石畳の
歩みがそれも破壊した。靴音が鳴る。音が鳴る。音がすべての企みの隙間を突っ切って、すべての仮面の裏にまでゆく。もはや王は音の主だ。音の主とはすなわち誰だ。それは靴から発した音だ。靴はひとに履かれるものだ。履かれた王がどこにいるだろうか。ならば、靴を踏みつける男があった。ほかに簒奪者はいないだろうか? 郵便受けたちがきょろきょろと見回しても、どんな影だって見つけられないように思われた。いまこの瞬間におけるこの道の王、その男、その名前をイジー・ヴォジーシェクと言った。
夜の街を出歩く者が、果たしてどれだけ居るのだろうか。イジーはこの道にガス灯が設置されるよりも前のことを覚えていた。彼が育ったこの街が、まさに文明の光そのもので照らされるようになってから10年と経っていない。道々を掘り返してガス管を埋設する労働者たちのことを遠巻きに眺めていた、そんな風景の記憶が思い出されることもあった。
とかく、昔の夜道は仮面の内側だったのだ。月光が呆れがちに照らしていない限り、出歩くことなどできやしない。雲が月を消してしまう夜、今日のような夜であれば、出歩くひとにはよっぽど火急の用でもあるのか、そうでなければ――気でも狂っているのだろう、と思われるのは、道理のないことではなかった。
彼自身にとっては残念ながら、あるいは幸運にも、彼の気は至って正常だった。至って正常であればこそ、彼にはいま親の遺産を食い潰すだけの生活に甘んじていることが苦しく思われてくる。だから、狂人の真似でもすればおれも狂人になれるのではないか――そう思って、しかし光に満ちてしまっている道の中で、彼は歩みを進めていた。
行先など決めているわけがなかった。彼は為されない望みを抱いて歩いているのだから。勿論、ひとたび気の狂うことがあれば、彼は舞い喜びながら寝床まで帰ってゆくことだろう。そんな妄想の叶わないことは、やはりこれも勿論、彼だって薄々にでもわからないではなかった。そうだったとしても、幻を追うだけのやる気があるうちだけは、夜の道に出ていくたびごとに、彼は彼の靴を、脚を、胴を、腕を、首を、口を、眼を――従わせて歩く、と、していた。
しいん、しいんと降る小雨が彼にまとわりついて、日を沈ませるのと同じようにして彼を覆っていく。ぱしり、ぱしりと鳴る水たまりを彼は跳ね除けて、雲の散らされるのと同じようにして歩む道を闊歩する。彼にはできることがまだある。その残余がいくらかは、彼も雨も知ったことではない。知ったことではないのだけれども、雨は削るし、彼は盛り返す。湿りながら歩く、その綱引きはしかしいつでもイジーの負けに導かれていった。歩けば歩くほど、彼の中の幻はぼやけていく。現実だけがその明瞭さを増して、何十にも縁取りを帯びて脳内に、街灯に、雨雲に、靴紐に見出されていく。だから……どうしても、だめなのだ。
だめになったのならば、現実に帰るよりほかに道は続いていなかった。彼はそのことが悔しかった。口惜しかった。どんなに違う行先があるのではないかと探しても (あるいは探す振りをしているだけなのかもしれないが) 別の解が得られないこと、そのことにさえも憤懣遣る方無かった。存在物のすべては、その感情にさえも打ち勝ててしまっていたのだから。
目線は自然と石畳へと打ち下ろされた。光は照らす。雨水は流れる。石畳は光を豊潤に受け止めて、水の行方を導いていた。その流れに無秩序は無い。ただひたすら、一方からもう一方へ、ずっと同じように、ときどき暴れながらも、祭り行列の進むがごとくに。
来た道を戻るのは、ふつう、イジーに取って耐えられないほどの敗北だった。幻を追い求めた過程、まさにその道を逆行しなければならないのだから。夢を諦め、現実に向かって徐々に回帰する……そのようなことがあるとすれば、それこそまさに悪夢だ。だから、彼はうまいこと折衷する常套手段を持っていた。なにか自然なものに身を任せてしまうことだ。今日は偶々雨が降っていたから、水の流れが使えた。流れに乗ろうとして、どちらへ流れているのか、石畳の谷間が凝視に捉えられた。その流先は、彼がここまで来た道を指し示していた。
溜息がひとつ吐かれて、踵がふたつ回った。みっつ数えて彼の目線が上がると、その先には人影がひとつ目に入った。
気圧された音がイジーの擦られた靴底と石畳の間から鳴った。もう一度彼は目線の先を確かめたが、人影は消えてくれてはいなかった。気の利かないそれは、果たして何だろうか。狂人だとは思いたくなかった。イジーは偽物の狂人だ。本物の狂人と思しきものが
狂人でない可能性はまだあった。夜に家の中にいないのは、単に家を持っていないからかもしれない。物乞いなら雨の夜に体を冷やしていても、憐れみこそすれ恐るるべきものには到底なり得ない。そうだ、恐ろしくはないのだ。一目睥睨し、その後平然と横を通り過ぎれば、それですべては終わる。もしそれが物乞いなら、だが。
それ以外の可能性は? 一切無い、ようにイジーには思われた。まともな神経を持っていたらこんな夜中には出歩く道理が無い。それはつまり、一定程度社会から爪弾きにされるような輩だけが闊歩できる道の上だ、ということだ。そういう手合いをだいたい含む言葉こそが狂人だった。そして、そういう者のことを思うと、夜闇の中というイジーの空想の玉座は瞬く間に霧が晴れるようにして消え去ってしまった。
いくつかのことが彼の頭の中で湧いては消えた。ひとつ、あの人影に背を向けてもう一度進むべきだろうか。それでは背中を刺される気がした。ひとつ、見えていないようにして通り過ぎようか。その次には脚をかけられて滅多打ちだ。ひとつ、魔法で飛んで逃げようか。もとより選択肢ではない、そんな曲芸は。
暁の明かりが星々を覆い隠してしまうときに感じるのと同じ種類の心細さを彼は覚えた。身一つで立ち向かわねばならないことは明々白々で、何も味方は無かった。
人影がうごめいた。それは傘を持っていた。傘の影からその顔が見えるかと思われたが、まだ影の中にあった。雨はまだ降り続いていた。呼気が雨に打ち落とされつづけている。それなのにまだ、雨は降り続いていた。
不意に人影が光った。その手元だろう。この光り方は、赤子でなければ知っている、魔法を放つ際の余勢に違いなかった。息が吸われるよりも早く、イジーは跳ね返るように魔法防御を胸の前に開いた。ずどり、と大樹の弾けたような音が閃光と共にそこから湧き出たのは、イジーの感覚ではほぼ同時のことだった。あまりにも速かったから、人影から攻撃を受けたという事実に気づくのにはもう一呼吸が必要だった。
煙が流れ滑っていった。
彼の予想に反して、第二撃は現れなかった。もはや人影は光を放っていなかった。代わりに、その顔は爛々とガス灯の照らし出す中にあった。それは女だった。つまり、狂女だった。
「おい、おい、何しようって言うんだよ、おれがたまたま防御したからいいものを、お前これでまともに食らってみろ……」
「素早く正確な防御だったわ。素晴らしい。だから、
イジーの声は震えていたが、発しているものがどんな言葉かは分かる程度の震えに抑えられていた点については彼の努力である。それに比すると、その女の声は金冠のようだった。ほんとうは腕をひとつ振るえば打ち破れて然るべきなのに確固たるもの、そういうようにイジーには聞こえた。
一瞬の間の光熱の架橋が果たして二人の何を結び得ただろうか。狂女の思考はわからない、とイジーは思っていた。彼にとっていますべきことは、なんとかしてこの女を撒き、安心のうちに寝床までたどり着くこと、そのひとつより他にない。
「なあ、あんた、魔法を撃ちたいんだったら体操クラブにでも行きゃいいだろ、何を好きこのんでこんな真夜中に出てきてるんだ、やるこた何も無いだろうに」
「あなたはなぜ歩いていたの?」
イジーは沈黙した。説明の方途はあった、説明したくないというほどのものでもなかった。ただ、それはものすごく面倒なことのように思われた。しかし狂女の眼前だということはすぐに思い出された。なにかを言って誤魔化さねば、もしかすると次は命を落とす羽目になるかもしれない。だから口を動かそうとしたが――声は出せなかった。
「いま、あなたが身をもって理解しつつあること……そのことが私の理由よ。深夜ほど思惟に向いた時間は無いわ。だから人払いのつもりだったのだけれど……」
「なるほどな、それじゃあお邪魔しちゃあ悪いからおれはこのへんでお暇させてもらうか……」
「気が変わったわ。あなた、名前は何と?」
「……イジー。イジー・ヴォジーシェク。……ひとに向かって
「私はダーリャ。あなた、魔法には自信があるのよね?」
「まあ、それはそうだが」
実際、イジーはダーリャの放った光を自分でもよく防げたなと自分で自分に感心している節があった。それは、おそらく太陽が雲の合間に顔を出してから地上に影の現れる間の時間よりも早かった。それを下支えする魔法の自信も、無いと言ってしまえば大嘘つきになるほどにはあった。
「なら、あなた。私の企みに乗ったほうがいいわ。着いてきなさい、案内するわ」
そして、そんな自信など煙かなにかに溶けていてしまえばよいと思われた。叶うならばその煙に乗ってイジー自身も逃げ去りたい。なぜ雨の夜に出歩いただけでこんな災厄に見舞われないとならないのか、そのことを考える頭は不必要に蠢動していた。
「……何をするんだ?」
「まとめて資料を提示するわ。そうした方があなたの理解も早いでしょうし……雨の中で立ち話なんて、風情以外は何も残らないわ。それともあなたがここで風邪を引きたいとでも言うのなら別だけれど」
それから、ダーリャの
石畳の上をダーリャは行って、イジーは後ろを追っていった。角をひとつ曲がって、よっつの靴と水の流れとはもはや関係を持たなくなっていた。