、任期限りの雇用だからね。事務的なことは特任じゃない人たちや正職員の仕事なの」

 だからこうして立っているわけ、と言ってのびをした。

「任期が過ぎたらどうなるんですか」

「次の就職先を探す。私らの業界は昔からノマドワーカーよ。固定ポストに就くまでは、仕事がある所で暮らす科学の遊牧民。海外だろうと田舎だろうと、雇ってくれるならそこに住む」

「海外のたばこ税ってとんでもなく高いらしいですよ」

 灰山さんはうんざりした顔で溜息をついた。

「そうなんだよね。ああ、禁煙するかあ」

 遊牧民と聞くとほのぼのしているようだが、要するに、定期的にやってくる就活だ。バイト先だって変えたくない僕にしてみれば、少なくとも楽しそうとは思えない。

「灰山さんがいなくなったら、村上先輩が悲しみますね」

「君たち学生も、どうせ数年でここからいなくなるでしょうが」

 そういうことを言いたかったわけではないのだが、話題を上手に避けられてしまった。まあ、本人たちの問題だ。僕がどうこう言うことではない。

「それで、陰山は何を悩んでいるの」

「わかりますか」

「煙草を吸わない君がこんな場所に座り込んでいたら、一人になりたいか悩んでいるかのどっちかでしょ」

 僕は壁に背中を擦るように立ち上がった。

「悩みってほどではないんですが、妙な人が来たんですよ。付き纏われているというか、嗅ぎ回られているというか」

「嗅ぎ回られているって、警察に?」

「どうなんでしょう。加那は警察ではなかったって言っていましたけど」

「どうしてここで君の彼女の名前が出てくるの」

「加那が追い払ってくれたんです。そのとき、少し話したらしくて」

 灰山さんの頭の上にクエスチョンマークが浮かんで見えた。情けない話だが、普通は逆だ。彼氏に付き纏う変質者を追い払う彼女の図が想像できないのだろう。

「君の彼女は豪傑みたいな子なのかな。目立つ子だとは聞いていたけれど」

「そういうわけではありませんが。気が強い子なので」

 ナイフを持ち歩いているような子です、と言うわけにもいかず、できるだけソフトに表現してみた。

 考えてみれば、灰山さんに加那を紹介していない。機会があれば引き合わせてみよう。

「頼もしい彼女で何より」

灰山さんの怠そうな口調で言われると、全く、何より、という感じがしない。

「それで、何を嗅ぎ回られていたの」

「僕のSNSアカウントを調べて辿り着いたらしいです」

「何それ。君、どんな先鋭的なツイートしているの」

「ただの天体観測写真ですよ」

 綺麗に見えた星座や、夜空の写真、タイミング良く惑星が近接した写真などを趣味程度に投稿しているだけの、とても平和なアカウントだ。探られる腹も無い。

 灰山さんも煙草を指に挟んだまましばらく考え、眉を寄せた。

「それは気味が悪いね」

「そうでしょう。それに、加那が妙なことを言うんですよ」

「妙なこと」

「ベ、で始まる星が爆発した写真を調べているらしいって」

「君の写真を雑誌か何かに掲載したいという申し出だったのかもよ。天体観測愛好家が撮った写真だと言って使えば、綺麗そうに感じるじゃない。ああ、でも、陰山本人を探し出す必要はないか。メッセージを送ればいいだけだもんね」

 僕は頷く。身元を明かしてコンタクトを取ってくれれば、画像の使用許可くらい出した。知りたいことがあるなら訊いてくれればよかった。つまり、まともに訊いても僕が答えないようなことを、相手は知りたかったのだ。

 例えば、僕のプライバシーや脅迫材料のような。

「それから君、物理学科ならベテルギウスと言いなさいよ。どうして持って回った言い方したの」

「ベテルギウスなんですか? それは違うでしょう。だって、ベテルギウスは爆発していないじゃないですか」

 僕の反論に、灰山さんは煙草を咥えたまましばらく考えた。

「まあ、減光して元に戻ったのだから、厳密には違うね。私もそう思う。でも、素人からすれば、爆発したと言っても差し支えないよ」

「爆発だなんて、大袈裟でしょう」

「大袈裟かな」

「違いますか」

「違うと思うよ。私だって、空で爆発が起きたような印象を受けたもん。あれから一か月くらい経つのか。早いね」

「一か月? 何のことですか」

「何のことも何も、君も目撃したベテルギウスの増光現象の話でしょう」

「僕が目撃した?」

 僕の反応に、灰山さんの顔が歪んだ。機嫌が悪くなっていくのがわかるが、こちらも気持ちは同じだ。話が噛み合わなくて苛々する。

「君、大丈夫?」

 灰山さんが不機嫌そうな顔のまま、座り込んでいる僕の顔を覗き込んだ。

「何がですか」

「先月、陰山はここでそのことを話したよね。村上もいた。午後十一時頃、ベテルギウスの方角で爆発的な増光現象があって、君はそのとき屋外にいて目撃し、撮影までしたと、言ったよね」

 言っていない。首を振る僕に、灰山さんは目尻を掻いて言う。

「病院に行った方がいいのは、君か私か」

 僕は身の潔白を証明するため、スマートフォンの画像データを探した。

「ありませんよ、そんな写真」

 どれだけスクロールしても、それらしき写真は出てこない。

「不審者が探していた投稿は何なの。ベテルギウスが爆発している写真じゃないの」

「だから怖いんですよ。そんな投稿、僕はしていないんですから。何度も探しましたよ」

 そう、「ベ、で始まる星」と「爆発」というキーワードがあれば、天体観測マニアなら簡単にベテルギウスを連想する。加那が撃退した不審者はベテルギウスの投稿写真を追ってきたらしいと聞いても、僕には何の覚えもないのだ。

「僕、ほぼ毎朝テレビのニュースを観てから大学に来るんですが、そんな話題、記憶にありませんよ」

 灰山さんは「ニュース」と呟いて黙り込んだ。灰が一塊、コンクリートの地面に落ちる。

「そういえば、どうして誰も話題にしないんだ」

「え?」

「増光があった後の数日以降、研究室で話題に上がっていない。あの現象についての発表もされていない」

 灰山さんはスマートフォンを取り出した。三分ほど操作し、眉間に淵を押し当てて天を仰いだ。

「査読済み、未査読、どちらにも関連する論文が出ていない。あれほどの現象にも拘わらず?」

 灰山さんは僕をじっと見た。いやまさか、と呟き、何度も首を振り、疑わし気な顔になった。

「村上に電話して。さっき私が言ったことを話して、記憶にあるか確認して」

 僕は言われた通り電話をかけた。スピーカーモードにしておく。僕には灰山さんが何を言っているのかわからない。だが、加那が撃退した男の行動について、少なくとも僕よりは納得している。

『はい、村上』

「先輩、ベテルギウスって爆発しましたか」

『藪から棒だな。お前、写真撮ってはしゃいでいただろう。それがどうした』

 灰山さんと目が合った。灰山さんは頷き、僕は背中に冷たいものが流れた。

 僕が知らない、忘れている事実がある。


     ◇


 その日の夜、村上先輩の家に僕たちは集まった。鍋一杯につくった野菜多めのカレーを取り分け、ローテーブルを囲む。

 灰山さんがここに来るのは初めてだが落ち着いたもので、一方の先輩はいつになくそわそわしていた。座布団を勧めたり上座を譲ったりと忙しい。

 食べながら、口火を切ったのは灰山さんだった。

「じゃあ、各自の報告を。まずは私から。研究者仲間に聞いてみたけど、みんなベテルギウスの増光現象を覚えていた。ただし、それについて研究している、またはされている噂は聞いたことがないそうだ」

 僕と灰山さんは喫煙所で一旦解散し、情報を集めて持ち寄ることにした。あの場では結論が出せなかったのだ。

「次は、僕。改めてデータを探しても、増光現象を捉えた写真は持っていませんでした。投稿した記録もなし。ただ、SNS上にはそれらしき投稿をしているアカウントがたくさんありました。現象自体は間違いなく実在しました」

 二人が頷く。先輩に目を遣る。

「俺はネットニュースを調べました。ベテルギウスの増光現象が確認されたのは十一月三日の夜。その二日後をピークに取り上げられる回数は減少し、一週間経った後では全くの0です。続報も皆無。比喩ではなく、一件も見つけられませんでした」

「やっぱりおかしいね。これだけのイベントなんだ。何かしらの続報があって然るべきだし、オカルト雑誌や陰謀論者なんてこぞって取り上げそうなものだろう。それと、いま思えば私もおかしかった。陰山と話すまで、全く意識に上らなかったんだよ。同業者と話す格好のトピックなのに、まるで忘れたみたいに」

 コツコツと、先輩が指でテーブルを叩いた。

「忘れ方にバリエーションがありますね。直人は完全に忘れ、今も思い出せない。俺や灰山さんは言われたら思い出す程度。逆に言えば、言われなければ思い出さない。そして、おそらく全世界で同様の忘却が進んでいる。一応、アメリカ、イギリス、中国のネットニュースを探しましたが、一様に静かなものです」

 僕たちは黙ったまま目線をやり取りした。しかし、何を言えばいいのかわからない。

誰からも発言がないとわかると、先輩は鞄からルーズリーフを引っ張り出し、書き込み始めた。

「とりあえず、わかっていることをまとめてみましょう。

① ベテルギウスの増光はあった。

② 直人は増光現象を覚えていない。

③ 科学者も増光現象を忘れかけていた。

④ 続報がメディアに流れていない。

⑤ 陰山のスマートフォンとSNSから、写真が消えた。

⑥ 警察ではない不審者が、直人を調べていた。

 こんなところですか。こうしてみると、現象の方向性は明らかですね。記録や記憶が消去されようとしている。なぜか直人だけ綺麗さっぱり忘れているのも、何かの意味がありそうです。⑥だけは異質ですが、この現象と関係があるのかどうか、まだ未確定ということで」

「陰山の彼女が追い払ったんだっけ。仲良くなれば、向こうが知っていることを教えてもらえたかもね」

「どうでしょうね。尾行されていたので、向こうは僕と情報交換したいわけではなさそうでしたよ」

 灰山さんは、ふむ、と頷いてカレーを口に運んだ。

 僕が一番心配していることはそれだ。相手が穏やかじゃない。加那から軽く聞いたが、とても堅気の人間ではなさそうだ。身に覚えが無い理由で身辺をうろつかれるのは落ち着かない。

 そんな相手を、さらに穏やかじゃない方法で撃退したことは、灰山さんには言えなかった。

「そういえばですね、僕の消えた投稿に反応している人がいました。投稿自体は消えても、貰ったリアクションは履歴が残っていたんです」

「へえ、そうなのか」

「ふうん」

 物凄くピンときていない反応が返って来た。そういえば、先輩がSNSをやっているとは聞いたことがない。灰山さんも、そういうイメージはない。

「二人とも、SNSやっていますか」

「やっていない」

「俺は、昔アカウントを作って結局放置している」

 理系ではあっても、最新のITツールに詳しいわけではないようだった。所詮コミュニケーションツールにすぎない。ノックして勝手に入ってこいという先輩と、最近喫煙所に人が減って助かるなどとぼやく灰山さんだ。必要ないのだろう。

「とにかく、僕の投稿を引用した人がいました。でも、そのアカウントも妙なんですよ」

 僕はスマートフォンを操作し、二人に画面を見せた。

「この、アカウント名「隕石探し@tani_gu__chi___」という人に引用してもらっています。でも、そのアカウントは削除されているんです」

「タニ、グチ。自分の名前をアカウント名にしているのか。不用心だな。メールアドレスじゃないんだぞ」

 呆れたように言う先輩には賛成だが、よくあることだ。実際、タニグチという名前だったとして、一体何人いるのか、という話になる。

「タニグチって人は知り合いなの?」

「いえ、それが、心当たりがないんですよね。アカウントも消えているから、コンタクトも取れません」

「直人を追っていた不審者のアカウントじゃないか」

「ありそうですね」

 僕を追っていたのなら、SNS経由で探りを入れた可能性は高い。山ほど来たメッセージの中に紛れていた可能性はある。

 そこまで話すと、途端に沈黙が流れた。手詰まりだ。情報が足りなさすぎて、これ以上の推測ができない。

「別の方向から考えてみましょう」

 先輩はいつの間に平らげたのか、空になった皿にスプーンを置いた。この人は食べるのも飲むのも早い。

「俺が思うに、これはベテルギウスの増光現象から起こった一連の事象です。その後のニュースや、直人が忘却していることだけを見るのは危険かと」

「そういえばそうか。格好つけた言い方だけど、全てはそこから始まった」

 皮肉っぽく灰山さんが笑った。先輩も僅かに顔を歪めたように笑う。

「量子テレポートじゃないかと思うんですよ」

 先輩はこめかみを掻きながら言い、灰山さんは腕を組んだ。

「ううん、……一応最後まで聞こうか。その前に、陰山は量子テレポートを知っているか」

「現象のことなら、ええ、はい。一応、物理学科ですし」

 量子テレポートとは、光の速度を越えて情報を送信できる可能性がある物理現象だ。

 量子、つまり極小世界の物理では、僕たちが日常的に知覚する世界とはかけ離れたことも起こる。量子の中には二個でペアになっているものがあり、片方の状態が特定されると、もう片方の状態も「同時に」に決まる。この「同時」が特殊で、比喩でも大袈裟でもなく、理論的には全く同じ瞬間なのだ。そのペアがどれだけ離れていても、「同時」なのである。

 それを上手く応用できれば光の速度を越えた情報送信手段となるため、現在研究が進んでいる。光の速度が情報伝送の上限速度だとする相対性理論が破れるのかどうか、また、通信技術として実用化できるのかどうか、期待は大きい。

 理屈を理解しているというよりは、概要を見聞きした程度のにわか知識だ。その量子テレポートがどうしたのか。

「ベテルギウスが爆発したという情報が量子テレポートで飛んできて、地球にその光景を見せた。ベテルギウスまでの距離は六四二・五光年だから、六四二・五年後に爆発本体の光が届く。そう考えたら辻褄が合いませんか」

「なるほど」

「無理でしょう」

 僕は手を打ったが、灰山さんはクールに切り捨てた。

「情報がテレポートするといっても、強い光がそのまま伝わるわけじゃない。デジタル情報として送信できる可能性があるのが量子テレポートだ。光った、という情報は光速を越えて送信できても、光そのものを再現するのは、全然違う話だよ」

 先輩は悔しそうでもなく、そうですよね、と意見を引っ込めた。無理筋であることは承知だったらしい。

「量子テレポートだったら、どうだったんですか。その後の僕の記憶が消えたことや、世界中で誰も話題にしなくなっている理由も説明できますか」

「いや、無理だな」

 理不尽だとわかっているが、渋い気持ちになってしまった。村上先輩なら上手く説明をつけてくれるかと期待したのだが、量子テレポート説も本当に言ってみただけだったらしい。

 僕はともかく、現役研究者の灰山さんが手も足も出ないのだから、一介の学生にすぎない村上先輩に期待しすぎるのも酷か。

「だいたい、不特定多数の人間の意識から消したり、特定事項についてインターネット上のデータが消えたりなんて現象、本当に科学と言えるのか。俺はそこから考えた方がいいと思いますね」

 灰山さんが反応する。

「科学じゃないとしたら、何なの」

「それは、魔法とか、神の御業とか、そういうものですよ」

 意外だった。村上先輩がオカルトに傾倒するタイプだとは知らなかった。

「信じているんですか、そういうもの」

 少し、せせら笑うニュアンスが混ざってしまったことは否めない。神の悪戯と言ってしまえば、どんな現象だって説明できてしまう。それは思考停止であり、それ以上の進歩を妨げる考え方だ。

 神がいるなら、その神の正体を明らかにするのが科学の役割だろう。

「直人は信じていないのか、人智を超えたものの存在を」

 信じていない、と即答しようとしたが、村上先輩の静かな目に見つめられて思いとどまった。

「信じていないというか」

 直視しているのが気まずくて、壁を見た。

「神という言い方は、漠然としていて好きじゃないです。昔は太陽だって神として信仰されていましたが、今では水素とヘリウムの塊であることがわかっています。太陽は不変ではなく寿命があるし、毎朝昇ると思っていたけど動いていたのは地面の方でした。神は解き明かせます。そして、解き明かされた神はただの物理現象になる。科学レベルが足りなくて説明できないことを、人智を超えると呼んでもいいですが、人智を超え続けることは、きっとできません」

 僕の言葉がいつの間にか先輩を傷つけていたかもしれないと思うと、軟着陸するように言い訳が流れ出た。

 僕のちっぽけな無神論なんかより、先輩の心の方がよっぽど重要だ。先輩が実は敬虔なキリスト教徒だったとか、神教の教えを忠実に守って生活しているとか、傷つく可能性なんていくらでも思いついた。この部屋に家具が少ないことや、教会のように開け放された雰囲気も、深読みすればいくらでも理屈を捏ねられる。

 考えすぎだと、まともな人は言うだろう。でも、村上先輩の考えすぎている優しさに助けられたから、僕は拾ってもらえた。無口で言葉を慎重に選ぶところ、悲しんでいる人や寂しがっている人を見つける視界も、きっとそういうことだ。

 僕は、そういうことに鈍くありたくない。

「そうか」

 呟くように声を出した先輩の表情は、いつも通りに見えた。ほっと息をつく。

「私も陰山と同意見だね。神なんていない。あるのは既知の物理現象と、未知の物理現象だけだよ。でも、今回のことが自然現象であるかどうかは、わからない」

 僕は思わず指を鳴らした。

「それ、僕も思っていました。人為的な気配がありますよね」

 ベテルギウスの増光現象についてのみ抽出したように、記録と記憶が消されていく印象。

 灰山さんが頷いた。

「人為的、作為的、選択的、言い方はいろいろあるだろうけど、誰かの意思を感じるのよね。その誰かを神と呼称するのであれば、たしかに神はいるのかもしれない」

 何がしたいかはわからないけどね、と灰山さんも空になった皿から手を離した。

「人為的という意見には、俺も賛成ですね。仮に神だと呼んであげるとして、神が人間界に干渉するとき、大抵、遣いを地上に派遣します」

「急にどうしましたか」

「まあ聞けよ。奈良の鹿、白蛇、神の意思を伝える者、力を分け与えられた者。世界中で神と人の間の存在が語られています」

 信託者、預言者、神の子、様々な名前が脳裏をよぎる。

「そいつはきっと、神なんかよりもずっと人間らしいはずです。そいつがやっているんじゃないですかね」

 僕には、人間らしさよりも人間離れしている様子が思い浮かんだ。それはたしかに神よりも人間らしいだろうが、人間とは明らかに異なる。

 ふと、加那は増光現象のことを覚えていたな、と思った。

「とりあえず、陰山は一回病院に行った方がいいと思う。どういうわけかわからないけど、一人だけ異常に忘れているんだから」

 灰山さんの常識的な言葉で、僕たちの会合は終わった。



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