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第4話 黒草と雌猫

 大学生の頃を思い出す。講義の合間、空き時間、よくこうして食堂で暇を潰したものだった。

 同性、異性の友人もいて、勉強やゼミにもさして困っていなくて、順風満帆な大学生活だった。ただ、あの頃の俺は自覚なく疲れていた。交わされる言葉の端から空気を察し、適切なタイミングで合いの手を入れて笑う会話ゲーム。

 友人の数が大学生の価値だと思い込んでいたあの頃、俺はできるだけ交友関係を広げ、できるだけ酒を呑み、できるだけ女を抱き、できるだけ笑った。

 今思えば、食堂で一人、時間を潰していたのは反動だったのだろう。外向的であろうとする姿勢と、本来の自分のずれの歪を癒す時間が必要だった。

 俺は経済学部にいたが、工学部の田代という男と知り合った。趣味は株取引と機械いじりという変り者で、家のガレージを作業場に、意味不明な珍品を作っては壊していた。一度、全面ガラス張りの、中身が見えるスケルトンパソコンという、機械オタクしか喜びそうにない物を作ったのだが、誤ってマイナスドライバーを落とし、蜘蛛の巣のようにひびが入って台無しになったことがあった。あのときの田代の狼狽ぶりは、思い出しただけで笑える。

 俺は田代のガレージが好きで、よく泊めてもらった。田代の家族にも覚えられ、晩飯をご馳走になったことも何度かある。目を覚ますといつも田代は何かを作っていて、俺は黙って何時間もひび割れたスケルトンパソコンでゲームをして過ごした。

「黒草君は、疲れているの?」

 ある日、田代が言った言葉に返答しようとして言葉に詰まり、そのこと自体に激しく動揺した。

「どういう意味だよ」

「どうして僕みたいなのとつるんでいるのか、不思議に思ってね。だって、黒草君には沢山の友達がいて、僕よりも遥かに話が面白い人だっているはずじゃないか」

 そう、今も昔も、基本は無口なくせに、一度話し始めると饒舌な奴なのだ。

「お前も結構面白いよ」

「でも、彼らほどじゃあない。女の子だって紹介できないし、酒も弱いから付き合ってあげられない」

 俺がどう思われているのか言葉の端々から察せられて、少々ばつが悪かった。そこまで露骨に遊びたがっているように見えただろうか。

「でも、ここにいるときの君はとても静かだ。笑わない代わりに、そうだな、なんとなく幼く見える」

「幼く、と来ましたか」

 田代の言葉選びが興味深い。悪意をもって使うならともかく、普通、二十歳を過ぎた男に使う言葉ではない。

「本当は無理をしているのかな、と思ったんだよ。それで、最初の質問に戻るけど、君は疲れているの? それとも、本当は人が嫌いなのかな。ちなみに僕は人付き合いなんて疲れるからそんなに好きじゃないよ」

 田代は返事も聞かず作業に戻った。

 俺は、そのとき尊敬という概念を体感した。田代のことを尊敬した。言い換えれば、これまで会った連中、親、教師、先輩、全員を俺は尊敬していなかった。

 どうでもよかった。

 田代はまともに他人とペースを合わせられない。合わせる気も無いし、合わせたら田代ではなくなってしまうだろう。それはとても不幸なことだと、俺にもわかる。

 俺はどうなのだろう。不幸なことになっていないか。

 大学卒業後、俺は一般企業で数年働き、適性をよく考え、普通の暮らしとお天道様の下から独立することを決めた。田代とは、今も付き合いが続いている。主に、合鍵の違法作成などで。

 無料で飲める何杯目かのお茶を啜って物思いに耽っていると、サークルの部室が集まる建物から陰山直人が現れた。ようやく当たりだ。人相を掴むまでずいぶん時間がかかった。鞄を掴んで立ち上がる。

 アカウント名「肉バーガー」の持ち主は陰山直人という学生だった。M大学理学部物理学科の二年で、趣味の天体観測の写真を淡々とSNSに投稿していた。武光がこの学生の、正確には投稿した内容の、どこに興味を持ったのかは不明だ。投稿内容を見ても、俺には知識が無さすぎて何が書いてあるのかわからない。

 兎にも角にも、依頼されたことは武光を詮索することではなく陰山の素性調査だ。住所や交友関係がわかれば、芋づる式に過去を暴ける。陰山は大学構内、俺の少し前を歩いており、こちらに気付く様子はない。

 と思ったら振り向いた。

 こちらも慣れたものなので、いちいち取り乱したりはしない。素知らぬ風で別方向に歩き去る。

 彼、挙動不審だな。それとも、尾行される心当たりがあるのか。どんな大学生だ。ひょっとしてファンクラブがあって、そのメンバーから付き纏われているとか。

 無いな。どう見ても三枚目、四枚目の面だ。

 引き返して様子を窺うと、陰山はさっきと変わらぬペースで歩き出していた。用心して、遠巻きに後を追う。こんなとき人手が欲しい。公安なんかは一人を本気で尾行するとき数十人を動員するという。怪しまれないように万全を期して尾行することは、本来それほどまでに難易度が高い調査なのだ。

時刻は十八時を過ぎていて、辺りは暗くなってきた。大学といってもこの時間になると人気が急激に少なくなり、その点で言えば尾行に不向きだと言える。自分を隠してくれる雑踏や街中こそ、最も尾行しやすい。

 気付かれないように距離を取って後を追う。今日、住所まで特定する必要はない。どちらの方角へ帰るのかわかれば、次はそこから先へ、さらに次でもう少し先へ、と繰り返すことで自宅を特定できる。

唐突に、陰山が建物に入った。たしかあの建物は、一年目の学生が教養科目の講義で使う部屋が集まっていて、この時間帯は使われていないはず。待ち合わせだとしたら押さえるべき場面だ。陰山の交友関係はほとんど情報が無い。

 俺の背丈を越える巨大な空調室外機の陰で思考を進め、適度に間を取り、音もなく後を追った。陰山の足音を頼りに二階、三階へと追っていく。廊下や講義室は暗く、夜の学び舎特有の気味悪さが広がっていた。小学生だったら間違いなく踵を返すと思う。

 三階の大講義室のドアが開いていた。内開きの両扉が片方だけ開いていて、一部の照明が点いているのか、薄い灯りが漏れている。あそこか。待ち合わせ相手の気配はない。ならばどこかに身を隠し、待ち伏せた方が良さそうだ。

 四階へと続く階段に身を隠し、一息ついた。

 これほど辺鄙な場所で待ち合わせる相手とは誰だろう。荷物も少なかったから、ここで天体望遠鏡を使うわけでもあるまい。ついつい職業柄、下品な想像もしてしまう。女教授と不倫しているとか、許されざる関係の逢引だとか。

 そうわかりやすければ、調査も報告も方針が決まって楽なのだがな。

 武光の依頼は、大抵いつも取り留めない、掴みどころのない調査結果に終わるものだから、成果が出せているのか不安になるのだ。この前だって、……この前って何だったか。

 思考を遮る、小さなキュッという足音がして、神経が張り詰めた。階上からだ。待ち合わせ相手も下から来ると思っていたが、上からだったか。足音は近いが、まだ間に合う。

 音もなく身を翻して階段から廊下に逃れると、一瞬前までしゃがみ込んでいた場所に何かが落下した。振り返ると、落下物と目が合って心臓が跳ねた。

 女だった。

 階段という不安定な足場にも拘わらずしっかりと着地し、目は俺にまっすぐ向けられている。左手には刃を黒く塗られたナイフがあった。暗がりの中、前髪が垂れていて顔はよく見えない。

 頭の中でアラートが鳴り響くより早く、女の左手が揺らいだ。

 屈むようにして走ると、頭のすぐ上を風が通っていった。階段から一歩で突いて来やがった。この女、猫のような敏捷性を持っている。

 背中から感じる僅かな足音と気配で、女が足を止めているとわかった。振り向いて確認するのももどかしく、そのまま大講義室へ走り込んでドアを閉めた。サムターン錠があったので回して鍵をかける。あのナイフでは扉は破れない。時間は稼げるだろう。

 考え無しに突っ込んできてくれればドアに挟めて楽だったし、そうでなくとも動きが読めて反撃できたが、相手は落ち着いている。じわじわ、確実に追い詰めるつもりだ。

 体に巻き付けていたバッグの隠しポケットからバタフライナイフを取り出した。黒草将司、副業は探偵、本業は殺し屋。興信所を隠れ蓑に殺し屋を営む、あまり隠れられていない一国一城の主。

 武光に気に入られるまで、財務は不安定だった。

 ドアを背にして大講義室を眺めた。据え付けられたデスクと椅子が何十個も並び、後ろから前へ、段々と床が低くなっていく。一番前には、一段高くなった教壇と教卓、そしてマイクスタンドとディスプレイ、巨大なホワイトボード。

 肝心の、陰山直人の姿はない。

 隠れられる死角だらけではあるが、状況を考えればここにはいないだろう。明らかに、俺はここに誘い込まれた。ドアを開けておいたのは、陰山がここにいると俺に錯覚させ、足を止めるため。不意打ちに失敗した後、逃れた俺をここに閉じ込めるための誘導も兼ねていたわけだ。

 まんまと転がされた。あの女、明らかに普通じゃない。

 この絵を描いたのが陰山にしろ、あの女にしろ、この場に陰山が残っている意味はない。尾行は勘づかれていた。こちらの目的もおそらく分かっている。陰山直人を特定するために大学内で聞き込みをしたので、俺が嗅ぎ回っていることを勘づかれ、逆に誘い出されたのだ。

 となれば、俺に残された選択肢は多くない。逃げる、撃退する、殺して帰る、三択だ。尾行継続は最早無理。

 さらに嫌な可能性に気付いて舌打ちが出た。陰山もしくはさらなる伏兵がこの部屋に潜んでいないとも限らない。据え付けられたデスクには天板と、膝隠しの板が付いており、身を隠すにはもってこいの造りになっている。外からあの女が、内から伏兵が挟撃する計画だとしたら。

 考えすぎと甘く見るわけにはいかない。命が懸かっている。既にこちらの想定を超える危機なのだ。陰山と女の素性が不明な以上、最大限の警戒をするしかない。

 逃げたい。だがここは三階。飛び降りて怪我をしない保証は無い。二階から飛び降りても無傷で着地する自信はあるが、三階は微妙な高さ。足を骨折でもしたらそれこそ致命的だ。敵にとっては労無く俺を追い詰められる。それなら正面きって戦われる方が嫌だろう。

 別の出口を探すが、出入り口は俺の背後にある一か所のみ。逃がさないよう、ちゃんと考えられている。

 今のところ、ドアの外から音はしない。今のうちに、伏兵が潜んでいないか確認した方が良さそうだった。向こうの出方を予測する情報がないと裏もかけない。

 そう思い、意識を背後から前方へ移したのが功を奏した。静かに開く窓に気付き、そこから顔を覗かせた先ほどの女と目を合わせることができたのだから。

 背筋が凍る。

 最初から、一つの窓の鍵を開けていやがった。

 二度目の奇襲に失敗した女はゆっくりと入ってきた。窓の外には、キャットウォークと呼ばれる狭い足場がついていることがある。それを伝って、ドアを介さず大講義室に入って来たというわけだ。

 ずっと感じていたことだが、地の利は向こうにある。

 全身を現した女は、カーゴパンツにジージャン、足元はスニーカーというラフな服装だった。長すぎない黒髪を後ろで括っている。薄い化粧でも映える整った顔に、ナイフを軽く握って真っすぐ立つ姿が酷く似合っていた。

 落ち着きすぎでしょ。まったく最近の若者は。

 今日は探偵のつもりだったから装備が貧弱だ。小さなバタフライナイフ一本と、拘束用の結束バンド数本しかない。あとは財布、メモ帳、筆記用具、スマートフォン。武器にはならない物ばかり。

 女が一気に間合いを詰めて突いてきた。のけ反って躱す。追撃をフットワークで避け、デスクに飛び乗った。浮島を飛び移るように、デスクからデスクへと跳ねていく。講義室の中央付近で振り向いた。

 女もデスクに上がっていた。一歩一歩、講義室の前に進んでくる。悠然とする女と対照的に、俺は首をぐるぐる回して伏兵を探す。うっかり近づいて足を切られてしまっては一巻の終わりだ。

「どうして彼を調べているの」

 唐突に、女が足を止めて声を出した。俺にはもちろん守秘義務があるが、交渉できるなら悪くない。

 問題は、戦闘態勢、索敵、交渉、逃げる算段、四つ同時進行なんて、おっさんの頭じゃパンクしてしまうということだ。

「そう依頼されたからだ」

「誰から」

「それは言えない」

「そう」

 話を切り上げられそうだったので、慌てて引き留める。

「待て、こっちも聞きたい。お前は何者だ。話によっては、こっちも譲歩できる」

「譲歩」

 女が目を逸らすことなく、口だけで繰り返した。実際、ここで俺を殺したとしても、次の調査員が来る可能性はある。むしろ、目的によっては陰山のマークはきつくなる可能性もある。この女は間違いなく一般人ではない。俺と近い側の人間ならば、その辺の計算だってできるはずだった。

「私は、あなたと同業者かな、多分」

 どっちの同業だろう、などと考えるまでもない。本業の方に決まっている。

「陰山の護衛か」

「いや、彼女なだけだけど」

「なるほど」

 青春だねえ。彼氏のためなら人殺しもいとわないってか。というか殺し屋が彼女なら、陰山はほぼ間違いなく一般人じゃないな。武光に報告できる材料ではある。

「ベテ、ベ……」

「ベ?」

「ベテラ、いや、いい。星が爆発した現象、あっただろ」

 まだ口に出して言えない。書けと言われても難しい。外国の言葉は難しすぎる。

「あったね。それが?」

「そのときの写真を、陰山がSNSに上げた。そうだろ」

「ううん、どうだろう。多分、したんじゃないかな」

 彼女なのに曖昧だな。まあ、恋人の趣味に詳しくなるかどうかは、カップルによるか。

「その写真を上げたアカウントの持ち主を探していたんだ」

「どうして」

「理由は俺も知らん」

 本当に、まだ見当もついていない。こんな状況でなければもう少しまともな出まかせも言えるが、こっちの処理能力は既に稼働上限だ。

「その理由がはっきりしないと、直人君が安心できない。知っていることを洗いざらい話して」

 吐ける情報など、依頼主についてくらいしか残っていない。それを漏らせば、ここで生き残っても評判が落ちて廃業だ。最悪、武光が雇った別の殺し屋に延々狙われる。不利な状況だが、この女と戦った方が数倍ましというもの。

「お前が話してくれたら、推測しようもあるんだがな。陰山直人は何者だ」

「何者でもないよ。私にとっては神様からの贈り物だけど」

 一瞬、女が目線を宙に浮かせた。人は何かを思い出すとき視線が上へ向く傾向がある。暗かったが、僅かに視線が動くのが見えて俺は蹴り出した。講義室後方、ドアに向かってデスクを飛び移る。

 瞬時に女が反応した。俺が後方へ行くには、女の脇を通り抜ける必要がある。さすがにそこまでの隙は無い。だから俺は、女が近づいたタイミングでデスクを飛び降り、天板に沿うようにナイフを振った。今、俺の手は女の足に近く、女の手から俺までは距離がある。通常、戦闘は高い場所にいる方が有利だが、今回は急所ではなく足狙い。ナイフの斬り合いならば、こちらのリーチの方が長い。

 ナイフは空を切った。女は俊敏に数歩飛び退き、カーゴパンツに傷すらつけていない。見事な反応だが、充分な隙だった。俺は講義室の後方へ走る。ドアは施錠されていて、開錠、開扉の手順を踏んでいては確実に追いつかれてしまう。しかも扉は内開き。

 だから、曲がった。

 女が入って来た窓に向かって。ご丁寧に開けてくれている、その窓に。

 俺は窓から飛び出した。キャットウォークを飛び越え、さらに先へ。

 そこにあるのは、巨大な空調室外機。俺の背丈よりも高い、業務用の機械。そこに着地すれば、衝撃を約一階分、小さくすることができる。

 金属がひしゃげる音が響いた。俺は被害を気にするよりも先に地面を目指してもう一度ジャンプする。アスファルトの感触が足裏に届き、三階を見上げた。窓からは、あの女が忌々しげに顔を歪めてこっちを睨んでいる。ホラー映画なんかよりもよっぽど怖い絵面で、俺は鳥肌をさすりながらすたこらさっさと走って逃げた。

 女は追って来なかった。理論的には俺と同じルートを通れるはずだが、ひしゃげた室外機に着地するのはリスクが高い。それに、俺は人目につく場所に向かっている。間に合わないことは明白だった。

やれやれ、命拾いした。俺の代わりに壊れてくれた室外機の弁償なんてさせられたらと考えると、ある意味死ぬより怖かった。


     ◇


「ということで、失敗です」

 翌日、俺は報告するために武光邸へ伺った。武光は今日もトレーニングをしていて、執事は紅茶を出してくれた。

 相手に警戒されては、もう尾行はできない。あれほどやばい彼女が近くにいては、調査員を追加派遣することもリスキーだ。陰山の素性を暴くまでに何人が怪我をするかわかったものではない。調査は打ち切るのが妥当だろう。

 俺の失敗報告を聞いても、武光は顔色を変えなかった。ランニングマシンでピッチを刻みながら言う。

「ともかく、君が無事で何よりだ。陰山直人に関しては前金のみとなってしまって悪いがね」

「いえ、失敗したことは事実ですから」

「代わりと言っては何だが、普段は企業秘密にしていることを聞いてもいいかな」

「何でしょう。答えられることであれば」

「どうやってアカウント名meatburgerが陰山直人だと特定できたのかね」

 調査の経緯は隠すことが多い。法に触れることもあるし、苦労して身につけたノウハウでもあるからだ。

 だが、今回はまともな成果を提出できなかった負い目がある。前金分くらいは話した方がフェアだろう。

「ええと、元になった投稿を辿って……、あれ。どうしてだったかな」

 武光がランニングマシンを緩め、歩きながらこちらを見た。心拍数が上がる。適当な調査をしているわけではないと説明せねば。個人事業主は信用が第一。

「あれ、いや、違うんです。たしか、フォロワーから辿ったような。……誰だっけ」

 紅茶を持つ手が震えた。俺はたしかにmeatburgerが陰山直人だと確信して張り込んだ。食堂から陰山を見たとき、何の疑いもなく後を追った。そう、あの女も直人君と言っていたから、それ自体は間違っていない。なのに、そこに至った経緯が思い出せない。

「黒草さん」

 気づけば、執事が俺の傍に椅子を持ってきて座っていた。

「申し訳ありません。嘘ではないのです。ちゃんと、ちゃんと調べました」

「嶋田と申します」

「は?」

「私の名前です。きちんと自己紹介したことがありませんでしたね」

 執事は真っ黒な髪を一撫でし、俺の手の紅茶を平手で勧めた。

「落ち着くためにも、一口お飲みください」

「……はあ」

 にこやかに言う嶋田の目に、これまで見たことがない光があった。

「黒草、詳しく聞かせてくれ」

 武光もトレーニングの余波で息を荒くしながら、嶋田と同じ目で歩み寄って来た。これは、好奇心か。

「君はどこまで覚えていて、何を忘れた」

 嶋田が立ち上がり、走った。この人が走るところを俺は初めて見たので驚愕する。十秒後、彼は会議室に置くようなホワイトボードと共に戻って来た。

 武光が満足そうに微笑んで、二人はずいっと俺に詰め寄って来た。

「黒草、もしや君は「遣い」に会ったのではないか」

 武光が調査しているものに、手がかかった気がした。



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