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5 - 我らが街

 何度か強硬にイジーが徒歩を主張した結果、結局、ダーリャも空を吹き飛んでいく代わりに地面をとつとつ歩いていくことに同意した。実際のところ、飛行という曲芸に昔から習熟していたダーリャと違って、イジーはそこら中に雷撃かみなりをばらまくはた迷惑な種類のスプリンクラーになっていた。ひとに直撃させてしまえば、無論大事だ。そうでなくとも建物が雷撃かみなりを浴びて少しになって、それがために面倒が増えても面白いことは何もなかった。ただ、朝からずっと、ダーリャの言うことすべてに対して何度も何度も鎚撃を加えてやっと圧し曲がる鉄のごとくに反対の姿勢を毎度々々見せるイジーに疲弊した、という面もあるには違いない。そういうわけだから、スラシーン市内を散策するのは次の日ということになった。

 次の日になってみれば、昨日空の道を使わなかったことに嫉妬でもしたかのような薄曇りが広がっていた。雲の顔色自体は明るく、雨降りのそぶりは無い。そのような曇りであればむしろ眩光にも誰も彼も悩まされずに済むのだから、この空模様はむしろ嫉妬ではなく感謝として解釈されるべきであるかもしれない。

 2人の寝床はもちろん街の中にあって、日常的な移動もするのだからその道すがら何があるのかぐらいは把握されていた。より正確に言えば、イジーにとってはそうだった。いま2人がその前に立っているところの店は、どんな街にだってあるであろう金物屋の、スラシーン市におけるそれである。イジーは寝床からの近さからまずはここだろうと提案していた。それにダーリャが芳しくない反応を返すので、もしやと思い、彼は行く道沿いにあるものを少し指摘してみたのだった。そのどれにも、ダーリャは指摘されて初めて気がついたかのような反応をしていた。

 ひとつは革命戦争の戦火の中でも生き残ったが、よく見ればどこかに銃弾が埋まっている、という伝説のある松の大樹だった。よく腰を曲げて道の屋根になっている松にしてはずいぶん謙虚なことに、その木は奥ゆかしく肘を突いて、その体躯を背後の屋敷の庭へと預けていた。外へ喧伝するほどのものではないが、市民なら大多数が知っている、スラシーン市の名物のひとつであった。

 ひとつは益体もない、ただ管理が諦められたためにそのくすみをアピールし続ける責務を負わされた看板だった。おそらくは諦念と健気さが混ざり合って展示に文句も憤慨も見せず、ただ通る人々に「あの管理人は何をしているのだろう」と思わせることが主題になっていると思ってもよいような、従って注目する価値は本来的に無い、そういうものであった。

 どちらに対しても、さながら水に浮力のあることを発見した幼児のように、ダーリャはやや距離を取った注目を浴びせていたようにイジーには見えた。

 して、金物屋というものも至極普通の金物屋、以上のことを言う必要は無かった。2人が何を探しに来ていたのかといえば、曲芸には見出され難かった魔法の社会実装可能性であって、魔法を直接に応用した製品が見つかるのであればそれが大きなヒントになるには違いなかったし、もし見つからずとも解決の緒の一つや二つ程度わけはない、とダーリャは高を括っていた。

 店頭に並ぶ金物たちは無垢にダーリャの恨めしい視線を喜んで浴びていた。なるほど、金属加工技術それ自体には見るべきものがある。圧延だろうか、鍛造だろうか、あるいは鋳造だろうか。なるほど優れた価格のやかんだ。ナイフ研ぎ承ります、という札も奥の壁に貼られている。自ら生活を構築しなければならない庶民にとっては素晴らしい店なのだろう。ただし、そこに魔法の影を見出すことはできなかった。

 どの製品も、魔法でなければ達成できない加工を持たなかった。もしや職人は補助的に魔法を使っているのかもしれないが、明らかに重要視される度合いは低い。魔法を一切使わずとも、あるいは何らかの自動人形ロボットがそうしたとしても完成させうるもののみが並んでいたからだ。さらに言えば、大多数は鋳造品であるようだった。鋳造はひとの操作する部分が鍛造と比べて格段に少ない。それがために、なお一層のこと魔法の介入できる余地は少ないように思われた。

 次は革細工屋だった。これもイジーが提案し案内したものだった。どちらかといえば工房と注文承り口が一体化しているような古典的な店舗であって、そこには少々の展示部品――仰々しく飾りの付けられた革の装丁の本、どこだかの貴族の紋章の入った馬用の鞍垂れ (予備だろうか?) 、剣の柄に付けられた革紐、そういったものが並んでいるのみだった。何やら話をしにダーリャが入っていったのでイジーはその間外で待っていたが、彼女が不満げな顔を湛えて戻って来たのは吹いた風が市内を一回りして戻って来るよりも早かった。

 そしてその次は本屋が窺われた。今度こそダーリャの提案であったが、それはまあ、大学のある都市の本屋なのだから魔法について論じた何やら小難しい本なら簡単に見つけられはする。ただし、そんなものは奥の棚の奥に埃とどちらが商品なのかわからないような陳列のされ方をしていた。こういう種類の本を書くのは大学の教授ぐらいなのだ。そして参照したいのも大学の教授とその取り巻きぐらいなのだ。象牙の塔の外にどれほど効果があるかは定かではない。そういうことをイジーは知っていた。だから、こんなところで買う人はだれもおらず、ただ店頭で毎日大部が売れ続けていく新聞たちの喧騒を遠く聞きながらまどろんでいるよりほかにすることも無かろう彼らの、その安らかなるを叩き起こすべくもなかった。

 最後には肉屋にまで足を運んだ。勿論万策尽きたダーリャに対してイジーが冗談半分に提案して、しかしすべきことも無かったために受け入れられてしまったものである。そして、予想されていたことをまったく覆すことは無かった。肉は赤かった。赤色が溌溂に自らのエーテルを世に伝え続けていた。そして、それ以上のことは何もしていなかった。

「……まだよ。まだこの街のすべてを見たわけではないわ。イジー、あなた、他に場所を提案しなさい、まだいくらかはあるでしょう?」

「まともなのは無えよ。金細工と宝石屋ぐらいだろ。それとも別の肉屋、別の金物屋、別の革細工屋、とでも見ていくか? おれはそんなのは無駄だと思うが」

ダーリャの顔はイジーの不誠実を詰っていた。確かにこのスラシーン市は王国首都のリーブア市に比べれば何分の一の大きさも無い。しかし一人の人間にとってみれば、何万人という人々の住む都市というものは恒河沙の数え切れぬがごとくに到底その全体を事細かに把握できないような大きさを持っていて、それがためにイジーがそこで情報を打ち切ったということは何かを伏せているに違いないわけがない。少なくとも、ダーリャはそう内心で断じた。

 彼女はイジーの方を振り返らずに歩きを始めた。長々降り続く雨に時折威嚇するように枝葉をざわめかせる大樹の、その騒がしくなったときのような歩き姿があった。しかしその行く先は無方向的であった。先ほどまで2人が立っていたのは表通りからは比較的遠かった古い市街であって、いまダーリャの足が向いている方向こそは銀行やら何やらの立ち並ぶ、つい最近舗装も新たになった、その表通りである。しかしながら、そのようなところに魔法の実際的な応用を発見するのは望み薄だった。産業革命は、魔法を無視して花開いていた。

 ふと、ただ単に両脇には民家しか無い、ただの道の最中でダーリャが足を止めた。そう思えば、一瞬の後に道の上の大気はイジーを正解へ揺すり起こした。そこは2人が遭遇した場所だった。

「あるはずよ、こういう場所が。いくらでも。あなたが知らないと言うのなら、探し当てるまで。それまでは付き合ってもらうわ」

「ああ……面倒くさいな」

「為したあとの利益を思いなさい。そうすれば、行動の負荷など何でも無いでしょうに」

「ただなあ、俺だってなんもかもを知ったわけじゃないが、それで何も見つからんかったら、ダーリャさんよ、あんたはどうするんだ?」

「少なくとも1つの有益性はすでに発見しているのよ。もう1つかそれ以上があると期待することは無理なことではないわ」

「なんだそれ。そんなのあったか?」

「……あなたよ。魔法に通暁した市民。単に雨滴の観測を行おうと思っていただけだったあの夜は、控えめに言って僥倖に巡り会えたと言うべきね。物は買えても専門知が無いのはどうしようもないわ」

「……なにかその、ってやつを提供した覚えは無いんだが」

「一つには、これからそうしてもらうという部分があるわ。そしてもう一つには……代表例としては飛行のことでいいでしょう、あのような高度な魔法制御を実践に移し、またそれについて感慨を得ることは、訓練を経ていない人々にできることではないのよ。その点ですでに発揮していると言っても過言ではないわ」

イジーにはダーリャのことがわからなかった。確かに、もはや狂女とみなすのは不可能だろう。だからと言って彼女がなにか至上の命令権インペリウムでも持っているかのように振る舞っていることには変わりが無い。では便利な道具とでも思っているのだろうか? 道具を脅しつけて働かせようという法も無いだろう。そうなると、やはり一定程度は狂っているのか? そのような仮定を考えてやる義理は無さそうではあった。

「だからって市内の一軒々々全部訪ねて潰していく気か? 老衰するのとどっちが早いかね」

「そうする価値だってあるに決まっているわ。賭けに負けたとしても、それは私……たちの人生の、すべきことを為して結果空振りに終わっただけのこと。それで毀損される幸福は無いわ。それで、賭けに勝てば? どれほど魔法が花開くことでしょう、どれほどの幸福が生まれることでしょう! そうなれば負けの無い賭けよ。なぜ疑問を付する必要があって?」

「だからダーリャさんよ、その幸福ってのの宛先はどこだ? 実際にやることは何だ? 魔法で最強にした剣を振るって王国のために、人民のためにでなく奉仕するか? 高度に理論化して象牙の塔の中のお題目をひとつ増やすか? それとも人類の可能性を開いたとしてその話を喫茶で一生管巻いていくか? どれだっていくらかは幸福が増えるんだろ、そうしたい人がいるってんなら」

「可能な限り多くの人々に、可能な限り多くのことを、よ」

「何も決まって無えんじゃん」

「……認めましょう。ええ、そうよ。私は何も決められていない。それは魔法に対する知識の不足のみならず、産業に対する知識と感覚の不足に多くを負っているわ。それは改善されなければならない。それで、十分に感覚を身につけた後――」

「それだったら来るべきはスラシーン市じゃあ無いだろ、少なくとも」

ダーリャは俯いてイジーからはその眼が見られなくなった。イジーは軽く見下ろしていたが、数秒のうちに顔を空へ上げた。ダーリャのわずかな瑕疵に付け込んで彼女を糾弾した格好になったことをイジーはなるべく認めないようにしていたかったからだ。冷静に両者を比較すれば、イジーがダーリャに大敗することは木の葉の虫に食い破られた痕のように見間違える余地は無い――少なくとも、イジーはそう思っていた。

「……大学ならあるだろ、市内に。昔の伝手が……まあ、あるにはある。試してみる価値ぐらいならあるだろ」

「本当? ……いえ、先に言ってくれればよかったのに」

なら、イジーの方も、その心中の落ち葉で覆われた陥穽、それを案内しなければ不正義というものだろう。


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