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6 - 四角・四面

「そういえばあなた、大学になんて行っていたのね。魔法はどこで鍛えたのかしら? 学生有志の体操サークル?」

「……まあ、そんなところだ」

「歯切れが悪いわね。何、門前で肝を小さくしたかしら。もし腰が抜けたようであれば、ここで待っていても私は構わないけれど」

大学の門というものは、いつ見てもその門前に立つ小心者を選んで地獄に送りつけるような顔をしていた。鉄柵の一本々々が無用な高笑いを繰り広げていた。アーチが居丈高に2人に視線を遣って、その上で無視を決め込んだ。飾り柱の上の彫像が白々しく陽光を浴びて門をくぐったすべての者を否応なしに引き倒そうとしていた。流れる風もおそらくそうで、奥に見える尖塔から恢々とした眼差しで2人を弾き飛ばすかそうするまいか決めかねていた。

 ダーリャは門をくぐった。イジーが気づいたときには、彼もまた敷地の中にあった。振り返ってはペルセポネーと同じ目に合わされると確信した。直進し続けたことを大地が評価してか、尖塔のもとへたどり着いてもなお冥府が現れることは幸いにも無かった。

 さて、大学とは存外に部外者も受け入れるところである。尤も、大学それ自体が意気地なしにも無際限に受け入れてしまうのを阻止するために門があるのであって、石と銅と鉄の番犬がこの象牙の塔への闖入者すべてを見咎める役目を果たしていた。従って、認められたからにはもはや押し留めるものはダーリャには見つけられなかった。それはイジーの内心にだけあった。

 大学なのだから、もちろん、そこに所在できるような者はよほど才に恵まれたか、よほど社会的立場を持っているか、その二つに一つだ。過去のイジーは後者だった。今のダーリャはどちらかわからない。そして、今のイジーはどちらでもない。つまり、本当であれば門扉はイジーを蹴飛ばしてクレバスに落とすのが正当であったはずなのだ。土石がいまイジーを挟んで砕いていないことは、ひとえにダーリャの威光に拠っていた。

「伝手があるっつっても、もしやもうその先生センセがいなくなってるかもわからんからあんま期待すんなよ」

「大丈夫よ。私の肩書があれば十分。まだその先生がいらっしゃれば話も早いだろうから楽だけれど」

イジーは横を歩くダーリャを見て、目と眉が疑問を代弁した。

「ご覧なさい、ロケットの刻印が家の紋よ。見覚えあるかしら? 領地はここから離れているからわからなくても責めはしないわ」

「……なるほど、貴族か。道理で家を……まて、貴族の子女が夜道には様があったって許されんだろ、身売りか?」

「失敬ね。私は成人しているわ。自己判断によってこの街まで来て、自己判断によってあなたを巻き込んでいるのよ。そしてお金と権威を用いているのは、単に使えるものを使わないのは損だ、というだけのこと」

「おれみたいな卑賤の輩と付き合ってていいのか?」

「時代はすでにそのようなことを要求しないわ。それに、あなたは私の被雇用者よ。立場で言えば付き人と変わりないわ。しかしあなた、貴族の家の出ではないのね。実業家の子かしら? それとも才能を評価された苦学生?」

「……そのうちわかる。ほらダーリャさんや、受付はすぐそこだ、応接室に通してもらえ」

そのような話をしている間もずっと、飾り壁の大理石も、その奥にあるであろうレンガもモルタルも、そこから見上げて角にある木製の飾りさえも聞き耳を立てていたには違いない。ダーリャがイジーを2歩分置いて受付へ話しかければ当然道を開けた。

「はじめまして。マース・モチェ伯ブロニスラフ・コトラールが孫娘、ダーリャ・コトラーロヴァと申す者です。あちらは私の帯同者のイジー……姓は何と言ったかしら」

ダーリャは顔だけイジーを振り返った。

「ヴォジーシェク。……姓も要るのか?」

「帯同者はイジー・ヴォジーシェク。よろしくお願いしますね」

受付の応対はすばやかった。もし廊下の飾りたちに異論があったとして、それを言うよりも早く案内は始まったし、言い終わるよりも早いであろう到着だった。そして2人だけが部屋に残され、だれか立場のあるひとの来るのを待つこととなった。

「立派な出自だろうとは思ったが……伯家とは思わんかったな。お貴族様の中のお貴族様だろ、そんなん。孫娘がひとりでぶらついてていいわけないだろ? どういうことだ?」

「さきほど言ったわ。私は成人していて、判断能力が十分にある。それ以上の理由は必要かしら?」

「……いや、あるだろ。親に心配かける」

「だから、私は親の所有物ではないの。定期的に手紙は出しているわ。それ以上を求めるのは不合理よ。それとも何かしら、といえば家族の絆、みんな集まって高い館は大賑わい、とでも? あなただって少しぐらいは貴族と相まみえたことぐらいあるでしょう、それと少しも変わるところは無く、それでいて私はすこしばかり自身を信頼しているだけよ」

そう言って、ダーリャは息を吐いた。部屋のどこからも物言いは聞けなかった。

「……なあ、マース・モチェってどこなんだ? 地理に強いつもりはないが、にしたって聞き覚えが無い」

「伯領をすべて覚えようと思ったら日が暮れても暮れたりなくなるわ。そうね……」

部屋の中には詰めればおおよそ4人ほどを包容できそうなソファが机を挟んで向かい合っていた。その片方はまだ空気のみを座らせていた、もう片方にはイジーとダーリャがいた。机はくろぐろとその威容を滝のごとく流出させても涸れること無しといった様子で、その明らかに異国の出身の木材が惜しげなく使われた天板には万雷の拍手が浴びせられて然るべきと2人に堂々宣言していた。それを背景にダーリャは指を滑らせ、少しばかりの線を描いた。

「スラシーン市がここであるとすれば、西に流れるトマヴァ川がこれでしょう、北に流れてチェルヴァプラジョフ市でアラ川に注ぐ……のは流石に知っているわね? ……よろしい。そのアラ川を北東に遡れば、それほど大きくない街だけれど、ヴェースカというのがあるわ。そこをめがけて西から注ぐ小さな支流を遡れば、しばらくしてマース・モチェよ」

「……つまりどこだ?」

「あとでもう一度訊きなさい。地図を描いてあげるわ」

「そこまでの興味は無いな」

そう、とだけ言ってダーリャは沈黙した。するとイジーも当然話すことなど無かった。2人が静かになれば、時計の振り子のきっかり1秒に2回喋り続ける音が部屋に響き渡っていた。ほかの喋り声もあるはずだ。窓の外からだろうか。壁だって2人の目には話しかけている。では話しかけていないものは無かった。イジーは首を動かすのも億劫で、ソファの背もたれへもたれかかった。天井の石模様の固着した踊りの痕が見えた。そうしてしばらくの膠着の後に、空間を埋め尽くす接着剤をすべて斧を振り下ろして割るようにして扉が開いた。

 その人はイジーを知らなかったし、イジーもその先生には見覚えが無かった。そして会合は速やかに完了してしまった。ダーリャの尋ね物は明々白々で、その先生もダーリャがお高い貴族の階級を提示したからにはという程度に大学のお偉いさんであったらしいが、しかしその仕事の間隙をひとつ潰せば魔法の実用先ぐらいの情報はそれがどんなに足が遅いといっても完了してしまうものだった。

 種々社会性のための挨拶やらにこやかな礼儀やらをダーリャとその先生とが繰り返す間、イジーは半分固まっていた。おそらく先生の方はイジーを単なる付き人とみなしていたに違いない。それほどに所作はイジーの理解を離れて独立的な文脈の中にたゆたっていた。何かすこし真似でもしようと思うとそれは猿真似になってむしろ非礼となるように思われて、イジーはひたすら固まっていることをよしとした。良ければ論文は図書館に、と言って先生が去れば、また部屋の中は2人の眼差しで充満し、イジーは溶けた。

 その足でダーリャはすぐさま大学を飛び出していった。もちろんイジーも追従する。部屋は何事も無かったかのようにまた呼吸していることだろう。図書館は2人を迎えようと茶菓子をつまみ食いしているかもしれないが、残念ながら来ない客である、本と論文とは静かに棚の上を時間で埋めていくことだろう。そうしていの一番に向かった先こそ、その先生に示唆された先、彫金屋の、その外面の飾り棚であった。

「懐かしいな……」

イジーはそう漏らした。地金が所狭しと並んでいる姿があって、彫金師たちの技術の真髄としてのその金属たちの組体操が少しだけ展示されていた。珍しく写真によっているものもある。どこだかの男爵家のだれかの依頼によって作ったとする首飾りと、身に着けるはおそらくその人であろう写真が、自信無さげに色をくすませて、しかし立てられていた。

「あら、家業はこういうものだったのかしら」

「いや……大学でちょっと。だから少しなら見てくれよりも深く分かる……とは思うが、まあ、本職が目の前にいて何が言えるか……」

「ふうん。なら、これは?」

「見ただけじゃわからん。説明札は無いのか? ……ああいや、これは純銅だろ。表面に薬剤を吹きかければ色が簡単に出るし、合金にしなければまだ柔らかく加工も簡単だ」

「魔法は?」

「……純銅も、純金と純銀もだが、十分に柔らかいから加工にわざわざ魔法を求めん。銅を金に僅かに混ぜると、加工次第で飛躍的に固くなることが知られてるから、もしやってるとしたらそのあたりだろ」

魔法を行使するのは、単純に疲れることだ。金槌によって銅板を打ち続け、最終的に矯めて目的の形を得るのは、慣れればなんということもない。腕を重力に任せて振り下ろすことに人間はそう力を使うほどの設計をされていないのだ。この一方で、魔法はどんなに小さく使おうとしても一度は紙を握りつぶすような力を込める必要がある。それならばいっそ一時に力を爆発させてしまったほうが爽快というもので、だから体操クラブなどで競技になる魔法技術も的当てや決闘といった形になるのだった。

「もしやこれかしら。きっとルビーでしょう、なのに見慣れない光り方をしているわ」

「それは……スピネルじゃないか? 光り方は……わからんな。小さすぎて見えん」

「スピネルにしたって変よ。職人さんに尋ねる? 扉を開けばいるでしょうよ」

「いや、いい。最近見つかった新宝石かもわからん。もしそれが本当にスピネルだったとして、光り方を少し変えてるだけだ……うまいこと内部に傷でも付けて壁にしたんだろう。それ以前にもっと上手いカットを開発しただけかもしれんしな」

そうしてその赤い宝石、土台は淡い黄色のホワイトゴールドが意味ありげな顔をしていたにもかかわらず、結局は2人の興味の対象として残り続けることに失敗した。飾り棚に嵌められたガラスの裏の鉄格子も嘲笑しているのだか哀れんでいるのだか、自分がどちらかだと読み取るのは難しかった。

「なるほど……そういうことなら、ここにおいて私が見るべきものはもはや無さそうね」

「っつったっておれの推測だぞ」

「いいわ、どうせここ一つが有用だったとして、スラシーン市の残り大半は無用なのよ。何か進展が取れるとしても、それは大したものにはなり得ないわ。出ましょう、この街を」

「……おれは嫌だが」

「あなた、本当に反対する理由あるのかしら? 大学のために来た都市、しかもアカデミアには残っていないひとが、果たしてその街に骨を埋めたいようには思われ得ないわ。あと一生ここに帰ってこないわけでもないわ。ちょっとした旅行よ。それにそもそも……」

「……おれが雇われだ、ってか」

「そうよ。まあ意気地なしの荷物を連れて行っても仕方ないから、もし本当に絶対嫌だ、と言うのであれば残ってもいいわ。それによってどれほど機会損失を被るかわからないではないでしょう?」

か?」

「ま、ゆっくり考えなさい。行く先を決めるのには2日ほどかけるわ。どこにしようかしら。やはり外に出るといえば首都リーブアだけれど、安易に過ぎる気もするわ。そうなれば、大都市……チェルヴァプラジョフ市でもいいし、フェケテヴァール市でもいいわね。あと、ほかだと……」

イジーは額に手を当てて軽く俯いた。太陽光線を遮った右手は、しかしイジーのすべてを守るには小さすぎるように思われた。

 しかしながら、もし始めから守ろうとしないならば十分な大きさかもしれない。

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