他の人がいるかもしれないということで、保健室に花音は入らなかった。階段の壁にくっついて様子をうかがっていると、しばらくして、律が一人で出口に現れた。
「あの……ごめん、あの瑠璃って子、大丈夫だった?」
おそるおそる近づいていく。律は先ほどの激情が嘘のように穏やかな雰囲気だった。日陰で薄暗くなった廊下を並んで歩く。
「たいしたことなかったよ。保健の先生に任せてきたけど、かすり傷だったし」
「……そう。それは良かった」
腕を放しただけとはいえ、彼女のケガには花音も関わっている。ほっと胸をなで下ろしていると、突然、律に手をとられた。
「そういえば、花音は大丈夫なの? あの人、先に手を出したのは自分だって言ってたけど」
「えっ、そうなんだ……」
ずっと目をつり上げていた勝ち気な女子生徒。怖い印象しかないが、案外フェアな性格なのかもしれない。
ちゃんと謝りたかった、と考えている間も、律は長い指で花音の手の甲をなぞり、ケガがないか確かめている。急に恥ずかしくなって、慌てて手を引っ込めた。
「あ、あたし、ケガなんてしてないから!」
「え、でも……」
律にまた手を取られないように背中に隠す。さっきまで平気で手をひっぱったりしていたのに、自分でも不思議だった。
「そ、それより……、ごめんなさい。あたしのせいで、大騒ぎになっちゃって。……迷惑かけないって言ったのに」
反省してもしたりない。優しいからといって、律に甘えすぎたのだ。そのせいで、彼らの日常にいらぬ騒動を巻き起こしてしまった。
「あれは花音のせいじゃない。……あの人達、ぼくで遊んでるだけだから」
気だるげな声音で言う律に、花音はかぶりを振った。
「でも、あたしが来なければ、あんなことにはならなかった」
「……や、たまに、いきすぎてあのくらいのことは……、花音?」
花音の様子がおかしいことに気づいたのか、律がいぶかしげに向き直った。
西向きの窓から夕陽が差し込んだ。短いようで長かった一日が終わりに近づいている。
「律。ここまでつきあってくれてありがとう。でもあたし……、この辺でやめようと思うんだ」
律が驚いたように目を見開く。その顔を見たくなくて、花音は
「だってさ、もうこんな時間じゃん。午前中から始めて、何時間やってるんだって話だよ。ソッコーで終わらせるつもりだったのに、こんな時間になってもまだ終わらないし。律をこれ以上つきあわせるわけにはいかないよ。もう下校時間なんだし、帰れなくなる前に、帰って」
花音はあくまで明るい声で続ける。けれど、律の気遣わしげな表情が視界の端に映っている。
「僕のことは……いいよ。寮だから近いし、抜け道も知ってる。だけど、花音はそれでいいの? 結局、お父さんの暗号の謎、ちゃんと解けないままになっちゃうけど」
「……。……そんなの、ないんじゃないかな」
花音は視線を落として、口をひき結ぶ。
「あいつのことだから、きっと、人を振り回して楽しんでるだけだよ。他人の気持ちなんて考えないで」
目を閉じても、父親の顔も思い出せない。昔の写真を見ても、なつかしいという感情すらわき上がったことはない。それがとても腹立たしくて――同時に、罪悪感も抱く。
「前に言ったけどさ、うちの父親、いつもふらふらしてて、家にはほとんどいなかったんだ。入り婿だったんだけどね。反対されてたらしくて……。幼い頃に離婚して、お母さんも家を出ざるをえなくなって、一人であたしを育ててくれた」
花音は小さく息をついた。
「でも、お母さんはあいつのこと嫌いじゃないんだ。生活習慣が合わないからとか、あいつに結婚ていう形が合わないからとか、いつも、かばってばっかり……。だから、離婚してからも、やりとりはしてたみたい」
六星花学園のことも母親を通して聞いた。学費も援助してくれると言っていたらしい。けれど、花音はつっぱねた。母親は花音の意志を尊重して、それ以上押しつけてくるようなことはしなかった。
「だけどあたしは、あいつが嫌い。だって、お母さんが苦労してきたの、ずっと側で見てきたんだから。毎日仕事して、あたしの世話もして、毎日帰ってきてくれた。都合のいいときだけ思い出して、都合のいいときだけかまうなんて、そんな人に、親の資格なんかない……!」
「…………」
「だから、無視しようと思ったの。でも、そうすると、自分が薄情な人間みたいで、できなかった。こうやっていろんなきれいなもの見せられても、きっとまた自己満足なんだろうって思っちゃうし、だんだん、なんのためにこんなことやってるのかなって、わからなくなってきて――」
花音は両手で口元を覆った。
本当は、ずっと歯がゆく思っていた。ここに来るまで毎日のように葛藤していた。覚悟を決めて来たのに、最初の暗号で決着がつかなくて戸惑った。さらに、用意されていたものが予想外すぎて動揺した。
きっと、父親の見せたいものは、暗号が最終的に指し示すものだけではない。そこに至る行程すべてが、花音に教えたいものなのだ。
暗号を解く度に、今まで花音が見たことのないもの、見ようとも思ったことのないものに出会った。きっと、この先も、花音の知らない美しいものが彼女を出迎えてくれるのだろう。
親が子にきれいなものを見せたいと思ったとき、そこにある思いはなんなのか。
わかる気がする。だが、認めたくない。認めてしまったら、今までのことを全て肯定してしまうように思えて、どうしても頷けなかった。
他方で、拭いきれない違和感があった。むなしさといってもいい。感情がぐちゃぐちゃに渦巻いている中で、その中の黒いものだけが凝縮され、ふくれあがり、心の奥で鎌首をもたげる。これ以上口を開いたら、重くて黒い塊を全部律にぶつけてしまいそうだ。
「……僕は、そういう強い感情はわからない」
のど元までせり上がってきたそれを必死に飲み込もうとしていると、律が口を開いた。淡々と、独り言のように続ける。
「うちは二人とも、僕にまったく興味がなくて、ずっと放ったらかしだった。そのうち、僕の方でも、あの人達に興味がなくなった。自分の事は、ある程度自分でできるようになって、だけど、生活費や学費はどうにもできなくて。特待生の制度があって寮もあるここに入学したのも、それが理由。ほとんどのことが、僕一人だけで完結するから」
花音は少しだけ顔を上げた。
女子生徒達が言っていた律の家庭の事情。花音が聞いてもいいのだろうか。いや、なぜ今、花音に言うのだろう。律の真意がつかめない。
「僕はもう、関わるのをやめてしまったから、花音の気持ちは、あまりわからない。……でも、そんな強い思いがあるのは、本人に言いたいことがあるからじゃないのかな」
「えっ……?」
(本人に、言いたいこと……?)
「ここでやめたからといって、薄情だなんて思わない。花音が好きなようにすればいいよ。だけど、花音がどうするのかは気になる。……もうずっと、誰にも興味は持てなかったんだけど……」
「…………」
本人に言いたいこと。心の中で長年くすぶっていた思い。
ここで中途半端に終わらせて、これからもずっと、その思いを抱えていくのか。
下校する生徒達の笑い声が、次第に遠ざかっていく。
開いた窓から、幾分冷えた夕風が入り込み、のどをふさいでいた塊をすうっと押し戻していく。
「……最後まで暗号を解いたら、少しは、前に進めるのかな……?」
「さあ、わからない。でも、そのために来たんでしょ?」
突き放したような、それでいて律らしい答えに、花音は緊張していた頬を緩ませた。
人と関わるのをやめたと言いながら、花音の事情にどこまでもつきあってくれる。
どちらでもいいと言いながら、無意識なのか花音を
律のおかげで思い出した。ここに来る前に、覚悟をしたはずだ。
この気持ちを整理して、区切りをつけるために。
「わかった。もうとことんやってやる。あいつの作った謎なんか、根こそぎ暴いて笑ってやる! 律も、つきあってくれるんでしょ?」
それを聞いて、律がほほえんだ。
「違うよ。巻き込まれたわけでも、つきあってるわけでもなくて、僕が勝手に首を突っ込んだんだ。……というより、仕組まれたというか――」
「え?」
「――や、なんでもない」
律は首を横に振った。腕を伸ばして、花音の手を握る。
「ただ、気になってることが僕にもあるんだ。不自然っていうか……。少なくともそれは、確かめたい」
「? そっか。わかった」
律は何か隠している。けれど、改めて聞く気はない。言いたくないことがあるのは、お互い様だからだ。
ただ今は、父親の残したものに集中する。そして、それをどう捉えるかは、最後の最後に考える。
花音は手を握り返した。二人は顔を見合わせて頷くと、次の場所へ向かった。