アズナ第一区の管理ゲートを通過して車でおよそ二十分。ビル群を抜けると、前方には大きな『扉』が見えてくる。
その扉を観光バスのフロントガラスから確認した
「みなさまあちらに見えてきましたのが、本バスツアーの目玉である
マイクを通した声とともにツアー客たちは一瞬にしてどよめき、我先にと身を乗り出して窓の向こうを見た。
みなが勝手知ったる説明なんてきっと聞いている人はいないだろう。が、琴音はこれが仕事なので内心などおくびにも出さず笑顔で語った。
――ワルーア。通称、異界への扉。
全長およそ五百メートルにもおよび、この国ヒノガタの都会にそびえる巨大な扉。
観音開きのそれは重厚な装飾の施された石造りで、人力で開けることなど到底出来るはずもない。
ワルーアについては謎が多い。
この世界に存在するワルーアは全部で七つ。その一つはこのアズナにあり、今琴音たちの視線の先にそびえる
いつの時代から存在しているのか。使用用途も建造方法も一切不明。
分かっていることといえば、ワルーアを人力で開くことは不可能だということ。
そして、ワルーアが開いたその先には、こことは異なる全くの別世界が広がっている――その二つだけだ。
◆ ◆ ◆
琴音の勤める観光バス会社が開くバスツアーでは、ワルーアを目玉として扱っているが、なにも真下まで行ってその大きさをひしひしと感じられるわけでも、手で直接触れられるわけでもない。
ワルーアから半径二十キロの距離は、『アズナ第一区』として完全な警備体制のもと厳重に人の出入りが管理されている。
人々の恐怖心をなくし、一定の親しみを持ってもらいたいという政府の意向によってこうした観光ツアーの許可はおりているが、指定された公道を走り、指定区域で一時的に停車して離れた位置でバスの中から眺める。
それが許された一線であった。
もちろん扉をくぐって異界に行くことなどできるはずもないし、実際に扉が開くのはごく稀なことで、それは誰かが意図して開いたわけではないという。
(こーんな離れたところから。しかもバスの窓から眺めるためにそれなりのお金を出してツアーに参加するんだもんねえ……)
いつも通りの観光時間――もといツアー客の撮影タイムとなった停車したバス内で、琴音は窓にへばりつく人々の背中を見ながら内心でぼやいた。
「なんて顔してんのさ琴音ちゃん。自分だって初めてのときはああして興奮してたろう?」
「
運転手の中年男性――山路は、皺の多い穏やかな顔をさらにくしゃりとして笑っている。
子どもを見るようなそのぬるい視線のせいで、自身の初仕事を思い出してしまった琴音は背中がむず痒くなる。
「一応仕事中でしたから……それなりに節度は持ってたと思いますけど……」
そりゃ解説に隠しきれない興奮が混ざったのは事実だが、その高揚感は今ツアー客たちが抱えているものとはきっと毛色が違うはずだ。
「ワルーア管理局の面接に惨敗して、わざわざワルーアの観光があるからってうちのバス会社に入ったんだろう?」
筋金入りのワルーアオタクだねえ、と若者の情熱が眩しいように山路が笑顔で頷いた。
「やめてくださいよ。そんなんじゃありません……ただワルーアに近い仕事がしたかったんです」
その理由は、なにも世の中の人が抱えているような異界に対するキラキラした憧れや夢のようなものじゃない。
ワルーア管理局の求人にことごとく大敗を喫し、なんとかワルーアと関わりのある職をと血眼になって探し当てた求人だっただけに、面接にもその必死さは無自覚に現れていたようだ。
そのおかげでこうして働けてはいるが、同僚たちからはこんなふうにからかわれるのが常だった。
「まあ落ち込むことないよ。ワルーア管理局ってものすごく倍率高いんだろう? 選ばれたエリートしか行けないって有名だからね」
「……はーい」
からかわれた最後にこうして慰められるのもお決まりの流れだ。
耳にたこができるほど聞いてきた台詞に、琴音は少しうんざり気味に返事をした。
こうしてスタッフが雑談をしていたところで、ツアー客たちはワルーアを近くで見られる数少ない機会に夢中だ。
わいわいと眺める背中を見てから、琴音は拗ねたようにふいと窓の外――ワルーアとは反対側に広がる荒野とその置くに並ぶ無機質なビル群を眺めた。
このアズナ第一区に居住者はいない。一区内に入れるのは許可を得た観光ツアーなどの一時的な滞在者かワルーア管理局の人間だけだろう。
ワルーアから半径二十キロが第一区と定められているが、内側の十キロ圏内は荒野であり、外側の十キロ区域はワルーア管理局の本部となっているのだ。
ワルーア管理局とは、その名の通り
国内の治安維持を努めるのは警察官だが、異界関連のさまざまな出来事への対処はワルーア管理局によって行われる。
異世界にかかわる、具体的な詳細は不明の国家公認組織。
人というのはそういった日常とかけ離れたなにかに深い関心や興味を抱くらしい。
ワルーア管理局の求人は圧倒的応募者多数、かつ採用はごく少数という熾烈な競争が毎年のように繰り広げられているのだ。
数え切れないほどの応募数なのに書類選考はなく、全て面接でのみ結果が出される。
都市部を数メートル歩くだけで、ワルーア管理局の面接に敗れた誰かと出会える。――そんなふうに噂されるほど人気で、そして狭き門なのである。
(どうせエリートでもないし、特別ななにかなんて持ってないですよ……)
目の前の窓ガラスに映るのは、少し拗ねたように口を尖らせた若い女性だ。
胸元近くの微妙な長さの茶髪をお団子にまとめた平凡な容姿。強いて言うなら愛嬌があると言われるぐらい。
(あと特徴と言ったら、ちょっぴり赤っぽい目かな)
といっても、それは茶色の虹彩が光の加減でそう見える……程度のものだ。
特別頭がいいわけでもなく、特技と言えば人より力が強いぐらい。誇れるようなことなどなにもない。――それが天音琴音だった。
(こうやって眺めてるだけで終わっちゃうのかなあ)
みんなが夢中になっているのをいいことに、頬杖をついてため息をついた。
遠くで眺めているだけなんて嫌に決まっている。
琴音にはどうしたってワルーアの先に行きたいという願望があった。
しかし、現状はただのバスガイド。これ以上ワルーアに近づくことも、ましてや開き方の分からない扉の向こうなど夢物語でしかない。
あーあ。我知らず再びため息が漏れそうになったとき――。
「お姉さんもワルーア好きなの?」
不意に近くで呼びかけられ、手のひらから顔を滑り落とした琴音は慌てて姿勢を正した。