彼女の幸せは一瞬にして崩れ去った。そしてすぐに気持ちを切り替えた。
「わかりました。アーノルド様はこのまま木の陰に隠れていてくださいまし」
小声でそう告げると、ずっとこのまま抱きしめられていたかった気持ちをぐっとこらえて、ゆっくりとアーノルドから体を離した。そして、剣の柄に手をかけ後方をじっと見つめる。
茂みがガサガサと音を立てて揺れている。はっきりと姿形はわからなかったが確かに何かが移動している。
それが人ではないことは分かった。
ゆっくりと地を這うようにして動いているような、そんな感じだった。
リディアはその動きを目で追っていく。あと少しで茂みの切れ間。そこで何が動いているのか確認できる。
「ピピッ!」
彼女の目に映ったのは、可愛い声で鳴く体長三十センチくらいの耳の長い小動物だった。
体の色は茶色でぱっと見、愛くるしいのだが魔物の一種だ。普段は農作物を食い荒らすぐらいで人間に危害を加えるような凶暴さはない。
「……ラビティです。魔物の中でも特に問題ない類のものですね」
ふうと軽く息を吐き、リディアは剣から手を離す。振り向くとアーノルドもほっとした表情でラビティを見つめ呟いた。
「魔物……ね、こうして見るとただの動物にしか思えないんだけど」
「そうだ、せっかくなのでレベルを上げるために倒しておきますか」
リディアが再び剣に手をかけようとするのを見て、アーノルドが首を横に振る。
「いやいや、別にこちらが何かされたわけではないからね。魔物といえども無闇に倒すのもどうかと思うよ」
「ですが……」
「それよりも、もう少し先に進んでみようか。他の勇者たちに会えるかもしれない」
そう言って、アーノルドが動き出そうとしたときだった。
「おっ、魔物発見! 退治する!」
茂みの向こうから誰かの声がした。
それが他の勇者のものであることはすぐに分かった。
「君! 待つんだ!」
アーノルドが飛び出し、そう叫んだが遅かった。
勇者と思わしき人物が剣を振るうと、鈍い声とともに青い血しぶきが宙に舞う。と同時にラビティの体から黒い煙のようなものが出てきて、彼の腕輪の中に吸い込まれていった。
「ちぇっ、レベル上がんねぇな。もう少し強い敵じゃないとだめか」
そう言って、彼は剣についたラビティの血を振り払い何処かへ行ってしまった。
アーノルドの前には、青い血で染まった地面と無残に切り捨てられたラビティの死体だけが残った。
人間に危害を加えていない、ただそこにいただけの魔物を一方的に殺すことが正しいのだろうか。
確かに、最近の魔物の凶暴化から魔王退治の御触れが出たことは事実だが、今回の一連の流れは何か間違っているような気がしてならなかった。
「……なあリディア」
「……はい」
「僕たちは、これからこうやって魔物を倒していかないといけないのかい?」
リディアもアーノルドと同じ感情を抱いていた。
先ほど「レベルを上げるために倒しましょう」と言っていた自分が恥ずかしくなった。目の前で息絶えているのは、見た目はただの動物と同じ。
勇者が一方的に魔物を殺す姿を見て、何が正義なのか分からなくなった。