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第22話

 黙って花音を見つめていた律が息を呑む。視線を落とし、何かをためらった後、意を決したようにまた顔を上げた。


「……花音。確かめておきたいことがあるんだけど……」


 そのとき、ドアの奥で何かがこすれるような音がした。ハッとして顔を見合わせる。

 警備員に見つかったのかもしれない。花音が思わず律に近寄ると、彼は素早く口を耳元へ寄せた。


「僕が気を引きつけるから、隙を見て逃げて。アサギマダラの庭から外に出られるから」


 こうなることをすでに予期していたのだろう、抜け道を説明する律の声は冷静だった。一方、花音はそこまで落ち着いていられない。


「う、うん。わかった。……でも、律は?」

「僕は慣れてるし大丈夫だから。あ、でも、これだけ、邪魔だから持ってて」


 律は白衣を脱いで花音に渡すと、それだけ言って離れていこうとする。花音は慌てて律の制服をつかんだ。


「待って! 律、さっきの話の続きは!? それに、あたし……お礼も何もしてない!」


 ここで別れたら、きっと二度と会うことはできない。お互い名前しか知らないのだ。一週間後には、海を隔てた先に花音は行ってしまうのに。


 一日にも満たない時間だった。けれど、何にも代えがたい特別な時間だった。


「……そんなの、いらない。向こうにいっても、元気で」


 律は背中を見せたまま、花音に別れを告げた。


「……律……っ!」


 涙が勝手にあふれてくる。驚いたように律がふりむいた。


「花音? なんで……泣くの?」

「だって……。もう、会えないの? せっかく会えたのに……」


 とめようとしても、次から次へと涙がこぼれていく。必死に涙を拭う手を、戸惑いつつも律が優しく握り、もう片方の手でそっと目元をなぜた。


「僕も、花音に会えてよかった。……手紙、書くから。住所、どこかに置いていって」

「――……っ」


 のどが苦しくて声が出せない。嗚咽おえつをこらえて花音が頷くと、律は一歩後ろに下がった。無言で二人、見つめ合う。

 それ以上、言葉を交わす時間はなかった。律はドアノブに手をかけると、振り返らずに廊下へ飛び出す。


「――あっ、やっぱり屋上に誰か――おい!?」


 ドアの向こうでくぐもった声と足音が聞こえたが、それはまもなく遠ざかっていった。



 風が吹き、白衣がはためく。閉じたドアを見つめながら、まだぬくもりの残る白衣を抱きしめる。

 誰もいなくなった屋上で、花音は涙声でつぶやいた。


「律……、嘘ついて、ごめん」


 その声は、風に乗せられ、森の中へ運ばれて消えた。


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