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第21話

 夜のとばりがあっという間に降りて、空に見える星々も、町中の光も、圧倒的な量となる。


「――ああ、そろそろ始まるよ」

「え?」


 花音が聞き返すのとほぼ同時に。

 屋上にしつらえられた鐘塔から、突如として音楽が流れ出した。

 誰もが一度は聞いたことのある曲。荘厳なクラシック。


「うちの夕方のチャイムはこれなんだ。この曲は――」

「……知ってる。この曲ならわかる。小さい頃、何度も聞いて――………!」


 説明をしようとした律を遮って、花音が震える声で言った。

 屋上の鐘が鳴らすのはカノン。パッヘルベルが作曲した有名なもの。

 複数のパートが同じ旋律を奏でる、シンプルなのに神秘的で美しい曲。


 ――花音。あなたの名前は、あの人がつけたのよ。


 今、思い返せば幸福としか言い表せない、何も知らなかった幼い頃。

 めったに家にいなかった父のことは、顔も、声も、もはや覚えていない。

 けれど、まどろんでいたあのとき、頭をぎこちなくなでていた大きな手。

 そして、あの頃よく部屋で流れていたメロディーは覚えている。


 ……ああ、そうだ。


 花音は両手で顔を覆った。

 なぜきれいなものを見て、むなしく感じてしまったか。

 花音の疎外感。そして、律の感じていた不自然さの正体が、今なら判る。


 世界中の絶景を写した写真。心をわしづかみにするような妙なるピアノの調べ。一口でとろけそうになった美味な食事。可憐ではかない蝶の群舞に、人の技術の粋を集めた様々な書籍……。


 半日以上かかって、様々なものを見た。毎回毎回、これでもかというくらい心を揺さぶられた。

 彼の集めた綺麗なもの。美しいもの。その中で圧倒的に足りなかったもの。


 ……大切なものの中に、娘である花音がいなかった。


 父親としての贈りものなのに、そこに父親の姿がなかったのだ。


 思い出したくなかった。

 他のみんなが当たり前に享受していた両親からの愛情。それが自分には与えられていなかったと、気まぐれな一瞬にすがりつかなくてはならないくらい飢えているのだと、思い知らされるから。

 父を憎みきれなくなるのと同じくらい、それが恐ろしかったのだ。


「あー……。あたしって、女々しいなあ……」


 宝石が詰め込まれた宝箱の中に一緒に閉じ込められてしまったかのような、そんな現実離れした風景の中で。

 花音は律から顔を背けながら上を向いた。笑い飛ばそうとしているのに、声が揺らぐ。律に伝わってしまう。


 花音は無理に大きく息を吸った。律にはきちんと伝えなければならない。冷たい空気が肺を満たし、少しだけ感情の揺れ幅を抑えられた。


「大っ嫌いだけど。本当に大っ嫌いだけど! ……これが、あいつが一生かかってあたしに見せたかったものだって言うんなら、仕方ない。もらってやるかな」


 隣で、律がハッとした気配がした。


「……ごめんね。ちゃんと言わなくて。でも、全然悲しいとかないから気にしないで。あいつさ、離婚した後もあっちこっちふらふらして、最後はさ、アメリカで事故に遭ったんだって。だから、四年三組の最後の星って言葉は、手紙じゃなくて、遺言書に書いてあったの」


 ――私の娘、天宮花音には、「六星花学園、四年三組の最後の星」を譲る。


 何で稼いだのかは知らないが、いつの間にか資産家となっていた父親は、私立の高等学校を創立し、運営を人に任せて、それからも好き放題していたらしい。


「……遺言、書……」

「……うん。それが何かすごい宝石とか、権利書とかだったら、即放棄してやろうと思ったんだけど」


 夢ばっかり追いかけていた彼らしい、全然現実的ではない遺産。形はなく、ただそれゆえに美しく心の中で灯り続けるであろう、学園での記憶。


 だけど、だからこそ受け取れる。


「許すわけじゃない。父親だなんて認めない。だけど……あたしのことを思った一瞬があったことだけ、信じてあげる」


 これが、最大限の譲歩だ。亡くなったからといって、長年抱いていた確執を全て流せるわけではない。生きていたときのことは、生きているうちにしか許せないのだ、きっと。


 けれど、本人はもういない。その代わりに、黙って聞いてくれる人がここにいる。

 苦しさに負けて投げ出しそうになった背中を押してくれた人がいる。

 どんな答えでも、律は待ってくれると言ったから。

 少しだけ、こんな風に思ってきた自分も許せる気がする。


 花音は、律と正面から向き合った。目が赤くなって情けない顔になっていてもかまわない。最大限の感謝を笑顔にのせる。


「――律、ありがとう」

「――……」

「律がいなかったら、あたし、何もできなかった。律に会えたから、後悔しなくてすんだ。ほんとに、全部律のおかげだよ。あたし、律に会えたのが――、一番、嬉しかった」


 最初に会えたのが律でなかったら、どうなっていただろう。

 他の生徒や教師に事情を説明しても、わかってもらえたとは思えない。

 奇蹟のような偶然をかみしめながら、花音は精一杯の言葉で、律に伝えた。


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