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7 - 実践においてのみ問題なし

 川面が自ずからきらめきを装っていた。スラシーン市の西を流れる川は名をトマヴァ川と言って、王国随一の大河川アラ川の支流であることを誇りに思ってか、行き交う人々の流れが作りだす微風めいてゆるやかな蛇行で河岸に断崖をいくつか用意していた。イジーとダーリャがいま、朝の終わりに見下ろす草地はその一つであって、数年に一度は大雨で氾濫する川流れに飲み込まれてしまうことを街灯から放たれる光の一粒に至るまで知っていたから、わざわざそんなところに小屋でも建てて住もうというひとはよほどの貧困に違いなく、しかしその貧相な小屋はあるひとを雨風のやっかみからはなすことができると知っているらしく金襴緞子に身を包んでいるかのように恭しく佇んでいた。ダーリャが無理やりイジーを外に連れて行くのだからこの小屋の流壊される日と姿とを見ることは無いのだと思うと、彼は不意に安心と罪悪感とを同時に覚えた。

「どこに行くにせよ、この街スラシーンから出るなら列車を使うのが道理でしょう。それを踏まえて、上りと下り、どちらがよろしい?」

「おれに選択権が?」

「あると思えばあるし、無いと思えば無いわ。それで3択よ、うちひとつが上り、残りふたつが下りよ。上りはフェケテヴァール市。近道なら山越えね。峠を通る汽車は無いから、途中で降りて残りは馬車を行くことになるわ。下りはチェルヴァプラジョフ市か首都リーブアで、首都に行くにせよチェルヴァプラジョフ市は経由するから一度様子を見るわ」

「王国外は嫌だな」

「ならフェケテヴァール市は除外。下りね」

「そんな簡単に決めていいもんなのか?」

「いいのよ。どこだって分家があるわ。そこに本家のわたしの名を出してみなさい、私を丁重に扱わねばどうなるかわかったものではないもの、何も気にすることは無いのよ。あなただって私のおこぼれに預かってもよいはずよ、スラシーン市ここでは雇っていないけれど、貴族といえばふつう付き人のあるものでしょう」

ダーリャがなぜそうしていなかったのか、という疑問はそれこそ川が流れることほどの当然さを帯びてイジーの脳内に生起したが、それを問うても面倒だけが残るように思われた。

「欲を言えば、王国外は嫌、どころかこの街から出るのも嫌なんだがな」

「それはだめよ。せっかくあなたが手駒として馴染んできたところだというのに、ここで手放せばならないだなんて惜しいわ。どうしても嫌だというのなら、雇用条件の交渉ぐらいになら応じるけれど……」

「おれをつれてきたいんだろ、ならいい」

「そ。決裂したときに備えて使しておく必要が無いのは、あなたにとっても、いいことよ」

イジーはぎょっとしてダーリャの方へ顔を向けた。ダーリャの顔はいつものような雲海から下界を見下ろすのが愉快であるかのような薄ら笑いではなく、粉を白く固めて作ったような真顔だった。

「冗談を言うんなら冗談らしい顔をしてくれ」

「あら、冗談だと思った?」

イジーの眉には少しだけ力が込められたが、それで皺が起きるほど眉間には寄らなかった。ふと見れば、ダーリャの口元には杳々としたその微笑が姿をとうに取り戻していて、ここまでの直前1分だけはすべて白昼夢であると語っているように彼には見えた。

「……で、行くのはいつなんだ」

「今日にでも。支度しに帰りましょう、早いほうがいいわ」

「は?」

「衣服は必要ないわ、あちらで用意があるはずよ。真に必要なもののみ持ってきなさい。支度が済んだら私の建物アパルトマンに来ること。客間にいればいいわ」

「もっとこう……手順ってもんがあるだろ、あれだ、切符はどうしてんだ、まず列車に乗るには要るだろうが」

「コトラール家はクヴェトスラヴァ王女鉄道の第3位の株主よ。より正確に言えば家長、すなわちブロニスラフお爺様が、だけれど」

イジーはもはやダーリャの言うことを疑問に思うことそれ自体を疑問に思い始めていた。確かに、最初に脅された手段は勝手知ったるものだった。当たり前だ。腕を持つひとで腕を持ち上げることを知らないひとは無い。魔法を遊びにでも使ったことがあれば、知っているように思われ得る。だからといって、それが本当に同じように意識されているとはまったく保証されるものにはならない。

 おおよそ一週の間に、会話を重ねたり、街を案内したり、あるいはものの蘊蓄を垂れたりしたために、あたかもダーリャはイジーとすっかり対等で、理解可能で、それがために軽く見てもよろしいように思われていた。イジーの視線はまだトマヴァ川の上に注がれていた。流れる水は、しかし水であって、掬えば期待通りに水としての振る舞いをする。当然だ。ただし、その水がどこからやってきたのか、イジーには知る由もない。分水嶺のわずかにこちら側に降り注いだ雨が山を下って川に飛び乗ったのだろうか? もしや昨日の雨の一粒が今の今までどうにか川底にしがみついて、いまようやく流れていくところなのだろうか? それとも想像さえ及ばないような……たとえば、もしかすると忽然現れた異界の水なのだろうか?

 イジーは雪に半身が埋もれたときのような薄らぼんやりした恐怖を想起した。そうであるべきものがそうでないということは、あってはならないはずのことだ。それなのにどういったことだろうか、ダーリャはイジーの理解の及ばない背景を、雲間に月の時折見えるようにちらちらと提示してくるから、そのたびにイジーは怯えなければならなかった。そのような月光の前ではもはやそうであるべきであるという想定は何にも及ばず、すべてのものがあってはならない方に倒壊していく。そのようなとき、雷鳴はハープの音色になってもよい。溶岩は木漏れ日であってもよい。王冠はこっそり双子のもう片方にすり替えられていてもよい。イジーは、それらが当たり前になれば疑問を覚えるにはあたらない、ということに気がついた。

 大して整えるべきものもイジーには無かった。確かに親の遺産としての住処はあったが、ここ一週間彼は使っていなかったし、そうする必要も感じられなかった。財布をポケットに放り込めば、立派な「イジー・ヴォジーシェク」がそこにはあって、何をする必要ももはや無いと取り巻く空気までもが証言できた。

 そうしていれば、ダーリャが準備を整えて馬車を呼びつけるまではすぐだった。ダーリャは家を大っぴらに表す紋入りブローチを付けていたが、あとの空気はすべて前の通りに眠りこけているようではあった。そうは言っても彼女の全身はやはり上流階級然として有色の差異が目を塞いでも見えてくるようで、なぜ同じ馬車に横並びで乗っているのか道行く人が疑問に思っていないとはイジーには到底思われなく、とはいえ疑問を覚えることが不合理であるのだという確信によってむしろ馬車内の空気はたわんだ綿糸のように無害化されていた。

 道は馬車を街の外まで案内した。車輪はかたかたと道上の石礫に驚きながら車体を運び続け、車体は馬たちに身を任せながら駅に向かってしたたかに突進しつづけていた。市街が途切れて木々が現れてもなお道は途切れることを知らず、駅はその姿を2人の眼前に現した。駅舎はインクの壺に漬けられたような黒色をしていた。イジーは瞬間、威嚇を受けたように思われた。ただし、駅はひとびとを内包していたから、そのような意図など路傍の石ほども持ち合わせてはいなかった。

 馬車を降りて駅舎の暗がりを奥に持った口を見ると、そこから人の出てくるのも見えた。制服に身を包んだ郵便局員だった。空にしてきたのか、それともいま詰めてきたのか、どちらかは知らないがとにかく鞄を横に抱え、手紙やら小包やらが黙りこくりながら輸送されることに甘んじているはずであった。曇りの夜空ほどに特筆すべきことの無いような、その局員は極めて普通の歩き方をしていたから、それがすれ違ってからは振り返るほどの動機は心中のどこにも影さえ見せなかった。そうしてイジーとダーリャは影まで駅舎へ飲み込まれた。

 鉄路は伸び放題になっているようだった。駅舎を経由せずとも見えていたそれは、しかし一度門をくぐったことによって実際に2人に関わりのあるものとなったように思われた。なるほど、ダーリャが少しばかり何やら話せば2人の一等切符が用意されてしまったのだ。イジーはその間ずっと後ろ姿を眺めていればそれで済んだ。なるほど、なにかをするべき者はダーリャだけなのだ。ここに来て、なお一層のことイジーは自分自身のことを閉じきった客車か何かであるように思われてきていた。なぜだか機関車に牽引され、あるいは押出されることによって鉄路沿いにずんずんと、竹の伸びるよりも速く動いてやることができるのだ。ただ、なぜそれを壊れていないものに取り替えないのかだけがわからなかった。

 そして、次の列車は一時間もせずに来るようだった。

「私は待合室にでもいるわ。あなたは……」

ダーリャの視線はイジーの爪先まで一通り走査してからイジーの目に戻ってきたが、留まるべきものの無かったことに困惑してか、またもう一度だけ走査した。

「……ずいぶん軽装ね。今ならまだ往復しても間に合うでしょう」

「いや、いい。持ってくほどのもんは大して無い」

「そう? チェルヴァプラジョフ市までは2、3時間はかかるわ。本でも道連れにした方がいいのでは無くて? 物売りならそこらにいるでしょう、流行りの小説でも買えばいいわ」

「ああ、まあ、気が向いたらそうする……おれはこのあたりでも見てくる。じゃあ」

足は駅舎の門の外へと突進した。しかしながら吹く風は気分を変えなかった。足は影の外へと突進した。しかしながら差す陽光も気分を変えなかった。左手に浮く太陽の方へ首を振って見上げようとした。眩しさは眩しく思うことしかイジーには感じさせなく、首を戻せば暗点だけが残った。

 今のところ、イジーは何やら美しい小石を拾ったようにしてダーリャというイニシエータに紐を付けられて振り回されているように思われていた。振り回されている分には悪くはない。小石だって路傍から日夜を見上げるだけで時代を過ごすよりも空を切った方がよっぽど楽しいというものだ。ただし、ここで小石であるところのイジーはもちろん独立した一個人であるはずだし、然るに遮二無二歩くことでその繋ぐ紐がどれほどゆるいものなのかを確認することも可能であってよいはずだと思われて、そして歩いてきた先には建物が道を塞ごうと先回りしていた。そのぐるりを周ってみれば門扉の鍵がイジーをそれこそイジーの歩き得たはずの道を閉ざしてすまないねと言っていた。脇の看板はそれが石炭小屋だと言っていた。

 イジーの進路は跳ね返されて、それは線路へ突き当たった。突き当たったので、一度ばかりそのレールを蹴飛ばしてみた。踏面の銀色は、人の蹴りのひとつごときを何の意にも介さず、音一つさえも出してくれなかった。爪先ばっかりが痛めつけられて、それなのに線路は南へ遠く山の中へ、隧道へと消えていくものだから、あまりにもばかばかしかった。

 イジーは北の方へ振り返った。そちらにもやはり線路は長く伸びていた。消える先は見通せない。どうせ森の中ではあろう。

 チェルヴァプラジョフ市はどれほど先にあるのか、いまのイジーには考える必要もないように思われた。半日の後にはどうせその場にいるのだから。


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