天使と悪魔のどちらが勧請したとしても、イジーは断固飛行を拒否することに決めていた。彼にとり、言われていることはさながら神の祝福を帯びた水を浴びさえすれば矢も槍も、擲弾でさえも効かなくなるのだから恐れず敵の前に立て、というようなものに思えた。
ダーリャが安全を保証してくれるとは到底信じられない。グラスを床に落として割れないことに賭ける方がまだいくらか望み深いように思われた。では、イジー自身の腕によって身を守ろうとするならどうだろうか? 自身があるわけはなかった。試したことも無いのだ、台所に立ちもせずにパイが焼けると思うほど彼は迂闊ではなかった。では、精々痛みでひとを蹴飛ばすのが嫌になるであろうくらいの高さから飛び降りて試してみようか? わざわざダーリャのために?
仮にダーリャがその力に頼って胡瓜でも砕くようにしてイジーを掃いてしまおうと、そういう態度を示すことを予期してイジーは強硬な態度を取ったのだった。彼は強く拒否することによってダーリャがどの程度反応を示すか、それを探ろうとしていた。何度か言い争って、それでダーリャも麺棒を用意するようなら彼が両天秤にかけるべきものはダーリャの魔法から逃れられるか、あるいは飛行からの落下で生残できるかということになる。それなら練習をする、という妥協案も、渋々、本当に渋々、フライパンから玉ねぎだけを選んで退かすようにして提示できるつもりではあった。
ところがダーリャが取った戦略は、イジーからすると全く予想の外であって、すなわちいまイジーの立っている場所がどこかと言えばスラシーン市の北側の郊外の林の中であり、その上空には青空のほかに飛行中のダーリャがあってしまっていた。
2秒あたり3回ほどの軽い破裂音が上空から降り注いでいた。イジーはろくろく見上げてなどいなかったが、音の発する場所は情報として否応無しに耳に攻め入り続け、概ね彼のいる位置を中心に大きな円を描いて飛んでいることだけは理解されていた。その誇張された無邪気に綿花の弾けるような音は、確か魔法による直接の音ではなく、吹き飛ばされた空気が衝撃波を出すことによって起こっている……と、彼はむかし大学で習っていたときのことが瞼の裏に一呼吸の間かすめた。
弾音の徐々に近づいてくるのを意識は検知した。その方向に向き直って見上げれば、ダーリャ (であるに違いない人型のはずの物体) が急速にその詳細を明かしつつあった。つまりは、あれはダーリャであるはずだ、がダーリャであると思うのが妥当だ、になりついには目で見て明らかにダーリャだ、とまで発展していった。着地音が爆発音でないことが不可思議に思われたが、不当だった。
「してみせた通りよ。やってみなさい」
地面に無造作に置かれたパラシュートの外袋がダーリャに指をさされてはためいた。おそらく不服では無いようであった。
「できんとは言わんが、なんでこんなことするんだ?」
「いいでしょう、そういうことは。とにかくやってみてみなさい。そうしたら見えるものがあるわ。私を信頼しなさい」
「良くはねえから訊いてんだけどなあ」
「独り言であることは言葉遣いを糺さない理由にはならないわ。悪貨は良貨を駆逐する、肝に命じておきなさい」
イジーは答えずにパラシュートを背負った。
やるべきことは至極単純なものだ――魔法を高密度に出せば反動が感じられるのだから、その反動によって落ちるのを緩和し続ければよい。もっと言えば、魔法を出すときにはできるだけ分散を促進するように放つべきだ。飛行のために行使される魔法は飛行以外の一切に影響を与えないのが理想である。
とはいえ――強大な反動を帯びた魔法というものは、ふつう制御の困難をそのまま意味する。一体どこの誰が爆発によって吹き飛ばされながらまた自身を吹き飛ばすための爆発を用意できるというのだ。それをしなければならない、というのがつまりこれの要求するところだった。
簡単な手ほどきならダーリャから受けた。もちろん、風に叩きつけられた状況で魔法を制御できる道理などは無い。であればどうすればよいか? 単純に、滞空時間を長くすればそれだけ判断の猶予は伸びる。では、滞空時間を長くするためにはどうすればよいか?
イジーは目と翳した手の先にある土を凝視した。そこにはなにか特別なものがあったわけではない。ただ、その土は次の瞬間には
そう、自身を吹き飛ばすほどの大出力を出すのは、単純におそろしいのである。地に足を付けているのは当たり前のことであって、そうでない状況はありえない。どのような瞬間にあっても、立ち止まろうと思ってできないなどということはない。それを覆そうというのだ。知らない食べ物を口にいれる瞬間を何倍にも膨らませたような恐ろしさが夏の汗めいてついてまわらないわけにはいかない。イジーは一度深呼吸を試みた。そして腹から吹き飛ばされた。
彼は背中をしたたかに木の根の這う土の上に打ち付けた。痛みを感じたころにはもちろん何が起こったのかは理解できていた。彼は魔法を放とうとはしていなかった。まだ吸った息を吐いていなかったからだ。となれば、実行者はダーリャ以外に誰がいるだろうか。
「あなたができないというのなら、私が代わりにしてあげるわ。どちらが良いかしら?」
睥睨するダーリャの目は眩光を蔵しているように見えた。
「おかげさまでコツが掴めたってもんだ。おれ一人で十分になったさ」
彼は立ち上がり、そのついでに土を少し払った。そして、翳した手から、今度は自らの意志を吹き飛ばした。
足と土の間の力が消滅した代わりに、強烈な乱力が絶えずイジーの体を歪めようとしていたように思われた。しかしもう一度吹き飛ばした。力はゴリアテの腕を得た。彼はまだ落ちる段階には入っていなかった。けれども、落ちることは耐え難く思われた。落ち始めることが耐え難く思われた。止まることが耐え難く思われた。それでさらにもう一度吹き飛ばした。不意に視界は林の上へとすべてを見渡した。空の下にだけ緑があって、緑の下には何もなかった。それで、落ちる方に吹き飛ばしを与えられることもはじめて自然になった。三脚のすべてが同時に支持することで初めて安定となる椅子と同じであって、それが理解されたとき、イジーの内心には確信の灯火がゆらめいていた。
木々は緑だった。空は青と白だった。全天と全林が二枚貝の真似をしてイジーを包んでいて、違いがあるとすれば、その貝柱はその中を自由に飛び回る力をいままさに得たところだった、というほどのことだった。イジーは、それで、急にその全部が力を使わなくなったのを感じた。すると、次の瞬間には空が遠くなり始めた。林から離れるように吹き飛ばしてやると、足を引っ掛けて転ばす悪ふざけを空は彼を吊り上げる形で実行した。そしてそれさえも停止と落下が続くのだ。吹き飛ばしを弱めれば、吊り上げもやはり弱まる。なるほど結局はすべてがイジーの制御下で、つまりすべてがイジーの世界になっていた。
それから何発か吹き飛び、彼は盛大に着地に失敗して黒焦げの土をいくらか服と肌に飾り付けることになった。ざり、と鳴った。立ち上がらねばならなかった。立ち上がると、ダーリャの前であることにもかかわらず、彼はその双眸から純粋な喜びを放たずにはいられなかった。転がれば、林には黒さが少し、杯からこぼれた水の染みのように増していた。不可思議に思われたそれは、すぐに木のうち焼け焦げた部分だと理解できた。
「結局使わなかったでしょう、パラシュート。そんなに臆病では得られる機会も得られないわ」
「使ったか使わなかったかはどうでもいいだろ、おれが飛行しようとしなかったらあんたおれを打ち上げようとしてただろ、そしたらおれはもう錯乱しかできやしない、パラシュートをばっさ開いて一安心よ。切り札はいつでも使えるよう取っておくもんだ」
「あきれた。飛行してみた上での感想がそれ?」
「あー……なんていうかな、面白くはあった。林を上から見るなんてこたできん……できないからな」
「直接感じられたのではないかしら。世の広さと、魔法の可能性について」
イジーは虚を衝かれた。ダーリャがなぜ世界の話をするのか、その理路がわからないほどではなかった。つまりはこの飛行体験を樹に与える水として果を得んとしたわけだ。問題はイジーが樹であるかどうかにかかっている。確かに、彼は空中に浮き上がったことについて精神の高揚を――朝日にきらめく川面と同じ種類の光り輝く心を――覚えたに違いなかった。しかしそれは、
「いまこの世でひとびとが地面の上ばっかりを移動手段としているのには、個々人における魔法の非習熟が要因として多くを占めていると思うわ。歩くよりは遥かに高速で、馬車とも比肩する。大量の荷物を運ぶ必要があるのなら別だけれども、背負える程度なら構うことはないわ」
「あんたはこれを万人ができるように訓練するつもりだって言うのか?」
「そこなのよね。組織を扇動しても大衆を動員するのには無理があるわ。そもそも魔法運用において虚弱なひとたちは掬えない」
「じゃ、手詰まりだ」
「そうね」
それで無言になれば、森に跳ね返って遊ぶ音たちだけが残った。イジーはわざとらしく溜息をついてみた。しかし太陽が燦々輝くことをやめなければ地が割れるわけでもなかったし、ダーリャも直立のまま地面に手を突いて座るイジーを見下ろし続けていた。
「なあ」
「……やっぱり実際の現場を見なければどうしようもないわね。市内を見るわ。戻るわよ」
「なるほど」
イジーは雨粒の落ちるほどの速さで立ち上がって歩き去ろうと試みるだけ試みた。
「飛んで行けばいいでしょうに。私の話を聞いていなかったのかしら?」
「絶対に嫌だ。着陸しようとして街中にうっかり
「認めないわ。ここで適切な威力と拡散にできるまで練習していきなさい。それなら付き合うわ」
炭の香りのする木とそうでない緑のままの木とが並んで、傾きはじめた太陽を少し恨めしげに見上げているように見えた。その間に割り込んでやるというのも、イジーにはそれほど悪いことのようにはもはや思えなかった。